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五千石騒動(ごせんごくそうどう)
京都府福知山市


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京都府福知山市

五千石騒動の概要


福知山藩の「享保の強訴」や「万延の強訴」は知られているが、隣接地の飯野藩領(保科領)で発生した「五千石騒動」はあまり知られていない。史料も少なく、「五千石強訴記」「五千石徒党乱妨次第書」「郷内乱妨之節御見舞覚帳」。いずれも『福知山市史史料編』に所収。

今は同じ福知山市になっているが、大江山中というのか三岳山中というのか、市域の北西に位置する山岳部で発生した一揆であった。「万延強訴」(万延元年・1860.8.20)の3ヶ月後に、市南東部園部藩領での大身強訴(天田強訴)より数週遅れで発生した。完全勝利であった福知山藩の「万延強訴」に大いに刺激されて、ちょっと調子に乗ってしまい、超苦しい事情は間違いないとしても、そのマネというのか勢いで少し軽はずみに発生した一揆であったかも知れない。純朴な辛抱強い農民たちで、一揆などの経験はなく、マネするといっても簡単ではない、何をするにしろ、横で見ているほどには簡単ではない。しかし成功例を知っていただけでもまだカシコイかも知れない、「鵜のマネをする烏」と呼ばれるくらいですむが、たいていは成功例か失敗例かも検討せずに、ラクにマネできると思われる先例ばかりをマネするようである、それは間違いなく失敗例か、ほぼどうでもいいような例であり、マネしても何もなく「アホのマネするアホ」と言われる。これがベスト、完璧とかいう先例はないので、よく研究してマネすることであろう。

《保科領五千石在》
福知山市内であるが、この地は当時は福知山藩領ではなく、保科領であった。
今の千葉県富津市下飯野の飯野陣屋に藩庁を置いた総額2万石の藩であるが、江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。
近江国伊香郡のうち3か村、摂津国豊島郡の内13か村、同能勢郡の内4か村、同川辺郡の内9か村、同有馬郡の内6か村、そして当丹波国天田郡内の15か村などの他、上総国、下総国、安房国などにも少し領地があった。同藩の摂津1万石領の役所は豊能郡小曾根村字浜(現大阪府豊中市。伊丹空港の近く、服部緑地のあたり)にあって、これを浜村役所と称し、天田郡15か村も同所の支配を受けた。
いわゆる五千石在、あるいは五千石領とは、旧金山村(長尾、行積、天座、下野条、上野条の各村)、旧三岳村(上佐々木、中佐々木、下佐々木、喜多の各村)、旧上川口村(夷、野花、大内、大呂の各村)、旧下川口村(一尾、瘤木の各村)の計15五か村で、村高合わせて約五千石であった。

《動機》
万延強訴の影響とかというよりは、農民を騒動へかりたてた根底には、慢性化した農村の不作や、幕藩体制の矛盾が指摘される、体制そのものが行き詰まり、そのしわ寄せが弱い農民に被せられていて、さらに幕末となると何かと御用金も重なり無理に無理にしてもう体制そのものが破壊すれる以外には手がない、その前夜の最も暗いと言われる状況であった。それは全国共通的なことであるが、五千石在騒動の直接のヒキガネとなったものは、
(1)御用金負担
安政6年(1859)領主から五千石在へ御用金960貫目を、頼母子の方法で出金するようにとの通達があった。とてもこの負担には耐えられないので村々では浜村役所の丹波御代官に嘆願した結果、240貫目に減額されたが、年賦納入即ち前3カ年で95貫目、残り145貫目は7カ年で上納することになった。但し戸別5分、高別5分であるが、それでも相当な負担である。その上さらに安政7年8月には、御頼母子108貫目が仰せ付けられた。(頼母子による出金の額については資料によって異説もある。)
(2)銀納制への切り替え
安政5年御法変りで年貢は米現物でなく銀納制加味となった。米の時価を入札に付し、その高値をもって米価を換算するのである。万延元年、御蔵米の払下げ入札は御代官小林初次郎の手で行なわれ、1石129匁で落札されたのに、年貢銀納は140匁と一方的に押しつけた。
当時、米価は年々値上りして、次のようになっていた。
  安政5年(1858)  103匁
  安政6年(1859)  127匁
  安政7年(1860)  140匁
銀納分の米価が代官払下げ入札値129匁より11匁高い140匁とされた、8.5%の年貢増税である。貧農はたまらない。村々の庄屋達はもう一度集まり嘆願したが、3匁引となったに過ぎなかった。

《強訴の経過》
この年もかんばしくない秋の刈り入れも大方済み、年の瀬も近づく中で日に日に不穏の気配が高まり、遂にひそかに廻状を作り、村々へ急使を走らすに至る。万延元年(1860)11月26日朝10時「三岳山千ヶ原で郷中談合の上御上様へ申上度き儀有之、郷中残らず千ヶ原へ参集」との廻状がひそかに廻された。起草者は、上佐々木の元右衛門、作兵衛、筆者は河守から雑魚売りに来た男(筆跡から首謀者が判明しないように)、急使は野花の忠七といわれる。
文面は「明朝正四ツ時、三岳の千ケ原にて郷中双方談合、一同御上様へ申上度候間、郷中残らず千ケ原へ登るべし」とあった。廻状は25日七ツ時に夷村に到着、佐々木方面へ向かう。夜四ツ時には瘤ノ木村から一尾村百姓定次郎方へ持参し、次は長尾村百姓喜兵衛方へ行った。こうして五千石騒動ははじまった。

野際の千ヶ原↓

三岳の南西側、麓に見えるのが「野際」集落だが、どこが「千ヶ原」なのかはわからなかった。

千ヶ原集会の当初に、打ちこわしの計画まで意図されていたかは定かでない。この時12か村は揃ったが、天座村へは廻状は届かず不参であったので、大衆は天座へ押しかける行動を起こし、26日夜中の12時に千ヶ原を出発した群衆は、そうこうする中に「乱暴の気ニ成」天座村で医師玄信を荒し薬品や家財を破壊した。これを手はじめにして、小野原、夷、野原、大呂、長尾と、 順次巡村して行くうちに殺気立ち、日頃態度の悪い庄屋や有力者の家々を打ちこわし、家財道具を焼き払い、酒食を強要するなどして荒れ狂った。「諸道具残らずやきすて、此時ハ大火事の如し、柱ハよき、なた、のこぎりで残らず切払、建物一切荒し候」という状況もあったという。
百姓一揆などクソだ、まともでない、と考える人もあろうが、こうしたヤケクソ的な真の敵を見誤ったような行動はそう言われても仕方ないかも知れない。しかし意味がなくエネルギーの浪費とわかっていてもへでもない連中へ向けて爆発することもある。
敵と言っても、その要人がいる根拠地は江戸よりまだ先にあり、出先ですら遠い摂津にある。こうした所の村人はどうすれば厳しい現実を変えることができるのか。声は届くまい、距離的にも時間的にもあまりにも遠い、大きな熱い声であっても途中で消えたり冷えたしてりウヤムヤになる、派遣代官や現地代官では権限もなくラチがあかない、途中には誰もまともに聞こうなどとする者はなかろう、クソ役人やクソ政治屋どもにいいようにあしらわれて終わり、状態は極めて不利、ブ厚い越せないカベがある。問題は何も届かない、農民はクサでも喰ってろとか、ミミズでも喰えとか、ほかに何かまともに答えられる人はいるだろうか。通信インフラの発達した現在でもそうだから、技術の発達だけでは伝わらない、聞こうとする耳がないなら何も意味はない。当時なら絶望であろう。孔子曰く、苛政は猛虎の害よりも恐るべきもの。

五千石騒動の経過図↑(『福知山市史』)
同書の詳細↓
十一月二十五日午後より二十六日朝にかけて、廻状は最北端の天座村以外の村々に廻されたが、二通の書状の中一通が下野条村に止ったままになっていた。二十六日昼を過ぎても集合しない村があるので、すでに集合していた百姓達は千ケ原から下野条村萬次郎方へ行き、二十六日暮から交渉した。廻状が留まったままになった事について萬次郎は一言も言いようがなく、村役人を頼んでことわりを言い、飯を炊いて全員に出した。この交渉の間に一同の者は、いきり立って乱暴になった。
 先づ二十六日夜九ツ時(十二時)、揃って坂浦峠を越え、天座村へ押しかけた。そこで村役人が出て、「この村は今から皆揃うので、ひとまず先へ行っていただきたい」と言った。押問答をする間に、一方では気の早い者が医者玄信の家をあらし始め、家財道具をぶちこわし、薬一切を家のまわりや道路に雪のようにまき散らしてしまった。その後は十二力村揃って雲原村を通り、神宮寺峠を越えて上佐々木村へ下りた。雲原村は宮津藩領である。途中、宮津藩士や村役人が高張提灯八丁押し立てる前を通り、国境の助太郎柳や「是より北、宮津領」と彫った御影石を横目ににらんで峠の頂上を越えた。
 やがて八ツ時(午前二時)となる。一揆勢は峠の下の小野原宿(上佐々木村)で、弥右衛門の家をあらし家財道具着類をみな焼き捨てた。この頃から上・中・下の佐々木村もそろって一揆勢に加わり、下佐々木村助右衛門宅へ押しかけた。助右衛門は「私儀、金子百両、郷中へ用立てますので御許しいただきたい」と挨拶したが、これに対して皆々口を揃えて「金の無心は言わない。三度の飯を準備してくれ」というので一同へ飯の炊き出しをした。
 腹が出来たところで勢いの出た一同は、夷村へむかった。夷村では庄屋仁兵衛の家をあらし、柱はなたやのこぎりで切り払い、諸道具残らず焼いて夜明けの寒気の中、暖を取ったのである。時に二十七日七ツ時(午前四時)。つづいて野花村宇助の家をあらしたのは六ツ時(午前六時)からであった。この様子に、森の代官所小田孫八郎家(大庄屋)では、折柄酒が切れていたので、造りこみのどぶ酒を皆に出して無事にすんだ。
 半坂峠を越して大呂村増右衛門をあらしたのは四ツ時(午前十時)であった。つづいて大呂村庄屋角兵衛宅へ向う一揆勢の前へ、天寧寺方丈が出向いて来られ、「どうか拙僧に免じて御用捨を願いたい」と頼まれたので皆々その徳に頭を下げ承知をした。
 一同そのまま花浪峠を越える。長尾村庄屋格の喜右衛門と煙草屋伊助は、酒と握り飯、或は煙草を夫々一同へ出して破壊をまぬがれた。それに引きかえ庄屋伊左衛門は家・蔵・家財道具残らずたたきつぶされ、書籍・帳面など古くからの記録多数を引きさかれ、あたり一面大雪の様にまき散らされた。そこでは、八ツ時(午後二時)から四時間近くかかっている。
 ようやく、二十七日暮六ツ時(午後六時)に下佐々木村に向い、大庄屋牧家へ通じる坂道の下に集合した。そこにある助右衛門宅から約束の炊き出しをうけて、前の新道でたき火をしながら全員待機する。一同の意向で、その間に十五カ村百姓代が集まり協議の上、夜四ツ時(午後十時)までに願書が作製された。


村役人達の対応
 十一月二十五日夜十時、兼て案じていた廻状が、瘤ノ木村から一尾村百姓代定次郎へ持参されたのである。「明二十六日午前十時、千ケ原へ郷中残らず集まれ」とあった。上山保と下山保から三岳神社へ登る参道の交叉点にあたる三岳山山腹の平地千ケ原での集合である。書状は一刻を争って次の長尾村百姓代喜兵衛方へ送られた。村役人の一人ではあるが、一般農民側代表でもある百姓代から百姓代へ、百姓代から一般農民へとこだまの様にたちまち伝えられた。村役人達も手分けをして近くの村々の様子を問合せながら千ケ原へと登って行った。一尾村の年寄(庄屋の補佐)五兵衛宅へは、北隣長尾村の村役人伊助が来て、「一尾村役人衆は如何されるか」と聞いたのに対して、五兵衛は「当村は今から佐々木へ向かうつもりでいるが、大呂村へ立ち寄って協議の上でそれに合流したい。それ迄に貴殿にも直々面談したいと考えている由を長尾村庄屋殿へは伝えてほしい」と答えた。
 そのすぐ後、一尾村庄屋富五郎は年寄五兵衛と同道して、途中の瘤ノ木村庄屋又左衛門も誘い、親村に当る大呂村の庄屋角兵衛宅へ行った処、強訴の一統は庄屋・村役人宅を乱暴するらしいと聞いた。また大呂村年寄増右衛門は、下佐々木の大庄屋牧家へ早朝に連絡に行っているということであった。そこで瘤ノ木村・長尾村・一尾村の村役人達は一緒に下佐々木へいそいだが、次々と聞こえてくる状況の急変拡大の情報に右往左往した。村役人達は村々の間で協力して情報交換し合い、大庄屋の指図をうけて拡大を防ぎ、被害を最少限に止め、特に後日の犠牲者をなるべく出さないようにしたいと苦慮したのである。しかしその村役人自身の今日迄のやり方や騒動への対応の仕方が、一揆の民衆の激情を刺激し、憤激をまねく結果となった。家・納屋をいためつけられ、家財道具をたたきつぶされ、果ては燃やされた時は大火の如くになり、書物・帳面をまき散らされた時は付近が大雪の積ったようになったと伝えている。中には帳面記録を山のようにまき散らしたのを布団代りに眠った百姓も居た由である。
 隣村同志、特に支村と親村は連繋協力し合って、大庄屋牧氏の指図を仰ぐことを重要視し、日頃尊敬する旦那寺の住職の意見を尊重するのがつねであった。その点天寧寺方丈は大呂の年寄の方に対しては手遅れであったが、庄屋の方は一揆の民衆に懇願して難をまぬがれさせたのである。
一揆の伝承と統制
 一揆に就いては、どの村にも伝承が残されている。参加しなければ身は袋だたき、家は打ちこわしか村八分を覚悟しなければならない。参加の時の服装は野良着にみの笠、腰に山刀か鎌。手には鋤か鍬。またかけや・鋸、要すれば竹槍、莚旗を持つ。なるべく短時間に群衆が結集し、巨大な威力を最高に発揮する必要がある。早くからの綿密な計画と厳重な統制を必須条件とするが、行動を起こし時間がたつにつれて食事が問題となり、夜間は採暖が必要である。寒冷の頃や降雨の際は特に問題になる。五千石騒動の中では、百両の金を用立てるよりも三度の飯を出せと下佐々木村の助右衛門は要求され、代官所小田家は仕込み中のどぶ酒と振り飯を出し、長尾村の喜右衛門と分家の煙草屋伊助も飯の炊き出しや、煙草配分で皆無事に済ましてもらったと伝えている。小野原の弥右衛門も夷村仁兵衛も建造物は打ちこわされ、家財道具はこわして焼かれ「大火の如しと」記録されているのは、押し寄せた時間が深夜から夜明けの最も気温の低下する時間であり、初冬の寒気をしのぐための採暖手段であったと考えられる。その点次の野花村宇助宅は「諸道具一切をあらす。大呂村増右衛門宅も家財一切をめぎあらし、長尾村伊左衛門宅は家も蔵も家財道具もたたきこわし、書物記録も一切引きちぎりまき散らしてこの家に四時間ばかりかかった」と記録してあるが、火をつけたとは言っていない。
 天寧寺方丈の懇願を聞き入れたり、採暖を考慮したりする点、一犬虚にはゆれば萬犬ほゆとも言うべき烏合の衆では出来ない厳然たる統率力が働いている。その事は更に次の行動展開でも立証されている。
 長尾村で四時間も経過して更に次の行程へと言い出す者もあったのに、むずかしい論議の結果は日ノ倉を山越えし、戸倉から下佐々木への道をえらんで、最後の示威運動として大庄屋屋敷の坂道下へ集結したのである。時刻は二十七日の暮六ツ時、新道ぶちの助右衛門で炊き出しをうげ、新道で焚火をして一同が待つ間に十五カ村の百姓代が集まって願書を作製し、大庄屋を経て代官小林初次郎へ提出し、その返事を待って夜を明かしたのである。つまり一揆においては、全員が一番必要とするものは飲食と採暖であって、これを不足させれば民衆は狂暴な狼の群と化してしまうのである。


27日午後6時頃、下佐々木の大庄屋の坂下に集結した上、庄屋たちによる合議の末、夜半に五ヶ条の要求書を書き上げ、さっそく浜村陣屋から出張中の代官へ差し出したところ、御用金半減の件が承認されたのを機に、28日百姓たちは不承不承に帰村していった。
15か村の百姓代の協議による訴願の趣旨は次のとおり。
①米値段午年より入札となり、高札銀納で取立られるが、先年通りの値立とされたい。
②当年上納 一四○匁のうち三匁引だが、落札より一○匁引にされたい。(「銀納分ハ御蔵米払下値段より一割下げて取立の事」の記録もある)
③頼母子御用銀半分の家別掛りは御用捨、半分の高掛りの分は金持から用立てるようされたい。
④上納延金無利子で五ケ年拝借したい。
⑤徒党吟味なきよう。


《近接諸藩の対応》
国境を接している諸藩はこの騒動の波及を案じた。諸藩のこの一揆に対する対応は次のようであった。
綾部藩は五千石在の中に飛地の一の宮村・日尾村・常顧寺村がある。三度程役人が出張ったが、多人数出張ることは人の気を荒立てると案じたらしい。
宮津藩は雲原村を領有し、平常から番所も小字市場にあった。12力村の農民が天座村の医師玄信(玄硯)宅を荒した後、26日夜12時を過ぎて神宮寺峠をめざすと、道は一時雲原村を縦断せざるを得ない。この時宮津藩では藩役人30人ばかりを出張させ、高張提灯8丁を押し立てて警戒した。別に五千石在一尾村と接する日藤の堺川や外宮(元伊勢)へも出張った。
福知山藩は出石街道と山陰街道の分岐点になる立原村へ60人ばかり出張った。
田辺藩は波美村や在田村へ出張った。
「諸家様御物入りは大変の事なり」だったようで、市川騒動に続く晩秋の五千石在の騒動に、隣接諸藩は戦々恐々、自領内波及を心配した。


《糾問》
11月30日、大庄屋邸へ藩役人が大呂村の忠右衛門を呼び出し、郷中で家をあらされた6軒の者の平素の心得方についてたずねた。その返答は、
一夷村仁兵衛は親代々の書物や記録が多く、それをもとに人を見下し、御上役人へ都合よく取り計らったうらみか。
一野花村宇助は、小野原に金山(鉱山)が出来た時から段々金山に近付き、金もうけをした恨みか。
一長尾村伊左衛門は口聞きで、郷中の桐の実その外の物品を産物として藩に申告しようとした恨みか。
一天座村玄信は御上へ遺しょうして御上の札を扱う様になったうらみか。
一小野原村弥右衛門は御上に近付き、下百姓の難儀なことは断りながら、御上へは内通している恨みか。
一大呂村増右衛門に付いては、全く解らない(同村のよしみで言えなかったのであろうか)。

12月朔日早朝、花崎繁三郎と由山善五右衛門が、五千石郷中へ「達し」をまわし巡視をした。この頃すでに京都の二条悲田院から、郷中の番人を通じて厳重な調査が内々にあった様子である。これは幕府の調査機関である。
「達し」は、「此の度、百姓どもの乱暴と人家あらしは容易ならない事であるが、頼みの筋を御上様へ申し上げた処、江戸から『五人組の取締りが出来ないから今度のことは起きている。徒党の吟味はされない様にと頼んだが、御公儀(幕府)の御調べも出来ていることであるから、若し御公儀に召取りになれば当人達はもとより其の村方一統の難渋は限りがない程であろう。それよりも、御領主様へ召取りになった方が良いから、当方で吟味をするので有難く考えよ』と申された」という。
そこでその御ぼしめしに恐れ入り、村役人・百姓代・組頭連名の御受書を提出し、村方一同へもこのことを通達した。領内巡視は3日晩方で終了になり、下佐々木村の大庄屋邸内で御役人の御白洲が開かれた。
徒党の吟味が始まり、推定22人が浜村役所へ検挙拘引された(うち7人は蓆包み唐丸籠)。 拘留は2か月をこえ、村方では懸命に各人の払下げを策したが寸効無し。2月下旬七人の入牢者を残して他は村預けとなり帰村。
こえて翌文久元年4月下旬、大庄屋村役人被疑者など50人ほどが浜村役所へ召集された。「村預け、組預けの科人残らず、家荒されたる者モ、村役人、大庄屋付そい、人足共〆て四十三人、摂州へ登」ったのであるが、この中にはまだ10数人の手鎖の科人もあったはずだから、何とも異様な行列が続いた。
詳細『福知山市史』↓
一、十二月朔日、夷村五右衛門宅にて代官・侍六人で御白洲が開かれた。組預けの者を呼んで急度叱る。仁兵衛親子は下佐々木村へ送り、手鎖足鎖で宿預け。
二、十二月二日、大庄屋宅にて御白洲が開かれ、宇助・増右衛門・玄信・伊左衛門・弥右衛門の五人は手鎖足鎖で宿預けとなった。
三、三日、最初に上佐々木村の機屋元右衛門(太左衛門)・松屋作兵衛(安左衛門)等が呼び出された。なかなか事実をあかさないので、御役人以下番人十人ばかりで拷問にかけた結果白状をした。徒党人あばれ者の科人六十人ばかりが三・四・五・六日に追々とつかまり、手鎖足鎖で大庄屋供部屋へ入れられ連日取調べが行なわれた。
四、同十一日、森の代官所(小田孫八郎宅)で科重い者二十三人御白洲があって、科人は十二屋弥吉方に宿預けとなった。
 村々の役人と組預けの者を呼び出し、科重い者は摂州へ引き取り、残りの者は手鎖で組預けとなり組親は印形して預り証文を出した。
 家をあらされた者は手鎖を許され村預けとなる。朔日から十一日迄は、侍二人ずつ日に三度村々を巡察した。
 科人二十三人中、七人は唐丸籠の莚包み縄かけに入れられ、十六人は歩いて摂州へ行った。その罪状は元右衛門は廻状つくり、安左衛門は佐七・亀助・幾右衛門と共に徒党人。野花村忠七は廻状廻し、孫三郎・栄助・幾助・定助・源兵衛・嘉助・鳥垣の柳助・横山の庄助は路次の諸品物火付の徒党人。夷村源右衛門・平三郎、大呂村孫右衛門・由助・治助、瘤ノ木村周助、長尾村清助・八百右衛門、大内村要蔵はその他の罪。計二十三人。
 以上で五千石在での予審は終結した。村役人は代官所に宿泊の役人衆に種々手当てをし哀願したが、法は人の為にまげられぬと言われ引き下らざるを得なかった。
五、罪人送りの付添人は長尾村伊助(番人頭)、大呂村善太夫、夷村治三郎、瘤ノ木村又兵衛伜勘兵衛、野花村平右衛門、他に大内村一人、使丁二人であった。
六、重罪人二十三人は十二月八日出発。三十里の道中なにごともなく、十日浜村役所に無事到着した。十一日から十三日迄待ったが公判とならず、正月も近付き、正月準備の必要もあり、付添の九人は役所へ伺った上で最年少の勘兵衛に万事を託して、他の者は全員帰郷した。残された勘兵衛も十日程待ったが何の音沙汰もないので、これもとうとう二十二日頃に帰郷した。かくして不幸な万延元年も暮れ、正月も焦燥の中に過ぎた。
七、年号も改まり文久元年二月十三日、浜村役所から橋本七郎・末広俊二の両役人が出張して来て、領内村々へ、「郷内一同神妙乍ら、農業を怠る者、博奕をうつ者、親不孝な者があれば申し出よ」と御達しがあった。十六日村預かり・手鎖の者は村役人同道で下佐々木村大庄屋表へ出頭させられ、心得方を申し聞かされた上で、これ等村預り組預かり四十三人の科人はようやく許された。
八、二月十八日、科人のある村々の村役人は摂州浜村役所へ呼び出されて出発した。二十日に入牢中の者は出牢の上、村預け組預けの申渡しが村役人にあり、科人十六人はようやく手鎖で丹波へ帰してもらう。但し特に重罪の七人はそのまま牢に残された。この入牢者が帰国したのち人に話すには、
 浜村で入牢の時は、食物は玉子程の小さな握り飯で一度に二つ、日に二度ばかりであった。食物が非常に少なかったので足も立たず、腹の皮が手にまくはどになり、今日はかなわぬ明日は死ぬと蚊の泣くような声になってしまった。牢舎の近くに善良なる人がいて、五文餅を一人に二つずつはどこしてくれた。皆の者は口々に「この大恩は一生忘れられん」と感謝感泣した。世に善根を施す事程、功徳な事は無いと。
九、三日朔日、一尾村庄屋冨五郎と野花村百姓代吉三郎が、右村預け手鎖りの者についての十五カ村一統の願書を、浜村役所へ提出するため出立した。しかし浜村役所からは、「江戸表へ伺いを出しているから、御沙汰があるまで度々願書を出しても取り上げない。この願書は納めておくから帰る様に」と返答している。



《処分》
4月27日判決
・発頭人2人 田畑家財取上、家内皆々追払い
・使い等に進んで参加した5人 所払(追放)
・その他の各人 過料三〆文二〆文等
・家を荒された者 永代役儀取上
強訴の成果に至っては、確認できる何ものもない。結局農民側の惨敗に終わったとみられている。
詳細『福知山市史』↓
  判決申渡
 文久元年(一八六一)四月二十四日、科人・荒家慎人など総呼出しがあり、大庄屋以下村役人が付添い総勢四十三人ばかりが浜村役所へ出発した。二十六日未刻(午後二時)過到着した。四月二十七日朝五ツ半(午前九時)から申渡しが始まり、未刻に終了した。
 一番には上佐々木村の機屋元右衛門・松屋安左衛門(「赤渕家文書」では機屋太左衛門・松屋安右衛門)、両人は持高取り上げ家財残らず売払い闕所、家内全員所払い。前の二人と野花村忠七・大内村要蔵等五人は国所追放。二番に右五人中二人は三貫文、三人は二貫文の過料金。三番に手鎖の者。四番に村預けの者。五番に村役人、家をあらされた者(伊左衛門・弥右衛門・増右衛門・仁兵衛)永代役儀取り上げ。六番に玄信・宇助。家あらされた者。七番に郷惣代上野条村庄屋新五郎と行積村百姓代。それぞれへの御達し。八番目に村役人中へ御達し。最後の九番目に大庄屋へ将来の取締りについて御達しがあって、これで全員への判決が終了した。これより各自帰村したのである。
 この騒動の裁判にかかった入用経費について、大庄屋宅で次のように負担することが決った。上役人の入用は郷中割当とする。村役人の役所行入用は其村の高割とする。科人の入用は、万延元年十二月から文久元年四月二十六日までの入牢ぶちと道中費用共に、その入用は一人当り四百五十匁となり、これは罪人から出すということになった。

 御頼母子銀の結末
 文久元年(一八六一)八月七日になって、御上より百八貫目御頼母子銀の件は五カ年の年延しかなわず、当秋立てる事と申して来られたので、折角命がけで御願いした件の一つではあったが、止むなく百八貫目全部を納入した。但し相談の上、実際は村々の金持で取り替えた。それは夷村の例によると金七両が割当てられたが、本村の仁兵衛・武兵衛・五右衛門・五平次・仁右衛門と枝村上ノ垣の利平次・嘉右衛門が一両ずつ取り替えている。すでに強訴願書の中の御用銀二百四十貫の件と農料拝借の件は御聞済みとなっていたが、その他は浜村役所へ引き取り詮議の上で取りはからうと言われながら、早くから徒党人を出さぬの件は御聞済みなしとなっていた上に、なおこの結末である。
 要求相手の浜村役所は三十里の彼方にあって、藩主保科氏の陣屋は雲煙はるか百里の江戸よりも更に遠かったのではあるが、藩政当局としては連絡と協議に時間が必要であったばかりでなく、時を稼ぎ問題の冷却期間を置くのにも幸いしたと考えられる。更に発端では三カ月前、隣接地福知山での六十三カ村強訴大成功の事実をどの農民も意識の中に持っていたであろう。その五千石在全領民の一大悲願は大きく後退せざるを得なかったのである。直情素朴な首謀者達が、前例の多い礫・さらし首の悲惨な最後を迎えずに済んだのが、せめてもの幸いであった。



『大江町誌』には次の附記がある。

   附記 五千石在文化の強訴
「五千石強訴」として伝えられる事件の概貌は右のようであるが、実はこの約五○年以前にも保科領に強訴の胎動が見られる。記事簡略で詳細不明であるが参考のため補う。
 文化十年(一八一三)閏十一月二十一日、保科様御領分五○○○石の百姓、野花大庄屋小田孫八殿御代官名代居られ候所へ強訴、およそ人数千人ほどの沙汰帰りかけ小野原庄屋へ立ち寄らんと申し候へ共一の宮の水嶋と言う人 詫申され候ときこゆ。(天田内覚書牒)).



五千石騒動の主な歴史記録


『天田郡志資料』
五千石騒動

福知山騒動また市川廉動といふものに就ては現に存命中の老人たちはその実際を知ってゐられるし、 又断片的の事は若い人々でも言ひ伝へ聞き伝へて知ってゐられるとおもふ。この騒動は芝居にさへ仕組まれてゐるし、地方の新聞にも時々掲載されてあるから、私の記憶してゐるだけでも余程以前に日出新聞に出たし、次は福知山旧藩士鬼城植村氏が丹州時報主筆時代に随分詳細に記述し享保強訴の事をも附記してあった。また橋立新聞にも出た。しかるに他領ではあるが同じ我が郡内に起った五千石騒動の事は一叩あらはれたことがない。 五千石の方は市川のやうに原因が複雑ではないがその終末の模様は却て面倒になってあるやうに思はれる。それに人目を引かないのは前者は三丹唯一の城下に起り後者は山村僻陬に起ったからであらうか。私は去る明治四十四年我が郡衙で藩政資料を郡内各町村から集められた時五千石騒動といふ候文体の小冊子を見つけた。材料はそれだけであるから誤謬があらうと思ってゐる。お気付きの所は訂正していたゞきたい。
 大正十二年十月神嘗祭之日
   竹毛老人  識るす

五千石騒動
 一、苛政猛於虎
孔子が泰山の麓を通られると、ある村の墓地で婦人が大そう悲しそうに哭いて居た。仁心の深い孔子はその声を聞かれて、これはどうもたゞ事であるまいと、随行の子路といふ弟子にその故を尋ねさせられた。すると婦人は涙ながらにまあお聞き下さい。この近辺には猛虎が居まして年頃人を喰ひ殺しましたが、妾の父も夫も又今年はひとり残って居た子供まで喰ひ殺されましたので、もうこの世に居る気もせず、毎日かうしてこの墓に参って哭いて居るのですと対へた。孔子はこれを聞かれてそれは重ね重ねの災難で気の毒なことぢや、痛はしいことぢや。今となってはいたし方がない。この上お前に危害が及んだら後の供養もする者もなくなる。それで今のうちに何處かへ移住したがよからうと申し聞かされた。が婦人はいえいえ妾は此村を立ち去らうとはつゆ思ひませぬ。何故なら、この土地は誠に政治がよく行き届いてかゝる貧しい者でも生活上何一つ不足不平はありませぬからと対へた。孔子はこれを聞いていたく感心せられて子路をかへり見て、汝よくこの婦人のいった言を憶えて居よ。実に苛政は猛虎の害よりも恐るべきものぞと申し聞かされた。これは大昔の話であるが苛政の恐ろしいことは古今のかはりはない。現代のやうな立派な立憲治下の人々でさへ納租課税に就いては随分やかましい小言をいふのであるからまして我儘気儘の専政時代に下民が怨嗟の声を放ったりやゝもすると騒擾をかもしたりしたのは格別不審とは思はれない。我が天田都の西北部なる金山、三岳の殆ど全村と上川口村の一部との旧十五ケ村は幕政時代には大阪城の定番保科越前守正景侯以来の領地でその総高に由ってこの辺一帯を五千石在と呼んでゐた。天保の飢饉から嘉永安政にかけては所謂天下益々多事で諸侯の費用も何かとかさむ一方なので何處も種々の名目をこしらへて取立がきびしく往々苛税誅求に流れるやうな仕打も珍らしくなかった。泣く子と地頭には叶はねとあきらめ領民も出来るだけの辛抱はしたのであるが、中には背に腹はかへられぬやうになって元来淳良の領民もつひつひ騒擾罪に問はれるやうになった。五千石在敦朴の民が暴行を敢てしたのもこの例に洩れない。それは安政六年末の秋領主からこの五千石在へ御用金九百六十貫目を頼母子の方法で出金するやう達せられた。農家にとってはなかなかの大金である。困難なことはわかってあるが一応村役人から郷中一統へ談じたが、とてもかゝる大金の調達は如何なる方法でも容易ではない。その間村役人どもも積んだり崩いたり日と経るばかり遂に御代官に歎願の結果二百四十貫目を年賦献納とし高へ五分、戸別へ五分の割として一先づ解決がついた。
解決はついたがやはり困難なことであった。明くれば万延元年申之秋に至って御蔵米払下の入札を御代官小林初次郎といふ人の手で行ひ石代首二十匁で落札した。がこの百二十匁は御払下の値段で金納には石代百四十匁の割と定められたのである。どうも前年から彼此重荷を負はされてゐる上に今年も亦石に就いて廿匁の過差では百姓はとてもやりきれぬ。黙って居てはこの上又々如何になりゆくかが案じられる此際何とか考へねばならぬと、誰も口にこそ出さね腹の中は同じであった。殊に三ケ月前の八月には福知山騒動も起った。われわれは決して他領の眞似をするのではないがと思った挙句の果てがこの五千石騒動となったのである。

  二、檄文と急使
領民は色々考へた末なほ一度御代官へ歎願した。格別利目もなく僅か百四十匁の内三匁引といふことになった。どうもこれ位では納得が出来ぬといってもはやこれ以上いたし方がない。今はいよいよかうと決心し、どうせうか、かうせうかと焦った。平凡ではあるが廻文を作って急使を走らすより外にない。しかしこれでも飛檄といった。事前に発覚しては一大事と相当に注意を払ったのであった。起草者は大庄屋所在地の佐々木村の元右衛門、作兵術等文句は簡単でも筆跡をくらます必要からこれにも亦頭を痛めた末、丹後河守から毎日この辺へ来る雑魚売の男がある。でこの男に因果を含めて認めさせた。その全文は判然とわからぬが主意は

 明二十六日早朝郷民残らず千が原へ集まれ

とのことでもとよりくどくどしい文句はなかったらうと察せられる。これを一覧次第次村へといふ所謂村送りにせうか、然しそれでは途中で滞ったり或は露見しては一大事とこれにも亦頭をひねり合って、とうちう野花村の忠七といふ男が急使となって、承久の狎松の役を引き受けた。五千石在狭しといへども、これを一日に足らぬ中にしかもその筋へわからぬやうに廻らねばならぬから忠七も心配であった。如何な順に廻つたか、十一月廿五日夜の十時頃には行積村百姓代定次郎の門を叩いた。こゝへは瘤ノ木村から来て又急いで長尾村の百姓代喜兵衛方をさして出た。かうして廿五日から廿六日早天士でには大抵廻ったが郷中最北の別天地天座村はずっと離れてある爲時間がなかつたと見える。

  三、乱暴と警戒
忠七はその名の通り忠実に使命を果した。明くれば万延元年申の冬十一月廿六日下郷即ち長尾、行積辺は何となうざわざわして居る。そこへ瘤ノ木の佐平といふ男が佐々木村から帰つて来た。この男はこの度の一味の者ではないから唯不審に思って今日未明から大勢下郷さして出かけたが何事ならんかなど話した。いくらかためらって居た下郷の者も佐平の話を聞いて、さてはいよく実行かと力を得ていよいよ一同約束の千が原さして急いだ。竹槍蓆旗のすごい扮装ではないが、それでも槌とか鎌とか所謂農民の武器はそれぞれ携へてゐた。やがて千が原には前夜から山越え谷越えて走せ寄った上郷の者も到着した。此の時既に十二ケ村は揃ってゐた。かゝる場合の槍玉は太抵村役人、最初かしこへしこゝへと評定中、まだとゝへ来合せてない天座へ天座へと誰いふとなく動き出した。一同それ行けと天座を指した。天座は今日の事は知らない。けれども彼此詮議立する場合でない。村役人はだしぬけのこの乱入に驚き取あへす村はづれまで出迎へて早速勢揃一同に加はると陳謝するをも聞入れず一同閧を作って暴れまはり医者玄信の如きは薬品家財は残らず破壊放棄されて.後一同はやうく引きあげた。
かくと聞いた近隣他領の城主は万一を慮り警戒をさをさ怠りなかった。今年八月の福知山騒動から一層神経過敏になってゐるから物々しい警戒も無理からぬことである。三岳村でも一ノ宮村は綾部領で、此所へは綾部藩士三名辞出張四面敵の中へ多勢の出張は却て人気を荒ら立てるとの考と思ふ。雲原村は宮津領で三十人許出張高張提灯いかめしく警戒、その他宮津街道の堺川、外宮にも同様。我が福知山藩からは立原へ六十人許出張。下川口村の波江、加佐郡在田村へは田辺藩(今の舞鶴)から出張警戒された。

  四、百両の金子よりは握飯
何事も悠長な昔のこと殊に山村敦朴の民とてすべてがやさしい。それ故この騒動が同じ郡内で起りながらあまり耳目をひいてゐない。さて天座を荒らした集団は雲原村を経て神宮寺峠を越え上佐々木にあらはれた。此所では彌左衛門宅を荒らして下佐々木村助左鮪門方へ乱入せうとすると助左衛門は平身低頭金子百匁を郷中へさし出すからとあやまった。一同は金子の無心は言はぬ、さほどにあやまるならこらへもせうが金子よりかわれわれ一同が満腹するだけの握飯を出せと異口同音に言ふ。助左衛門はこらへてさへもらへば如何にもいたしますと早速炊出しの用意とした。この時既に二十六日夕方一同はうんと腹をこしらへて暫くこゝで休息。悠長さが想はれる。然しゆっくり寝るわけにはゆかず翌廿七日未明には先手は夷村仁兵衛方に押し寄せた。こゝでは家財など残らず焼き払つたので近村では火災と思ってさわいだ。前日よりか乱暴さがひどくなった。夷には野花村の宇助の宅、終に仝村小田方に行った。こゝは御代官の役所であり酒造家である。一同の暴行と趣けるためか、まさか慰労のためでもあるまいが、ともかく一同に対して炊出しをしたり酒としたゝか飲ませたりしたので何事もなかった。それから大呂へ越えて増右衛門宅を毀ち次に庄屋角兵衛宅に押し寄せたとき天寧寺の和樹さんが出て、一同に向ひ此家だけは拙僧に免じて容赦にあづかりたいと平にあやまられたので少しも手をつけなかった。こゝにも亦敦朴さを発揮してゐる。こゝから花並峠を越えて長尾村の喜左衛門、伊助方でも飲食して暴行はしなかった。二日間にわたる暴行に一同大分飽きが来た。かうしてゐてはいつ目的が達しられるかわからぬ。その内御役所から多勢出張などあってはいよく事が面倒になってと一同大分理性に立ち返へるやうになった。そこで一同は佐々木大庄屋役所附近に到りまづ歎顧書を御代官へ差出すことに申合せた。前日から郷中の庄屋、年寄などは佐々木の郷宿に打ち寄って善後策を講じてゐた。





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