鉄の弥加宜神社2
『加佐郡誌』は、河守上村字内宮に弥加宜神社を挙げている。祭神は大筒木垂根命となっている。
この社は『丹哥府志』に、 〈 ◎内宮村 (二俣村の次) 【内宮天照皇太神宮】(元伊勢太神官といふ) 境内八幡宮、春日社、構現社、八十末社。 【附録】(三日月大明神、山神、荒神森) 【御 霊 社】 【附録】(三宝荒神) 〉 の「三日月大明神」と思われる。江戸期には三日月と書いたようだが、本当は弥加宜神社であったのかも知れない。 伊能忠敬の測量隊がここを訪れ、日記に記録している。 文化十一年二月七日 朝曇天午後晴の日であった。『大江町誌』によれば、 〈 … 式外与佐宮内宮社 祭神天照太神寄附米四石三斗 神主河田伊賀鎮座崇神天皇三十九年 和川笠縫ノ里ヨリ此所ニ御遷坐アリ垂仁天皇二十六年 伊勢国度会郡五十鈴川上ニ御鎮座 祭日三月廿六日九月廿七日 本社ヨリ右天手力雄命左拷幡千ゝ姫命 合殿末社八十坐 又?印初 天ノ岩戸江打上 佛性寺村華表又華表左神楽殿あり 二瀬川端ニ出ル此所ニテ岩戸川ト云 左右川岸大巌石絶壁也 夫ニ岩戸大明神社あり ・四町三十○間 岩戸川中ニ大岩あり 旧跡御座石神楽石 此辺惣名真名井ヶ原と云 又内宮村三辻?印初街道側 人家町並七十八軒世人本伊勢卜云 上岸川宇治橋三間二尺 右二町斗山添森中ニ三日月大明神上岸(ウワギシ)川一本橋巾五間 五十鈴川高橋十二間二俣村字馬谷 字大畑 字岡ノ段奥谷川土橋二間 字向山天田内村枝乎 ?印ヲ残迄?二十七町三十三間此ヨリ外宮へ打上ケ 華表社前迄ロ 二町三十三間… 〉 とあり、『大江町誌』は注して、 〈 三日月大明神は現内宮村氏神 弥加宜神社の前身である。もと川を隔てて梅ヶ平山麓に鎮座。明治二年「御一新ニ付」弥加宜神社と改号。明治十四年現在地に遷された。(棟札・区有文書)当然、測量隊は道の右二町に見たわけである。. 〉 としている。明治十四年に遷された「現在地」は内宮305とある。 元伊勢さんの駐車場のあるすぐ近くで、府道と鉄道の間にある。府道から少し高い森の中に、伊能忠敬の時代とは逆で左に二町斗もないくらいの所である。 弥加宜神社の左脇に梅ヶ平天満宮が祀られているが、元の鎮座地と伝える梅ヶ平は宮川の西側で、今は何もないようである。 元々はもっと川上にあったかも知れないと想像する。あるいは北原であったかも知れない。あるいはもっと奥かも。 もし北原なら、そのピラミッド山(日室山)のちょうど裏側にあたる。まっすぐな耕地などはない地であり、嶮しい山肌の段々畑である。平家の落人の里と書かれているが、この村は鉄の村としか判断しようがないと思える。ここはまた鬼嶽稲荷への登山道にあたる。途中に鳥居が建っている。 さて、三日月神社ならここのほかにもある、『丹哥府志』に、 〈 ◎仏性寺村(内宮村の北、是より千歳嶺に登り宮津に出る) 【岩戸社】(出図) 日裏嶽の麓、二瀬川の崖の臨みてあり。 【鎌鞍山仏性寺】(真言宗、如来院といふ) 【鬼茶屋】 在昔源頼光鬼賊退治の砌ここに憩ひ、二瀬川に人の死骸の流るるを見て賊の住所の近きをさとり、大江山に登りしこと中茶屋の条下にいへり。 【付録】(三日月大明神、三宝荒神) ○毛原(仏性寺村の枝郷) 【付録】(三日月大明神) 〉 とあり、仏性寺と毛原にもあった。 どうやら弥加宜社がムレである。複数である。えらい話になってきた。 私は探すのだが、みつからないでいる。江戸時代の話をしても誰も知らない。内宮さんにありませんか、とおっしゃるので行ってみれば、確かにそこにはある。 皇太神社(=元伊勢・内宮)の境内社に祀られている。三上神社もあり、三上山(=千丈嶽・大江山)はあるいは、近江の三上山かも知れない。ちょうどそんな位置に三日月神社群が鎮座している。 銅を出した河守鉱山の麓であり、このあたりは鬼の棲家として大変に有名で、鬼の本場である。今も、観光宣伝用だが、あちこちに写真のような鬼が立ってござる。 青鬼の青が何の意味かわからなかったのだが、真砂の色だそうである。この砂からはいい鉄が採れるそうである。 三日月神社とはたぶん弥加宜神社であろう。すでにちゃんと来ている。彼らが来るべき所に。大挙して。 大江山は近江の三上山であるかも知れず、あるいはこの山頂に三日月神社があったかも知れない。「元伊勢」とはこの氏族の祀るものであったのかも知れなくなる。 これらの神社群はずいぶんと古く、この地の古代史を語るものと私は思う。 大江町 ミカゲのカゲはカグで銅を意味している。 コーモリは古くはカゴ すでに先住の鉱山士たちのいる地であったが、ここへ近江勢も目をつけた。資源争奪のきびしい戦争になった。大江山の銅だけでなく、大雲川の水運権もかけたものでもあった。大雲川のクモもあるいは、コーモリの転訛かも知れないが、それは置くとして、 残欠は次のように記している。 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原(今の千原)ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原(今の蓼原)ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山(今の大江山のこと)ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占(由良の石浦)ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食) 〉 日子坐王側の資料しか残されていないので、本当はどうなのかはわからないが、恐らく日子坐王の資源を求めての侵略戦争であろう。
『舞鶴市史』によれば勘注系図には、
〈 三世孫「倭宿祢命」の書入りには次の通り式内社弥加宜神社の祭神にかかわる部分が見られる。 亦名天御蔭命亦名天御蔭志楽別命母伊加里姫命也 弥加宜社祭神天御影命 丹後道主王之祭給所也 〉 『丹哥府志』は、 〈 (延喜式) 弥加宜神社今弥山と称す、青葉山に上に在り、松尾寺より廿八丁登る、俗に青葉山権現といふ。富士、浅間、白山、熊野権現を合せ祭る、松尾寺の奥の院なり、汚穢不浄の者参るべからず。頂に大なる岩あり其岩に瘤の如き小石處々に出る、小石によりて岩に登り数千丈の下を臨む、凛乎として留るべからず、之を上の坊といふ。 〉 青葉山上に式内社の弥加宜神社があったという。青葉権現がそれだという。青葉権現に弥加宜神が祀られているという話はこの書しかないのだが、しかしそう言われてみれば、行永には青葉中学校があり、故地近くに青葉山もある。 意外というのか、予想されていたというのか、青葉山の陸耳御笠や土蜘蛛とは実は天御影命の別名と、いうことにもなる。退治された者と退治した者は同じようなものということか。 大江山がそうであれば、青葉山もまたこうであった、のかも知れない。 天御蔭志楽別命を祀る社を知らないが、たぶんそれは市場の八幡神社なのではなかろうか。
丹後冨士とも呼ばれる西舞鶴の
こんなことでここも天御影命と何か関係があるかも知れないと私は考えていた。 推古も幼名を幼名・額田部皇女と呼ばれたのであったが、額田部氏はたくさんあって、喜多の額田部氏がどれなのかわからないが、 『新撰姓氏録』に、 〈 左京神別下。天孫。 天津彦根命子明立 とある。明立天御影命とは天御影命のことである。 三上山の天御影命の後裔氏族は額田部とも名を替えている可能性がある。額田部氏は産鉄族だと吉野裕氏は言っている。 『丹哥府志』に、 〈 ◎喜多村 【三宅神社】(延喜式) 三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日 【付録】(天照大神宮、薬師堂) 〉 『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、 〈 喜多村 天照太神宮宮崎九社明神九社の内、毘沙門堂あり 〉 『丹後国加佐郡旧語集』に、 〈 喜多村 高二百二拾六石 以前ヌカタベ村 内二斗六升四台 万定引 五石御用捨高 宮崎九社明神 六月十日祭 九社之内 天照大神宮 当宮の事御代官高取助内を頼尋たりし庄屋より 書付左之通り(−略−) 薬師 八月七日祭 毘沙門堂 〉 毘沙門があり、薬師があり、九社があり、屯倉かも知れない、天照太神宮…皆皆、ここが金属の地であることを告げている。−ように私には思われる。 夜久野町の東経135°線が通る所に 『丹後国加佐郡旧語集』は面白い事を書いている。上では途中を略したのでそれを引いてみよう。 〈 天照大神宮 当宮の事御代官高取助内を頼尋たりし庄屋より書付左之通り 百年程以前ぬかたべと申時分村より沖江猟船出候阿る夜東の方よりたいまつ一把ほどの光りに成て則今の屋敷五間四方程の小畑御座候 其ふちに高さ一丈ばかりの樫木一本御座候 其木のりんに御はらひ一把とまりて御座候 其節右之通御公儀様江申上候処早速御神楽御上なされ就者御たくせんに東白糸の浜に居たれども阿まりのむさゝに此所江いほりをしてくれとあり 則屋敷御譜請御公儀様より被遊候 抑本社 一間ニ一間半 風ノ宮 五尺四方 中ノ庭 二間四方 舞台下ノ間 六間ニ十間 稲荷宮 右立申候時分前庭九右衛門殿度々御見廻被成候其節御被はんこもあり 御家中町方から御はらひ入申候へ共只今ハはんこも無御座候 庄屋 惣右衛門 藤波二位景忠卿ニ伺申上シニ神明勧請卜申事者決シテ無之事之由仰有シ由 然共所々神明宮有事ハ御諚有シ所ニ御抜を祝申候事カ 〉 天照皇大宮は今はないが、上に引用の話では、この社は東白糸と何か関係がありそうに思われる。 白糸は東舞鶴湾の南側の浜であって、古代は枯木の浦と呼ばれた。ここは弥加宜神社の境内地のような所である。 ここから移動したのでなかろうかとも考えられるような話である。 先の大江町内宮の元伊勢内宮(天照皇大神社)とその隣に鎮座する弥加宜神社の時にも、あまりに近いので両社には何か関係があるのではないかと感じたのであるが、ここでも同じような疑問が湧いてくる。弥加宜神社と関係があるというのか、実は土蜘蛛と深い関わりがありそうに感じられる。 東白糸とはどの辺りかわからないが、現在の白糸浜神社には天照皇大神社があるし、市場八幡神社にも祀られている(上写真)。阿良須神社にも鹿原神社にも大波下熊野神社にもある。
多禰寺縁起。そのまま読むのは大変なので正確に訳してくれているもの、『医王山多祢寺』(同寺のパンフ・平5)に、 〈 開創 多禰寺は、密教嗣続の霊場で、第二十一代用明天皇の即位二年(五八七)、王子麻呂子親王(または金麻呂親王ともいう)が開創した寺であります。 与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土能の三鬼がこの地方の庶民を苦しめました。天皇はこれらの賊を退治し、人民を救済しようと鬼退治の将軍に諸宮の中から麻呂子親王を選ばれました。親王は、天性雄健で厚く仏教を尊崇していました。親王は、鬼賊の誅伐は容易でないと考え、出発にあたり仏陀神明の妙力を得る為、七仏薬師の法を宮中で修め、小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏として身につけました。また、伊勢神宮に詣でて神徳の加護を祈りました。七仏薬師とは、第一に善名称吉祥王如来、第二に宝月智厳光音自在王如来、第三に金色宝光妙行成就如来、第四に無量景勝吉祥如来、第五に法海雷音如来、第六に法海時慧遊戯神通如来、第七に薬師瑠璃光如来であります。 これより丹後の国に赴く途中、不意に白犬が現れて親王に宝鏡を献上することがありました。親王はこれは開運の祥瑞であろうと喜ばれました。ようやく黄坡、雙坡、小頚、綴方の四人の従者とともに鬼の巌窟にたどりつき、激戦の末、英胡、軽足の二鬼を退治し、逃げる土熊を追って竹野郡の巌窟に至りましたが見失ってしまいました。この時、さきの宝鏡を松の枝に掛けたところ、土熊の姿が歴然と鏡に映ったので、ついにこれも退治することが出来ました。 その後、宝鏡を三上ヶ岳の麓に納めて、大虫明神と号しました。 鬼退治が終わってから、親王は、神徳の擁護に報いるため、天照皇大神宮の宝殿を竹野郡に営み、これを齋大明神と言い、その傍らに親王の宮殿を造営しました。また、仏徳の加護に報いるため、丹後の七ヶ所に寺を建て七仏薬師像を安置しました。七仏薬師の寺というのは、加悦荘施薬寺、河守荘清園寺、竹野郡元興寺、同郡神宮寺、溝谷荘等楽寺、宿野荘成願寺、白久荘多禰寺の諸寺であります。… 〉 天照皇大神宮を竹野郡に営み、それを この多禰寺縁起の元となったといわれる『田辺府志』の記事は「丹後の伝説30・多禰寺縁起」に引いておきます。 これは竹野神社のことで、本殿に天照大神が祀られている。写真の中央が本殿、右手が摂社の齋宮。 『京都府の地名』に、 〈 竹野神社 現・丹後町宮 宮谷 竹野川河口、神明山古墳の傍らに鎮座。「延喜式」神名帳に竹野郡「竹野神社大」とみえる。祭神は天照大神。旧府社。竹野神社を通称斎宮というが、斎宮は本殿横に、境内摂社として斎宮神社が別にあり、日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命を祀る。 斎宮神社は社記によれば、垂仁天皇に仕えていた丹波の大県主由碁理の女竹野媛が、年老いて郷里竹野の地に帰り天照大神を奉斎したのに始まると伝えるが、丹波竹野別の祖建豊波豆良和気命や竹野媛命を祀るのはそのゆえか。… 〉 竹野神社は鬼の神社と私は考えているが、その本殿に天照大神が祀られている。内宮も外宮も鉄だと言った先人があったが、卓見だと思う。
『わが郷土・まぐら』(嵯峨根一正・平1)に、 〈 真倉を救った大森神社 『昔、ここいらへんに大飢饉があって、真倉のもんの食うもんが無いよんなって、村のもんが飢え死するゆうんで、村人を救うために、東舞鶴の弥加宜(別名・大森)神社の稗三俵と真倉の大森神社の御神体とを交換したんやそーな。』 大森神社(大森) 祭神・久々能智神。例祭日・十一月二十七日。 通称〃大森さん〃と呼ぶ。府地誌に「大森神社、社地四履欠ク面積十坪余、本村字大森ニアリ久々能智神ヲ祭ル創立年紀及上祭日詳ナラス] 古いところでは、元和元(一六一五)年の迫田家文書に「みやけ谷、此所かい道ノ下田中 大森明神有り」とある。また、明治十年の区文書に「字大もり、三百七十七番 大森社 壱畝歩 村社」とある。昭和二十四年、国有地であった境内地が区に無償譲渡されたが、その時の図面には反別七畝八歩(台帳坪数二一八坪)とある。 昭和六十二年十月、神殿改築時発見された元文五(一七四○)年の棟札を紹介する。この棟札には大森の人と思われる六名の名前が記されているが、現在のどの家の人か分っていない。大森の人達で何かを祈願したものと思われる。棟札の他に金属製鏡(径九センチ)も保存されている。 大森神社のお仕えしめはキツネという。各地で行われた「キツネ狩り」の行事は、害獣を除くという目的で行われたが、真倉では「キツネがえり」といわれた。一時期、下地区(大森・下近)で行われた事があって、この時、村に多くの病人が出たり、人にキツネがついたり、村に大異変が起ったのであった。これは大森神社のキツネのたたりというので、それ以降、下地区では行わなくなり上地区だけの行事として、昭和三十八年頃まで続いた。 東舞鶴の弥加宜神社は「大森神社」の別名の方が知られているが、真倉の大森神社との関連を年輩の人は次のようにいう。 「昔、ここいらへんに飢饉があって、真倉の者の食べ物が無いようになって飢え死するとゆうんで、〃東の大森さん〃の稗三俵と真倉の大森さんの御神体を交換し村人を救ったんやそうな。」と。事実、弥加宜神社には今も稗蔵があるという。また、「昔は大森さんの祭りには、必ず真倉に招待があり、真倉の者が到着せんと祭りが始まらなんだ」ともいう。しかし、両大森神社の継がりを証明する文献等は何もないようである。 このように、村人を救うために身売りした真倉の大森神社にも御神体の一部が祀られているといい、十一月二十七日が例祭日で午後から近所(七組と八組の一部)の人達により参道・境内の掃除が行われ、引き続き祭典を行う。御神灯をつけ、神酒と参拝者が持ってきたお菓子などを供え、全員神殿前で心経(三回)を唱える。その後、神酒をいただき、お供えした菓子などを参拝者に均等に分け持ち帰る。これは金比羅神社と同じ習慣である。また、各戸の古い御札類はこの日境内で燃やし処分される。 昭和六十二年の例祭日には、再建立落成式か盛大に行われた。 稲荷神社 元来は農耕神であり、中世から近世にかけて商工業が発達するにつれて、商工繁栄のための神として信仰されるようになった。真倉には笹ヶ谷に土淵株の稲荷神社、大森に当勝稲荷神社、そして下近の稲荷神社、境内社としては、上檀神社境内小宮に把られている。 土淵株の株荒神として把る稲荷神社は薬王寺参道途中にあり、伏見稲荷を勧請されたもの。お祭りする日は初午の日(株講の日)である。昭和五十八年、再建された。当勝稲荷は大森の共同墓地下にあり、通称〃マサカッさん〃と呼ぶ。兵庫県山東町梁瀬の当勝稲荷神社を勧請されたもので、勝負の神として知られ、今も試験などの合格祈願をする人がいる。… 〉 真倉の大森神社 |
資料編の索引
『京都府の地名』に、 …西隣の北原村に至る道を少し入った南側山上に、梅ケ平(だいら)とよぶ台地がある。昭和初期台地の畑から数十個の石鏃が発見され縄文−弥生時代の遺跡(梅ケ平遺跡)と考えられている。また村域内には横穴式石室を有したと思われる円墳(城山古墳)もある。 「梅ヶ平遺跡」 |
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