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尾藤(びとう)
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尾藤の概要《尾藤の概要》 由良川右岸の支流尾藤川流域の谷間に位置する。尾頭とも記した。尾藤口と尾藤奥の2自治会を構成する。谷奥の赤目坂を越えると綾部市西坂に至る。南へ入ると南山へ通じる。 ![]() 堤防が作られ始めているが、その切れ目に対岸の蓼原村との間に尾藤橋がかかる。それまでは渡舟があった。尾藤小川尻の舟夫小屋に年中寝泊りする舟夫を雇い、給金は尾藤・南山東部130戸および常津村半分が盆と正月各戸白米1升から2升支出してあてた。また利用者からも現金を徴収した。明治以後は人・車とも2〜4銭であった。舟の新調・舟夫小屋建築は関係区域民の負担として経営していたが、昭和2年の架橋で廃されたという。堤防ができたら新しい橋も必要になるだろう。 尾藤村は江戸期〜明治22年の村名で、天正8年細川藤孝・忠興領、慶長6年宮津藩領、元和8年からは田辺藩領。尾藤は明治22年〜現在の大字名。はじめ河東村、昭和26年からは加佐郡大江町の大字、平成18年からは福知山市大江町の大字。 《尾藤の人口・世帯数》 262・84 《主な社寺など》 小字城下の丘陵端に径10メートル、高さ2メートルの古墳 尾藤市正(長野市正)の居城と伝えられる城跡 正八幡宮 新八幡宮・毘沙門・観音・権現・薬師 前田神社 ![]() 金峰神社 《曹洞宗青陽山常楽寺》 『加佐郡誌』に、 「青陽山、常楽寺 曹洞宗、天慶年間薬師如来の大仏を作り安置したのに始まる。」という。薬師如来があり頭部は平安時代の作、首から下はそれより新しい造りになっているという。 『大江町誌』は、 「木造薬師如来坐像 一躯 像高 一四七・五センチメートル、寄木造 彫眼 彩色(古色) 頭部のみ平安時代後期で、体部は江戸時代の補作である。もし、体部が完存しておれば、大江町では最大の仏像になるだろう。この大きさの坐像の仏像は、像高が約四尺であるから、この仏像が立ったとぎ、一丈六尺(約五メートとの半分の八尺(約二・五メートル)あると考えて、半丈六像という。大江町や福知山市付近では、半丈六像が最大級の仏像なのである。容貌は目が細くまことに穏やかで、定朝様の特色をあらわしている。しかし、頭頂の肉の盛りあがった肉髻と呼ぶ部分が、地髪と明確な区別がないほど大きいのは定朝以前の古様を残しているといえる。しかし、これは地方で制作された仏像によく見る流行遅れの表現で、実際の制作年代は定朝が活躍した十一世紀以後であろう。(中野) (註)寺伝によれば、本寺はもと真言宗で青陽山の中腹にあり、光明薬師如来を祀ったが、後本尊は盗難にあい池に沈み給うた。池から引き上げられて胴部が補作されたという。(豊慧自勤書記写) 常楽寺寺伝「宝永元申年(一七○四)八月開山流長和尚創立、天保九戌年四月光明寺八世還郷和尚ヲ中興ト称ス」(明細帖)といい、「尾藤村 青嶺山常楽寺は北有路光明寺の末寺なり」(加佐郡寺社町在旧記)。別にまた「元禄十四年(一七○一)光明寺二世 源嶺長流和尚現在地に寺建立」と伝える。明細帖の開山名は明らかに長流の誤記であり、開創年も近似するから問題ではない。 ただ天和二年(一六八二)編述の「丹後国寺社帖」に、既に尾藤村常楽寺の記載があることは、当寺の源流が更に時代を湖ることを示すものではないか。この意味で寺歴を語る、より昔の所伝を求めると、大正四年刊の加佐郡誌は「青陽山常楽寺天慶年間(九三八−九四六)薬師如来ノ大仏ヲ作リ安置セシニ始マル」との寺伝をのせ、また別に「陽成天皇(八七七−八八四)の頃、比丘尼、庵に住す、青陽山にその跡あり、真言宗なり」ともいう。 これらの伝承は現在同寺安置の薬師如来座像の頭部が、平安後期作(詳細、文化財)であることとかかわるのではなかろうか。 (註)薬師如来の由来を語るものに「豊慧自勤書記」(原本所在不明)がある。要約左のとおり。 「昔、疫病蔓延して、諸国薬師如来を祀り平癒を祈る。この薬師仏胎内に黄金の玉ありとの風説があって、或夜仏体と共に賊に盗まれ池に沈み給うた。十年後毎夜池に光るものあり、平作という信仰厚き老人に「我を揚げよ」との夢告があって、上げまいらせ、小堂を作り祀る、これが頭部で後に体部を補い拝した。一ころは若狭丹後の参拝者もあって賑わった。」という。 沿革 明治二十一年三月、山門(明治十四年建)土蔵を除き全焼、常津の民家を移築して庫裡とし、明治二十八年本堂を再建した。薬師堂は大正三年の改築である。」とある。 《交通》 府道西坂蓼原線 《産業》 尾藤の主な歴史記録《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 ![]() 青嶺山常楽寺は北有路村光明寺の末寺なり。正八幡宮、新八幡宮、毘沙門堂、観音堂あり。尾藤市正押領していにしへここに居城する。 ![]() 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 ![]() 尾頭村 高四百七石八斗六升 内二十六石四斗弐合 万定引 拾三石御用捨高 古城 尾頭市正 常楽寺 青嶺山 北有路 光明寺末 正八幡宮 氏神 鍵取 太郎右衛門 新八幡宮 毘沙門 観音 権現 薬師 ![]() 《丹哥府志》 〈 ![]() 【八幡宮】 【青嶺山常楽寺】(臨済宗) 【尾藤市正城墟】 【付録】(新八幡、権現社、毘沙門堂、観音堂) ![]() 《大江町誌》 〈 ![]() 昭和五十七年四月附近の農地基盤整備工事によって夥しい土器の撒布が認められ、府教委文化財保護課の現地視察で窯跡と認定された。出土土器片から奈良時代の登り窯一〜二基があったものと判断、かき出された黒い灰の層は八○センチメートルほど堆積しており、附近には須恵様の土器片が広く撒布しているのが認められた。 尾藤奥の古鉱 東北へ延びた陣取山の支脈の尽きるあたり、大成とこぎたに数個の古鉱が開口している。古い時期にかねをほったあとであるという言い伝えが残るのみである。大成のものは、明治のころある人が再掘を試みたが成功しなかった。 ![]() 《大江町風土記2》 〈 ![]() 麻呂子親王というひとが、帝の命令をうけて鬼退治にこられました。大江町をたずね尋ねて北のはまの高野村につきました。 親王は、いっき神社にがんをかけて、 「鬼退治ができれば 神社の雨だれにいつまでもうたれます」 と言って鬼退治にいかれました。そうして鬼退治ができたので、いっきの宮の雨だれにほこらを建てられた。その宮は、火ぐるま、土ぐるま、水ぐるまの鬼たちが、やしきをひいて宮をたてたが、その鬼たちがよくあばれて、とくに晩はひどくあばれまわるので、女の人やら子どもは外へ出られなかったのです。それでお米を三斗三升三合と砂を三斗三升三合まぜたおにぎりをあたえられた。 その土ぐるまが 尾藤の宮さんのやしきもひきましたので、いっきの宮と同じおにぎりをあたえることになりました。村の人たちは 鬼がくるまでに白ごはんのおにぎりをして神様にそなえましたが、鬼にたべさせるまでにいただきたいので、そっとかついできて おひつの中へ手をつっこんでとられました。そのおにぎりが土の上におちてすなごはんになったのを、鬼がいただくという習慣が今も伝わって、祭りの十月十六日の晩、たいまつをたてて その間を二人の若い人がおひつににぎりめしのいれたんをかついででられるのを、われさきにととり合って、土の上におにぎりがまきまきになるおまつりなのです。おまつりしてある神様は、藤原ひでさとという人だそうです。 (河東小5 和田智子) ![]() 何という面白いすごい伝説とお祭りだろう。尾藤の古代史が生きかえるようなたいへんなお祭りだと思う。 対岸の公庄には齋宮があるが、尾藤のあたりも竹野神社(齋神社)と関係があることがわかる。にぎりめしまつりのおこなわれた「尾藤の宮さん」というのはどの神社なのだろうか。現在『大江町誌』に掲載されている尾藤のものは、 八幡神社(誉田別命) 前田神社(不詳) 稲荷神社(倉稲魂命) 幸神社(不詳) 猿田彦神社(猿田彦神) 愛宕神社(伊邪那美神、火産霊命) 稲荷神社(倉稲魂命) で、藤原秀郷を祀る社は見当たらない。幸神社というのが荒神かも知れないとすると、前田神社か。 ![]() 藤原秀郷は実在の人物で平将門を退治した人物である。しかし両者とも伝説上で有名で、将門は総身鉄でできていて不死身であったが、コメカミだけが人身であった。アキレスの日本版といわれる。左眼を射抜かれて片目であった。また彼の首は空を飛んだといわれる。酒顛童子伝説と似てくるのである。秀郷は俵藤太秀郷となって、勢多橋で三上山を七巻半も巻く大百足を退治した話が伝わる。 尾藤の小字尾藤(ビトウ) 前田 安国(ヤスクニ) 奥清水 中村 松風呂(マツブロ) 才力谷 餅ノベ 大石 大田(オホダ) 畑ノ段 六反坪 岩尾 丁田 風呂ノ谷 有本(アリモト) 高由良(タカユリ) 宮ノ段 中島 大桑(オヲクワ) 三瀬(ミセ) 脇 中道 船戸 細畑(ホソバタケ) 関連項目![]() ![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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