丹後の地名

黒部銚子山古墳
(くろべちょうしやまこふん)
京丹後市弥栄町黒部


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京都府京丹後市弥栄町黒部

黒部銚子山古墳の概要




国道482号線を間人の方へ走っていくと、右手の山裾に見える。植林した小山にしか見えないが、全長105メートルの、弥栄町域では最大、丹後ではNo.4の巨大前方後円墳である。単に銚子山古墳と言えば、網野銚子山古墳を指していて、ここは黒部銚子山古墳と呼んでいる。「銚子(ちょうし)」というのは「酒徳利」のこと、これ↓をこかしたような形だからこう呼ばれる。この酒器は今は甁子(へいし)と呼んでいるようである。瓢箪のように見える、もしかすると元々は酒は瓢箪に入れて供えていたものかも…銚子
丹後の巨大古墳の中では最も新しく5世紀前半、あるいは4世紀末くらいと推定されている。

日本海側では100メートルを超えるものは多くはない。西側では鳥取県馬山四号墳が110メートルともっとも大きいぐらいで、東側では越前に六呂瀬山1号墳147メートル、手繰ヶ城山古墳129メートルくらい。
竹野川の流域では、この下流に神明山古墳(198メートル)、上流に湧田山古墳(100メートル)があるし、網野銚子山古墳は198.5メートル、加悦谷の蛭子山古墳は145メートル、白米山古墳は92メートルある。黒部銚子山古墳
100メートルを越すようなものはデカすぎて古墳というよりももう山で、巨大古墳と呼ばれる。
日本海側に位置する丹後の古墳の特異性を示す、円筒埴輪は丹後形もあるが、墳形といい、段築、葺石、埴輪、周濠など大和的外表装飾をもち、京丹後ではなく、大和丹後とみられないこともない。朝鮮丹後、大和丹後、京丹後、それはいいとしても米帝丹後だけにはならないようにしよう。
全長などは調査のたびにより確かな安全性が確認される(それは原発や米軍基地だった)、古墳の全長は大きくなるようで、これらは現在の調査の数字、しかし世界は広くピラミッドは一辺230メートルもあるし、始皇帝陵は周囲25キロもあるという、富の違いで、当時の富はこんなことに消費されたようである。地山を整形してこうした形にしているのだが、木ではできない、豊富な鉄器があったのではあるまいか。

黒部銚子山古墳(弥栄町黒部)
黒部銚子山古墳(弥栄町黒部)
葺石か

案内板
そこの案内板には↑
黒部銚子山古墳
古墳時代中期前半(京都府指定史跡)
前方後円墳 全長105m 後円部径70m・高さ15m
前方部幅50m・高さ11m 二段築成 埴輪列 葺石
 全長105mを測る弥栄町最大の前方後円墳で、京都府の史跡に指定されています。
 墳丘は、前方部の方向に続く丘陵から切り離し削りだして成型されています。墳丘斜面にテラスを設ける二段築成で、円筒形の埴輪片が採取されていることから、テラスには円筒埴輪が据えられていたと推定されます。また、斜面には葺石が施されていたことが、今も整美な現状からうかがい知ることができます。
 これまでに発掘調査は行われていませんが、現在採取されている埴輪片から推定すると、築造された年代は古墳時代中期前半と考えられます。埴輪の特徴が畿内でみられるものと酷似しているため、丹後と畿内との関わりを考える上でも貴重な古墳です。


古墳の周りの水田は周濠の跡で、遺存状態の良好なことは丹後随一といわれ、未発掘。丹波道主命の墓との伝承がある。

竹野川に近い位置だが、意外と標高は高い、古弥栄湖を見下ろす位置にあったのであろう。

地元の黒部の豪族墓ではなく、丹波道主命すなわち丹波王家の墓と伝わるよう。深田部神社も丹波道主命が創祀したと伝わり、王家とは関わり深い地なのではなかろうか。


黒部銚子山古墳の主な歴史記録


『弥栄町史』
 〈 銚子山古墳 字黒部
国久橋の東方三百メートル、府道峰山丹後線のかたわらにあり、前方後円の古墳で、先年東大教授黒板博士が踏査され、古墳であることが確認され、史学研究の学生等現地を視察するものは多いが、発掘されていないので由緒など判らない。
〔黒部の銚子山古墳〕 弥栄町黒部、竹野川右岸の丘陵端にある全長百五メートルにおよぶ西向きの前方後円墳ある。後円部直径七十メートル、高さ十五メートル、前方部幅四十五メートル、高さ十メートルを計る。規模においては網野町銚子山、丹後町神明山両古墳にやや劣るがその整美な形態と遺存状況の良好なことは丹後地方随一である。古墳の内部構造につ1ては未調査であるのでわからないが、外部施設としての埴輪円筒列、葺石は確認されている。現在町有地となり桧の植林が行われ名実ともに重要な遺跡として保存されている。
 弥栄町には、銚子山古墳のほかに五世紀代に築造されたと考えられるものでは国久の田原古墳、鳥取のニゴレ古墳、和田野の大田古墳、吉沢の吉沢古墳などがあげられる。また、古墳時代後期になると、大陸朝鮮半島を経由して横穴式石室の築造技術がもたらされ各地に大小さまざまの古墳が作られるのであるが、弥栄町でも谷あいの丘陵斜面に多数の横穴式石室がある。国久の岡田古墳、塚田古墳群、鳥取の石穴古墳、御殿口古墳、木橋の遠所古墳群などはいずれも未調査であり、その規模は明らかでたいが、巨大な自然石を積み上げた横穴式石室であり六世紀後半から七世紀はじめにかけて築造されたものである。  〉 


『宮津市史』
 〈 古代において、大陸や朝鮮半島に近い日本海側の地理的条件とともに日本海文化の交流を支えたのは、山陰海岸に点在する砂嘴により形成された天然の良港である潟湖(ラグーン)である。弥生時代後期の一大集落である妻木晩田遺跡・向山古墳群、壁画で知られる上淀廃寺が築かれ栄えた鳥取県淀江町や長瀬高浜遺跡、鳥取・島根随一の前方後円墳北山古墳、馬ノ山古墳を抱える東郷池の周囲(鳥取県東郷町および羽合町)は、その海への出口が埋没してわかりにくくなっているものもあるが、もとは天然の良港である潟湖を形成していた。丹後半島でも、久美浜湾は潟湖を残しているし、網野町離湖もその名残りを見てとれる。三浦到氏は、今日では埋没してわかりにくくなっているが、巨大古墳の存在する地域にも天然の良港(潟湖)が存在したことを指摘し、港の奥に横たわる、葺石が葺かれて白く輝く巨大な前方後円墳が、入港する船やさらに東西へ進む船の航路を導いていたことを想定された(「丹後の古墳と古代の港」)。丹後に近い兵庫県出石町袴狭遺跡では、古墳時代前半期の溝から日本海を進む一六隻からなる大船団の姿を線刻した木製品が出土した。この大船団は、大和を出発して丹後まで陸路で至り、丹後から朝鮮半島や中国大陸へと向かう船団ではないかと想像される。それとも丹後独自の大船団であろうか。また、丹後の海や港に朝鮮半島や大陸からも大船団が訪れたことが想像できる。日本海は、当時の交通の大動脈を担い、その出発点に網野銚子山古墳や神明山古墳が見下ろす天然の良港があり、そこに倭王権もしくは丹後の在地勢力が威容たる前方後円墳を築いたことが想定される。 神明山古墳のつぎに築かれる巨大な前方後円墳は、中期前半(五世紀前半)頃に築かれた、全長一○五メートル、後円部径七○メートル、高さ一五メートル、前方部幅四五メートル、高さ一○メートルを測る弥栄町黒部銚子山古墳である。竹野川右岸を河口から五キロメートルほど上流に遡上した内陸部に位置する。現在のところ、丹後に築かれた最後の葺石・埴輪をもつ前方後円墳であり、佐紀盾列古墳群の終焉と連動するかのように丹後での整美な前方後円墳の築造は終了している。  〉 




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はえている木を切れば、すぐにも大崩壊してしまいそうな花崗岩の砂の山々である。その堆積土を取り除いてみると…

↑5メートル海水面が上昇した場合。一般には潟湖があったというくらいで、これほども古代と現代の差はないと見られているようである。
しかしこれでは離湖がまだ海から離れているので、もう少し高かったのではなかろうか。浦島神社のあたりも注意。

↑10メートル上昇した場合。これで黒部銚子山古墳は海辺に位置する。もう潟湖ではない、地形的な入り海であろうか。


↑ついでに15メートル上昇すれば。こうした時代も過去のいつかにはあったと思われる。弥栄町にも海があった。


↑15メートルで丹後全域で見れば、加悦谷の蛭子山古墳も海辺になっている。加悦町にも海があった。
(これらの図は、海面を上昇させて描いているが、本当は海面が上がるのではなく、地面が下がるのであって、それができないから、近似的に描いたアバウトなものである)
   

関連情報




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹後資料叢書』各巻
『弥栄町誌』
その他たくさん
 



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