鎌倉(かまくら)
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福井県大飯郡高浜町鎌倉 福井県大飯郡内浦村鎌倉 |
鎌倉の概要《鎌倉の概要》 舞鶴から行けば登尾の先、潮汲峠へ出て、県道21号(舞鶴野原港高浜線)から舞鶴カントリーへ行く道を少し入った所の集落。 青葉山は当地からのながめが一番美しいと言われるそう。 鎌倉村は、明治12~22年の村。上鎌倉村と下鎌倉村が合併して成立。滋賀県を経て、明治14年福井県に所属。同22年内浦村の大字となる。 鎌倉は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北4町余、戸数29、人口は男84 ・ 女80。 《鎌倉の人口・世帯数》 67・30 《鎌倉の主な社寺など》 杉森神社 『高浜町誌』
鎌倉の字家中にあって伊弉冊尊を祀ってある。この神社では年々人身御供を献ったが、中古よりは長さ一尺五六寸(約五〇センチ)ある花びら形の白酒と御飯とに代え、五節句毎に祭典を行ってきた。 『大飯郡志』 村社杉森神社 祭神伊奘冊尊 鎌倉字家中に在り 社地四百三十八坪 氏子二十八戸 社殿三間二間 神楽殿二間半六間 鳥居一基 境内社三社 出雲神社祭神大国主命 社殿二尺四方 愛宕神社祭神軻偶突知命 社殿二尺四方 山神社祭神大山祇命社殿二尺四方 〔若狭郡縣志〕三所権現社在上鎌倉村爲産神九月九日有祭禮(寛永四年國中高附)上鎌倉三社権現 九月九日湯立仕候 〔神道八所卷〕熊野大権現本地那智本宮新宮也御身體鏡ノ内鑄付六體有 又云御身體中左右一戸前各三體有中ノ三神ハ那智本宮新宮ナルコト明也左右ノ六尊ハ熊野王子ヲ勧請シタル者ナルヘシ但本地垂迹ナレハ三扉合シテ九尊ハ不知事也南方二戸前ハ熊野王子ト定メタリ又云末社天昭皇太神 文化十一年正月十九日勧請 又奉御造月 正徳五年 又奉再建熊野三所御社 文政八酉 (按に或は〔若狭國神名帳〕に見ゆる從四位鎌掠明神 遠敷郡?) この神社にては年々人身御供が献りたりしが、中古より長さ一尺五六寸なる花辨形の餅と白酒と御飯とに代へ、五節句毎に今猶祭典を執行すといふ。秋例祭には囃子太刀振など普通なるものなれども、臨時の豐年祭には特異の神事あり、諸方五人編笠を被り裃をつけ床几に腰かけてうたふ。又神報知といふ一人の役は頭に兜巾を被り、椿の枝に瓢箪蕃椒などを吊りて之か擔ぎ、手に唐團扇を持ち、先頭に起ちて觸れまはね、又二人は姫御の服装にて、大鼓を打つ、又一人は裃をげ編笠を被り鉦鼓を打つ、又別に子供五人詐笠を被り打揃ひて踊る、謠の題目は長者、花見、鳥籠、尾張、綾、商、鳴子の七題をすといふ。 臨済宗東福寺派鎌倉山永源寺 『高浜町誌』 臨済宗東福寺派 鎌倉山永源寺 一 所在地 高浜町鎌倉野瀬 一 開 創 天平年間(一二四七~) 一 開 基 行基菩薩 一 本 尊 釈迦牟尼仏 脇侍仏 阿弥陀如来 弥勒菩薩 一 檀家数 二一戸 一 由緒沿革 聖武天皇の御宇、天平年間行基菩薩の開基と伝えているが、その後中絶していた。文永年中(一二六四~)白雲仏禅師により再興。中世に至り夢山秀覚和尚諸堂再建して法燈絶えることなく継承されていたが、明治三三年九月罹災し、現在は仮本堂である。 当寺境外仏堂は文化八年(一八一一)の建立で、行基菩薩の御作と伝える薬師如来が祀られている。 『大飯郡志』 (鎌倉山)永源寺 臨済宗 東福寺末 鎌倉字野瀬に在り 寺地百三十四坪 檀徒二十七人 堂宇八間四間 [明細帳] 本尊釋迦如来 阿弥陀佛弥勒菩薩 由緒聖武天皇御宇天平年行基菩薩開基其後中絶文永年中頃我本山開祖聖一國師御子夢山相尚再建(明治三十三年罹災仮の堂宇あるのみ) 比叡川城趾 『大飯郡志』 比叡川城趾 鎌倉相迫山に在り、領主比叡川殿の城趾なりと傳ふ。今尚壕と石壘を認得。附近に道場刈と稱する小原野。比叡川樣と稱する塚趾あり、老松繁茂せり。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 鎌倉の主な歴史記録鎌倉の伝説『若狭高浜むかしばなし』 鎌倉の狐狩り むかし昔のことだ。栃尾西山の御所ヶ谷には、都を逃れた後醍醐天皇の皇子がひっそりと隠れておった。 ところがある日、皇子はひどい病気にかかり、熱がなかなか下がらない。村の医者が診ても、原因さえさっぱりわがらなかった。そんなとき、一人の村人がいった。 「狐の仕業に違いない。」 他の村人も、揃ってうなずいた。 「そうやそうや、そうに違いない」 狐が憑いていると考えた村人たちは、みんなで狐を退治することにした。皇子のお世話をしていた神主さんが指揮をとり、付近の村すべてが協力しあい、狐狩りをすることになったのだ。 皇子の病気を治すために行われた狐狩りは、その後、この地方の行事ともなった。 「われら何をするー若宮のまつりとて…狐狩りや…狐鳴きやー天鳴く…鳴く狐ー耳をへてー狐狩りや…お~い」 正月十四日の夜更けから翌日の明け方まで、各村の若い衆はこう歌いながら狐をとなりの村まで追い込む。山中から歌声が聞こえてくると、今度は鎌倉が歌を歌って狐を追い、そして次に下へ渡す。というように、順番に狐を遠くへ遠くへ追いやっていくのだ。 狐狩りは、山野の作物を荒らす狐を一年の初めに封じるためとも、鎌倉では言い伝えられている。 『高浜町誌』 きつね狩り(青葉山麓) 正月一四日夜更けから、翌日の明け方まで、各村の青年が宿に集まり、昔から村に伝わっている狐狩りをする。辻あるいは村の境界まで、狐狩りの歌を歌いながら歩いて行き、歌の終わりのところで特に大きな声を張り上げ、ながーく引っぱって歌い止める。 この狐狩りは昔、後醍醐天皇の皇子が、都をのがれて、丹後国加佐郡大浦村栃尾西山の“御所が谷”に落ちのびられたが、そのときおからだにおなやみ(病気)があった。 占いの人が、それを狐の仕業であると言ったので、この村々に布令を出して、村人に狐狩りを命じたことが始まりだと言われている。 (『越前若狭の伝説』一部補修原文のまま) 『大飯郡志』 狐狩 正月十四日深更より翌日暁天にかけて、各區の青年所定の宿に集り、區内を木をたゝきつゝ、古来より傳はれる狐狩の歌をうたひつ丶各區の境界或は辻に至り、其歌の終句を、殊更に大聲に且つ長く引きてうたひやむ。傳ふこれ往昔後醍醐天皇の一皇子逃れて、丹後國加佐郡東大浦村栃尾西山の地御所ヶ谷に落ちさせ給へる程に、御惱ありしを卜者狐の仕業なりと云ひければ、各區内に布令して狐狩をなさしめたる古事によれるなありと。 「鎌倉」のはじまり 「鎌倉」の南の方に、〝経(きょう)のべ山〟と呼ばれる小高い山がある。そこには金比羅さまがおまつりしてあり、頂上からの眺めはなかなかのものである。 ある時のこと、ひとりの他国もん(他国の者)が訳あって、はるばるこの地にやってきた。しかし地元の者たちは、それをあまりこころよく思わなかった。そして〝経のべ山〟を指さして。 「あの〝経のべ山〟の金比羅さまに参ってお経を上げてからでないと、この国には入ってはならない」と冷たく言い放つのだった。 それからというもの、他国もんは必ず〝経のべ山〟の金比羅さまにお参りして、お経を上げてからこの地に入ってくるようになったという。 〝経のべ山〟から眺めると北の方に、もうひとつ別の山があり、昔そこには城がたっていたそうである。その城は、外敵の侵入を防ぐ要所であったといわれている。 この地に限ったことではないが、昔は他国もんの侵入は、地元の者からたいへん恐れられていた。そんな時代の話である。 鎌倉の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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