(付) 浮島丸事件
第二次世界大戦の終結により、戦時中、大湊海軍施設部などで働かされていた朝鮮の人たちとその家族ら三、七○○余人を乗せた海軍特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)は、昭和二十年八月二十一日、朝鮮へ向けて青森県の大湊港を出航した。その途中、突如、日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以降航行を禁止、航行中の艦船は最寄りの港へ入港すべし、という連合国軍最高司令官の指令で航路を変更し、舞鶴へ入港することになった。ところが、二十四日午後五時ごろ、舞鶴湾内の下佐波賀沖にさしかかった際、突然、大爆発とともに船体は真二つに割れて沈没した。急報によって舞鶴海軍防備隊、同港務部、同海兵団始め地元佐波賀の人々がカッターや小船を出して現場へはせつけ、救助に当たり、近くの平海兵団や舞鶴海軍病院に収容して手当てを加え、遺体は舞鶴海兵団の仮埋葬地に葬った。この事故による死亡者は五○○余人に上り、そのほか多数の重軽傷者を出した。救助に当たった舞鶴海軍病院はその実情を次のように報告している。
浮島丸救難実状報告
舞鶴海軍病院
一、患者収容の状況並に転帰の概況
昭和二十年八月二十四日平海兵団より浮島丸遭難患者多数発生の報に接し同日二○一五収容隊を派遣せしむ、即ち指揮官軍医中尉島田浩水 同附海軍上等衛生兵曹松田宏隊員十三名患者「バス」に乗車二○三○本院出発一二○○平団病院着収容を開始し、○後本院「トラック」患者「バス」総動員にて収容に当れり、隊員小数なる為平団衛生兵の応援を依頼し、「トラック」には一回要担患者約六名患者バスは軽傷者約二○名宛にて収容、翌二十五日○一○○を以て右収容を打切れり、其間本院に於ては当直員全員をして多発傷病患者収容部署に依り応急処置を施し治療品等も全部搬出準備し、万全を期しありて右応急処置終了のものより順次本院に送院せるものなり。
而して平団病院は狭小なる為室内は言うに及ばず附近の練兵場又は空地に収容しありて附近は歩行不可能なる程多数の患者なりき、その数二千名なりと言う。本収容隊は以上の如く職務に最善を尺し疲労も意に介せずよく最後迄頑張り○一○○に至り一応その任務を終了せるものなり
而して本院に収容せる同船患者の総数は百五十九名にして内三名の死亡を見たり、又、同患者は九月十六日を以て僅か一名の患者残し全部帰鮮せるものにして内五名の患者は旅費等全く所持金なき為本院にて便宜立替支弁せる状況なり
二、同船患者入院中の状況
食事は患者食を供し患者衣一、藁等ヘッド一、毛布二枚宛を貸与し治療に関しては手術、「ギブス」固定包帯等を施しその他の近代医学及びその技術を以てこれに当り万全を期したるものにして
一般下士官兵の治療と何等の差異なきのみならず寧ろ後日の兎角の批評を慮り之が治療には細心慎重に従事せるものなり、万全を期したる治療にも拘らず遺憾ながら左の三名の死亡者を出せるが、之が死因は頭書の病名の通りなり。
死因 氏 名(略)
備 考
一、患者食 一回量 米七分麦三分 計百九十一 副食物(豆腐、馬鈴薯、玉葱、青菜等)
二、看護員 看護婦十六名 衛生兵(特志)六名
当直は三直制にして兵一名 看護婦三名
終
(舞鶴市役所文書)
また、乗船者および遭難死亡者数は、引揚援護庁復員局第二復員局残務処理部の発表によると次の通りである。
昭和二十八年十二月
輸送艦浮島丸に関する資料
第二復員局残務処理部
一、輸送の経緯
終戦直後大湊地区に在った旧海軍軍属朝鮮人工員多数は連合軍の進駐を極度に恐れたためか帰鮮の熱望を訴えて不隠の兆を示した。当時日本海軍としては既に解員手続きを完了した元工員に対して之を帰鮮せしめねばならぬという義務はなかったけれども事態の平隠な解決を欲したので特に特設輸送艦浮島丸(四、七三○トン)に彼等を便乗せしめこれを朝鮮に輸送する如く準備し昭和二十年八月二十一日朝大湊を出港した。
二、浮島丸の便乗者
同船は朝鮮人元工員二、八三八名、同民間人八九七名計三、七三五名(外に正規の手続きを経ずして殆んど乱入乗込ともいうべき者が少数あり)を収容した。
三、浮島丸が舞鶴に入港した経緯
「マニラ」に於て日本側代表者に手交された連合軍のRequirements Document No.3 に依り日本の全船舶は昭和二十年八月二十四日以後航行を禁止せられ、航行中の船舶は最寄りの港に入泊すべき旨指令された。
浮島丸はこれに基く中央からの命令により無通告にて舞鶴港に入港したのであるが、昭和二十年八月二十四日投錨前舞鶴湾内蛇島の北方に於て連合軍の敷設した機雷に触れ、沈没するに至った。
四、遭難死没者及びこれに対する通報
(イ) 朝鮮出身死没者は次の通りである。
区分 |
便乗者数 |
死没者数 |
記事 |
大湊海軍施設部工員 |
二、八三八 |
三六二 |
|
民間人 |
八九七 |
一六二 |
死後一〇六は軍属とす。残り五六は十三才以下のもの。 |
計 |
三、七三五 |
五二四 |
|
「註」外に便乗遣骨十九柱がある。
(参考)
固有乗員の軍人二五五名中、死没者二五名(遭難当時遺体未収容)あり、依って死役者の合計は五四九名となる。
そのうち遭難当時遺体を収容せるもの一七五体、救助されて後病院に於て死没したるもの七名計一八二柱である。依って船内残存遺体は三六七体となる。
(略)
市の浮島丸事件に対する基本認識はこんな程度のもののようである。大本営発表をそのまま信じて疑うこともない。市の認識は正しいものではないが、だいたいこうした事件だったと多くの舞鶴市民の間では長らく信じられてきたものである。