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丹波の

万延の強訴(市川騒動)
(まんえんのごうそ・いちかわそうどう)万延元年(1860)
福知山藩


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京都府福知山市




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万延強訴(市川騒動)の概要


《概要》

万延(1860~61)というのは、1年に満たなかったごく短い期間の元号だが、黒船来航(1853)や、この3月には桜田門外の変が発生し、260年続いた幕府も内憂外患の中いよいよ終わりを迎えようとしていた頃(幕末期)になる。今からだと150年ばかり昔の話で、享保の強訴(1734)よりは130年ばかり過ぎたころである。
直接にこの事件を経験した人はもういないだろうが、オジイチャンが経験した人から聞いたという話を聞いたとかいう、それくらいの昔のことで、書物の中だけでなく、社会の中にも記憶がよくさがせばわずかに残っているくらいの昔のことである。
和久市の梅干半十郎観音↓(怨みのマトの藩専売会所を襲った義賊とされ、今も花や梅干を手向ける人が絶えない)


明治維新といえば坂本龍馬とか維新の志士たちばかりに目が行くようだが、何事も一人や二人の先駆者だけではどうにもなるものではない。社会全体に大きな変化が起きていて、世の中底辺で全体が不満であふれ、もうこれ以上はウンザリだという気分になっている。こうした時は何が起こるかは誰にもわからない。今ならメディアなどもドウンザリを支える中心メンバーなので、その取材に対しては本当のことは語らず、「出口調査」ですら「恥ずかしがって」本当を語らず、従ってドウンザリの大方側の希望的観測からは「予想外の大番狂わせ」の「一揆」ということが起きる(英国EU脱退・米国大統領選など)。
溜まりに溜まった社会不満がはじけるエネルギーの方向性はメチャクチャの場合もあるが、国内の我々がこのエレジー状態なのに外に手を出している時か、先に国内を何とかしろ、ということであろうか、「民度が低い」と言うのだそう、ホントは「アホばっかりだから」と言いたいのだろうが、まともに民衆を指導できる政党が存在しない国々では、どこ国でも似た話だが、長年のドウンザリの国々では国民のヤケクソ的ななんぼなんでもそれはアウトでしょう的な行動は、今後もあり得ることであろう。
しかし万延強訴のベクトルはまともな方ではなかろうか。梅干さんは別として、ずいぶんと「民度が高い」のに驚かされ、「アホウばっかり」はどっちじゃと思われる。
享保強訴はほとんど記録がないが、万延強訴はくさるほど残されている、農民や町人ばかりでなく武士も記録していて、それくらいに多くの人々に関係があった事件であった。この強訴は藩の財政改革の中心人物であった市川儀右衛門の施策に反発するもので、一般には「市川騒動」とも呼ばれている。強訴側の完全勝利で、被支配者側の者としては誇りにしていい歴史でなかろうか。こうした像↑があってもいいのでは…



《背景・福知山藩の巨額の借金》
当時の福知山藩の借財は10万両(100億円くらい)もあった。それは、藩の約7年分の租税額に当たる膨大な額であった。収入の全額を返済に充てても7年かかる、ということで、そんなことはできないから、ほぼ返済不能。
その上に、異国船渡来で出動の折りの手当、日光御名代、江戸御普請、公儀への御献金等々と出費はかさむ一方であった。 藩では江戸や福知山の賄方を徹底して節約したり、半知といって藩士の俸緑を半減したりしてきたが追いつかない。公務員の給与を半分にしたり、それも何ヶ月も遅れて支払っていた。収入カータイモンの公務員ですらこれでたまったもんでないのだから、下々はどうだったかはだいたい想像できよう。藩に金を貸し、権力に何重にもピンからキリまで保護された豪商だけがウハウハであったと思われる、今の腐ったなんでもありの原発会社のようなものか。自分一人暴利をむさぼるだけで何の役にも立たないものが威張り散らす、電柱がジャマになる、あんたとこの玄関を動かしなはれ、儲からんので料金は上げます式の殿様商店が町中にも一杯あった。
返済能力もないのに借りるということは、個人ならまともな人格がない、一人前の社会人としての金銭感覚、経済感覚、責任感覚がないことになる、そんな御仁ばかりが長年にわたり藩のトップを占めていた、誰かが外から壊さなくても、藩は自ら破産で潰れていったということである。
チマタでは、一般家庭の場合は、サラ金などに収入の2倍の借金があれば、もう返済できないと言われている、それはそうだろう。家を建てたとかで長期ローンでも組めれば可能かも知れない、それくらいの長期の収入の保障と信用があってのことになる。

今のどこかの国の借金(国債や地方債など)額は1000兆円(100億両くらい)を超えている。
国の借金時計
国の収入は年60兆円もないのだから、全額を返済にあて無利子であっても17年はかかることになる。それはできないから破産である。
借金の期限の来た借金を返済するために、借金を積み重ねてきた、誰から借金しているかと言えば、将来世代である。生まれてもいない国民からこれだけのカネをムリやりに借りている。どこかの国民さんは一人当たり800万円ばかりを自分のまだ生まれてもいない孫やひ孫ひひ孫ひひひ孫から勝手に借金をすることを繰り返してきている、「借りている」などとは言えまい、相手は「貸す」とは言ってもいない同意はない、ハッキリ言えば「盗み」である。盗みまがいを繰り返し、実態は四苦八苦の火の車なのに、見てくればかりの豊かな家庭、スンバラシイ家庭、分に過ぎたうわべ華麗な生活を自分では勝手にそう信じているだけ、問題の先延ばししか解決策もない。
そんなアホゲなことが可能なのだろうか、頼りないアホゲな信用だけで成り立っている死体のゾンビ国家。ヘーキよ。などと思っているそのセンスは狂っている。さらにスンバラシイ国、黄金の国と言っているのだが、全国民がローン中毒の死にかけのドアホ殿様ばかりなのであろうか、経済センモンカの言うネゴトを信じているのか、フシギな国もあるものだ。
日本は神の国だから、そのうちにカネのなる木がはえてくる、とでも信じているようでノンキが過ぎるようだが、一旦どこかでそうした神懸かり的な虚構が破綻すれば、すべておしまいとなり、アホゲた夢物語の生活も煙のようにすべて消えていくことであろう。
そうしたことで、万延強訴は過去の話ではなく、すぐ未来の話でもある。この強訴は農民町民の要求のほとんどが受け入れられ、一人の犠牲者も出さなかったという強訴側の全面勝利に終わった。よく学んでおきたい。


《藩政改革》
慢性巨大借金で、どうにもこうにもならなくなった藩は、嘉永3年(1850)から本格的な財政改革に取りかかった。

「改革」は、そのために江戸から帰ってきた家老の原井惣左衛門を中心に、原井に才知を買われて小身から取り立てられた市川儀右衛門、世情に通じていることを買われて商人から士分に取り立てられた関三蔵らの手で、なぁにこれくらいはへでもない、ワシらは3、4年で立て直すぞの決意と見通しで開始されたという。
この布石人事ができると「政事向万法の掛り 三四人」が推進役となり「外家老総役人ニハ三奉行共あれども無キ如キ姿ニテ皆々言語通ぜず、口を閉候ものばかり」。藩内から修正意見が出なくなり、このままでは、「遠からず御領内強訴も計り難い」の予感や「夏以来人気あしく何時強訴出来哉計り難く候ニ付、大切の品残らず袋ニ入 何時ニテモ持逃られ候様ニいたし」たなどと、強訴前夜の騒然たる凶兆がとらえられるようになったという。

市川儀右衛門の肖像画↓

支出の削減だけでは根本的な解決は絶望的、積極的に収入の増加を図らねばならない。それも大増収を図らねば、藩がつぶれる。

国ならインフレ策という手もあろう、私が子供の頃は1両は2万円くらいと換算されていたが、今は1両は10~12万円と換算されている。円が5~6分の1にネウチが落ちた、あるいは落としたということであろう。この手で1000兆円も一気に紙くずしたいと考える者もあるかも知れない。しかしヤシのようなことで信用制度の根幹が崩れる、ラクでいいかも知れないが、その途中で手の内を読まれて国債など誰も買わなくなってしまうことだろう。この手は借金だのみのその借金ができなくなる。

一地方の小藩では、収入増加の基本は年貢の増徴である。
福知山藩の平均年貢収納量は、3万6000俵前後であるが、本格的に改革が始まった明くる年の嘉永4年から、急激に増徴されている。嘉永元年は3万4000俵余であったのが、嘉永4年には3万6000依余、同6年には3万7000俵余、安政2年には3万8000俵余、同5年には3万9000俵余、強訴の前年になる安政6年にはついに4万1800俵余に達した。12%の増税である。さらに荒地開墾にも課税する始末であった。年貢の増徴は限界に達して、増やせばいいというものではなく、ムリはムリなことであった。

それならばとついで、「喰延ばし」という手を思いついた。安政7年(1860)には在町に対して、米を1人1日あたり2勺または2勺5才ずつ喰い延ばすことを命ぜられた。これを月々3升なり4升なり、人数に応じて差し出さねばならなくなった。
当時の庶民は、満足に米を口にすることはできない状態であった。そうした中で、例え1人1日2勺(7.5グラム)と言えども大変なことである。1升=10合=100勺=1000才(抄)で、米などは喰ったことがなくとも出さねばならなくなった。金持ちにはへでもないことだが、収入には関係なく課税される不公平税制を絵に描いたように、貧農には厳しくこたえるたことであろう。

さらに領民には徹底した倹約をおしつける。長百姓には御用金を申付ける。家財・衣類等不要なものは売払せ代金を預けさす。吉凶慶弔の際には分限に応じて節約しそれを積立させる。他藩の藩札は使用してはいけない。上米を上納し中米以下を家得とする、上納米の一粒選りを命じたり、他藩の藩札や金銀貨の使用も禁止し、わずか使用しただけでも多額の過料を命ぜられた。

中でも農民最大の負担である年貢米は、選別が厳しくなり「少々ニテモ籾ぬか有之候令ハ米主ニ縄を掛け又ハ金」とし、この一粒よりの精米を大坂江戸廻しの為、氷上郡本郷の問屋まで2日がかりで運ばせたり、不合格の上納米は2里3里と持ち帰らせる等「百姓は、申すに及ばず、牛馬に至るまで誠ニ誠ニその難儀のほどたとえ方無之次第、あわれ至極也」。また一方では城内大手門、小書院評定所、土蔵、玄関、台所などの建替普請や石垣つみがあり、夫役に出た領民は「はたきづかいのごとく」使役された、という。


限界を超えて苦しい様を考える一つの材料として、宗門改帳をもとに、 階層別に子供の数の平均を出してみた。という資料がある。
それによれば天保5年 (1834)の額田村で見ると、1戸平均の20歳以下の人の数は、持高15石以上ては2.8人であるのに対し、3石から5石では1.6人。1石から3石では1.3人。無高では1.1人と持高が下るにしたがって子供の数は減っている。同じく慶応3年(1867)の上天津村では、持高20石以上では2.6人であるのに対し、1石以下ては1.1人であった。このことは、下層の農民ては子供を育てることができず、まびきをおこなったか、 あるいは子供を奉公に出さざるを得なくノなったことを意味していると考えられる。という。
社会が再生産できる限界を超えている。現在の1家庭当りの子供(15才未満)の数、女性一人が生涯で産む子供の数は、1.3くらいといわれている。これは貧しさばかりではないのかも知れないが、社会的相対的な貧困も大いに影響していることであろう。再生産不能の社会になっている。ああ人口が減るのか、少々減ったくらいの方がいいか、というだけの問題ではなく、年金などにはすぐ影響してくる。支払う者が少なく受取る者が増加する、年金制度は破綻せざるを得ない、強い大企業だけが大モウケのクソ社会はこうしたところに欠陥が出てくる、内部留保でなく、商品を安くしっかり賃金を支払い下請けにも儲けてもらうようしなければ社会が潰れてしもう。


次に専売制の強化が進められた。これが特に悪名高く、領民の怨みのマトになった。
藩営専売制はすでに文政10年(1827)に桐実(ころび)が「御産物」に指定されているが、改革が始まるとあらゆる商品が次々と御産物に指定されていった。福知山藩における専売制は他藩に例を見ない程の厳しいもので、改革がはじまってから、それ以前から御産物に指定されていた桐実などの他に、次々と商品が御産物に指定され、全て産物会所を通してしか売買できなくなり、しかも、多くの口銭(約10%)をとられるようになった。
「五穀の類 諸色あらいもの…酒のかす かまのしたニたまる灰ニ至る迄諸色不残御産物と相成候ものなり」「口銭のいらんものハ井戸の水ばかりニ而候」という状能であった。
特に一揆の中心となった夜久郷は本田畑以外の山の傾斜地を利用して、うるし、桐実、こんにゃく玉などの栽培をおこない収入をあげていた。特にうるしは、明治のころまで、丹波漆として名声をあげていた特産物であった。
よくメディアにも取り上げられている「丹波(夜久野)うるし」について言えば、夜久野でかかれたうるしは、一旦、日置村へ集められ、できるだけ有利な条件で大阪へ出していた。したがって、代価は当然銀で支払われた。それが、御産物に指定されてからは、「尚又大豆 小豆 こんにゃく玉 漆 大麦 小麦 塗もの並ニまいなぞハ銀高の品也 不残御産物故勝手ニ売買ならず産物役のものへ差いだし直段ハ大ヰニ安く買とられ候事あハれなる次第也 百姓の事なれハ代銀も忠三部八兵衛ニおさえられ○印不廻りニ而大ヰニこまる事あまた也 よふよふ代銀受取ときハ銀札を相わたさず五百匁壱貫目の手形ニ而相渡しあまた百姓あへくり廻され困りいる事多し」という状態で、値は買いたたかれ、口銭はとられ、その上まともに代金は支払われないというありさまとなった。
専売制は旧来の石高制に基づく収奪だけでなく、本田畑以外を利用して収入を得ようとした商品作物栽培の成果をも奪い去ろうとしたものである。ことに、うるし・桐実・こんにゃく玉などの生産地であった夜久野の農民に与える影響は大きく、万延の強訴が夜久郷から起った大きな理由であろう、とされる。

専売制の導入は諸藩でも行われいた。例えば長州藩では、各地に物産会所を設け、農産物を半強制的に買い上げて大坂へ移出した。が、この時も領民の反撃を受け、天保元年、15万人参加の農民大一揆に突入した。薩摩藩の場合は、砂糖の専売や密貿易などで藩財政の立直しに成功したといわれる。


当時の話として、中村庄屋勘左衛門が「殿豆腐 家中赤味噌 唐辛子 阿呆辛う(家老)て 舌(下)がたまらん」と世間話にしたところ、市川の耳に入り入牢になった、と伝えられている。
専売制は農民に大さを影辱を与えたのみならず町人(特に下級町人)にも大きを影響を与えた。「諸国より代呂ものぢき買ニ致安く売候得ハ追々ひょうばんもよく相成候ものニ 何分御産物故代呂物ぢき買相ならず産物所へあまたの口銭をとられ候間 代呂物高直ニ相成候故無拠諸国近国ニ至る迄大ヰニひょうばんあしく相成 誠ニ商人の迷惑一統こまりいるもの也」「近年米直段追々高値ニ諸色何ニよらず高直の時節ゆへ町方一統大ヰ困窮也」。
専売制はじめ一連の改革が町人をも窮之におとし入れた。このことが、この強訴が農民だけでなく、町民とも連帯して闘われるようになった理由であろう。また、打ちこわしに直接参加しなくとも、「飯き出し誠ニ世話敷夕方ニハ白米之分たき切候、夫ヨリ夜中ニ米掲を又ハ今安村ヨリ米を買入其心配言語ニ難述」と農民のために米のたき出しをする町人もあらわれている。



《強訴の勃発》
広小路に新築された産物会所書諸商業正直取締会所)は産物統制の怨みの府とみられた、安政6年7月3日、2人の強盗に押し入られ、宿直2人が殺され金を盗まれるという事件があった。ほどなく犯人は検挙され、1人は牢内で自殺、もう1人の犯人・半十郎は打首になったが、庶民は彼らを義賊とし、はやり病の神として祀った。

強訴の大きな理由が専売制と考えられ、強訴のほこ先が藩当局に向けられず、市川・関とその手先となった四郷取締役などの庄屋、産物会所の手先となり暴利をむさぼった商人に向けられている。
長田村の高橋惣右衛門はじめ四郷取締役一同が、万方奉行市川儀右衛門の宅へ行って、産物制度を撤廃するならば、農民の強訴を差止めるといったが、市川はこれに応じなかった、ついに農民は翌20日から実力行動に移った。

万延元年8月20日早朝、検見を前にして夜久郷平野村広瀬河原に集まった農民がついに強訴に踏みきった。蓑笠に鎌、刀、竹槍の装束で一斉に行動を始めた。途中16歳以上60歳までの男たちに加わることを呼びかけた、全農民はここで立たねば死ぬというギリギリの状態に置かれていたものと思われ、強訴はまたたくまに全領に広がった。
行きがけの駄賃に、沿道で打ちこわしにあった庄屋などは、改革の手先とみられた人たちである。強訴参加者は領内63か村の農民のほかに「他領の者も相交り」会計3万という。
強訴の一隊は2日をかけて、牧川沿いに金谷郷へ入り、丹後口御門から城下へ、一隊は額田から豊富郷へ入り城下へ、時を同じうして、南郷の農民は京口御門から城下へ雪崩れ込み、挟み撃ちにする。
広瀬河原
国道9号から北ヘ板生の方ヘ向かう府道56号線が牧川を渡る「広瀬橋」↑。この辺りの河原であろうか、今はそんなに広い河原はない。大油子と平野の間で、向こうに見える集落は平野。ここから福知山城下までは30㎞以上あり、三日かがりの大仕事であった。弁当を何個も持参で集まったのだろうか。



打ちこわしの対象となったのは、改革派の頭取市川、関両人の屋敷をはじめとして、その手先に躍ったとされる町家93軒、銀札座、惣会所、正直所等産物統制機関となった建物、在方で藩の出先の産物掛りと見られた家多数。「潰家郷町ニテ一二○軒斗」「家を潰す音天地ニ響キスサマジキ事共也…廿一日夜ニ入 惣会所を潰し産物蔵に有之質糸真綿取出…会所ニ有之候名主日記・塩納屋日記、土蔵ニ有之候金札書物何れも不残火ニ焚候」といった打ちこわしが21、22の2日続いた。



3日目をむかえた22日の翌朝、町人・農民の代表が菱屋町塩屋(広小路)の表の間を借りて、13ヵ条の要求書を書き上げた。
 奉願口上之覚
一御免定御引ヶ之事 並御倹見引高引捨之事
一諸産物御取払之事
一永川高御引捨之事
一封札積金御取払之事
一金他札勝手遺之事
一余米勝手売払之事
一喰延米御断之事
一此外万事廿ヶ年以前之御法ニ立戻し之事
一御上様より御無心之筋一切御断之事
一一同難渋ニ付当年貢之内三分脚用捨之事
一此度徒党人壹人も無御座 御吟味之筋無御座様奉願上候
一四郷取締役御断之事
一原井・市川・関右三人御役断之事
  万廷元年庚申八月廿二日
現代語に訳してまとめると、その主要点は、
 ・免定引下、検見高引捨
 ・産物統制撤廃
 ・他札使用の自由化
 ・喰延し中止
 ・御上の御無心一切御断り
 ・原井、市川、関三役人の罷免
 ・余り米売払勝手
 ・当年年貢三歩御用捨
 ・此度の徒党吟味なき事   などであった。

騒動の長びくのを恐れた藩は、これらの要求のすべてを呑んだので、27日七ツ時農民たちは村へ引き上げた。もっとも村によっては、引続いて村役人層への糾弾があって、非違をとがめられた者から過料をとる動きもみられた。
こうした騒動は三日以内にとり取り鎮めることができないと、「お家取りつぶし」になったとか、幕府の隠密も入っていて、事情はつかんでいることだろうし、藩としては、ここは呑んで、早急に鎮めるより手はなかった。

強訴にしては珍しく、万延強訴のもう一つの特徴として、支配者側からは、原井・市川両氏の切腹、関三蔵は元の町人身分におとされて追放、産物会所の手先と在った商人が処罰されているのに対し、農民側からは一人の犠牲者も出していないということである。
テロだ、匪賊だ、暴民だ、側の完全勝利となった。
ものすごいリーダーがいたのか、誰かが計画してこのように完全勝利したものか、あるいは偶然の重なりが、神仏の助けにより、農民側にすべて味方したのか、藩側によほどの非があったのか。
これらすべてがあったのではなかろうか。まれにはこうしたこともあるのだろう。人間にできることではないようなことである。
その後領民は藩主の武運長久家運久栄を祈って氏神、元伊勢に参詣し、祈祷札を藩に奉献している。当時の感覚では、封建制そのものへの反撥まではなかったのであろうか。それとも神仏のご加護に、天の助けに感謝したものであろうか。

藩財政「改革」プランは、意に反して藩政の根幹をゆるがすもの、近代を切り開くものとなった。
借金1000兆円(≒100億両)のどこかの国の領民は「改革」にどう立ち向かうのだろう。「マネもできませ~ん」か「鵜のマネをする烏」で大失敗するか。

この強訴を指揮した庄屋、指揮したのかは不明だが、13ヵ条の要求書を書いたという、石場村の庄屋石場万右衛門と庵我中村の塩見勘左衛門の顕彰碑。もしや彼らの力を借りたいならば、よ~く拝んでおこう。
石場の薬師堂境内↓

庵我神社境内↓



万延強訴の主な歴史記録


パパンパンパンの講談調だけれども、昔の(ワタシのオヤジが子供だった頃)の歴史授業というのはこんな調子だったといい、歴史とはこんなものだと考えていたという。聞いている分には今のガッコの授業よりはだいぶに面白いかも知れない。その当時の先生がこの筆者などの年齢になるよう。

『天田郡誌資料』
市川騒動
 「福知山さん葵の御紋いかな諸大名もかなやせん」
とは今なほ人口に膾炙して名物福知山踊にも唄はれてゐる。僅か三万二千石の丹波大名ではあるが、譜代ではありその昔はずゐぶん羽振をきかした。
 (徳川時代には大名がその紋所を金うるしで挟箱の蓋に記して行列の先供にかつがせた。これを金もんささばこといった。此は家格に由って許されて妄用は出来ない。故に金もんさきばこの行列には誰も注意したのである。朽木氏は近江源氏佐々木の支族であるから紋所は四ツ目であるが特に将軍家の葵の紋をゆるされて居た。大いに他から羨まれた。)
朽木侯の先は名にしおふ近江源氏佐々木氏の支族、近江守信綱が始めて江州高島郡朽木ノ荘の地頭に補せられた。曾孫義綱に至って朽木氏を称した。その幾代か後の元綱は、慶長庚子の役に東軍に属して大功を立てた。次いで大阪夏冬の陣には、父子永井直勝に従って又軍功があった。元綱の季子植綱は、元和四年に年十四で二代将軍秀忠に仕へ、仝九年叙爵(叙爵とは従五位下に叙せらるゝこと、五位以上は位田を賜ふなどのことあれば特に称す)民部少輔と称した。それより累進して奏者番となり、食邑三万石常州土浦城を賜うた。その子植昌が寛文九年八月に参万貳千石で福知山に転治(一千九百石は江州高島郡にあり)爾来十三代以て明治維新に至ったのである。そしてその十二代綱張侯の代万延元年八月三丹唯一の商ひ祭御霊会(御霊会は陰暦八月十七日十八日の両日であった。(十七、八日と定めたわけは不明)(光秀の命日は十三日。又天正十年六月十五日ならんと思ふ。起源は朽木氏初代植昌侯の時宝永元年寺町なる常照寺に光秀の霊をまつることを許された。これが起源で廣小路に移してから朽木氏四代植治侯の時元文二年城下一同から願ひ出て盛になつと直後に未曾有の騒動が勃発した。これを市川騒動又福知山嗷訴といふ。さて侯は天保五年十二月十六日叙爵して先代綱條侯の城邑を襲いだ。元は江州膳所の藩主本多兵部大輔康禎の二男弘化三年六月奏者番に補せられた。顧ふに天保年間は兇作連年都鄙ともに餓?路に充ちるあはれさ。近く大阪には大塩中齋が乱を起す物騒さにわが福知山領分まで警戒した。時恰も天下は益々多事であるに徳川氏二百年の治平に酔って上下共に懦弱遊惰、奢侈は彌々増長する藩費の嵩むも亦宜べなるかな。そこで御用金を申付献金を強ひその額に応じて或は苗字御免或は帯刀差許尚進んで士分にも取立てられる。宛ら往昔の買官の観があった。玄関構は何程と所謂有産階級の跋扈となった。かうなると城主からは何等容赦もなく益々御用金献金をせまられる。彼等はこれに閉口して不面目とは知りながら表門を鎖し玄関を閉ぢて逼塞札を貼り出すやうになった。こは自ら身代限として公民権を奪つたと同然で真に馬鹿の骨頂であるが背に腹はかへられぬ。普朝鮮で李朝が苛斂誅求をやった時に財産家が態と住宅を粗造にしたり弊衣をまとうて苛誅を免れやうと企てたといふが、それにも似た変態であった。当時は参勤交代の路用にさへ差支へるので大阪辺で借り出しては間に合せた。がこれさへ借出し一方であるから銀主も終には容易に応じて呉れなくなった。真に窮乏の極であった。(御勝手向連年御借財多別而近年御差支御融通モ不相整候ニ付無御拠公銀名目銀等御借入ニ付而ハ村々庄屋役人印仕リ間ヲ合セ候連御聞寄特之事ニ候然ル所一向御返済之御手段モ不相見比儘被成御運候而ハ不遠連印之者共自然公辺御呼出相成此上難渋至極之場ニ可押移甚不段本意儀ト御歎ケ敷思召色々被仰山候へ共外ニ被致方モ無之付村々困窮之中甚気毒至候へ共年賦調達議被成御頼公銀名目銀之分被成御返済度候間銘々格別致出精御加入申上候様有之度其外平銀御借財ノ分ハ御物戒辻之内三歩ヲ被省御返済ノ御立法ヲ以テ大阪表炭屋安兵衛平野屋孫兵衛御引受御世話御頼ミ相成候處品能御請申上候間此旨末々百姓共迄承知之様可申聞候且又先頃銀札不融通之處全一同存込取扱候故御差支無之節融通モ宜敷相成候段是又達御聴奇特之事此段モ?而申聞候様被御出候)


 二、家老と用人
想ふに藩の窮乏は昭和今日の不景気以上の深刻さであったらしい。こゝに江戸詰の原井物左衛門氏は年五十余の分別さかり一つこの貧乏世帯を立て直さうと健気にも自ら請うて御目付となり福知山へ帰って来た。今は内記六丁目其頃は十六軒町(塩見病院の辺)に典医荒木泰菴といふのが在った。これは原井氏の縁家であるからそこに身を寄せた。そして日夜算盤珠を弾いて居つた。所がこの荒木氏方へ出入する歩卒で市川俵右衛門氏これは僅か二十五俵扶持の者ではあるが一寸才気の走る上に能く下情にも通じてゐる。あまり学力はないが甚だ器用で能筆である。今の原井氏の仕事にはまことに適良な男である。はじめは世間話から漸く際井氏と心安くなり遂に万事万端相談するやうになった。(天保九年閏四月倹約令が出て中々詳細なものである)そこで幕府の倹約令即ち御條目等を参案して藩の財政整理に着手した。当時藩の借財が約八万両その上藩札(兌換紙幣のやうで領内限り通用)が壹千五石貫匁二口合計して拾万両以上。小藩にして大借財である。これを毎月壹千両許宛積立てそれを利廻りよく運転して年に壹万四五千両とし五ヶ年若しくば七ケ年間にかたづけ様と大綱を立てた。これまで公儀から触れ出された方法に準拠し各藩の倹約法なるものもなかなか些細な所まで切り込んだものではあるが福知山藩の今回のは普通なやり方では迚も埒が明かねと考へて立案したのであらうと思ふ。
その大要は
一、領内の産物は穀物、薪炭より漆、楮等に至るまでこれを売買することは藩で扱ふ。
二、百姓の副業として縄、草履、草鞋等は代金を集めて庄屋が預り庄屋は定日に藩へ預け入れる。
三、右の機関として御物産所、正直曾所を新設する、これは問屋と銀行とを乗ねたやうなもの。
四、長百姓へ御用金を申付けて肯んぜない者は歩役千日。
五、家財、衣類等の不要なものは売払はせ代金を預けさす。
六、金銀の浪費者には其金高を倍して積立てさす。積立金不足の際には田畑、家財を売払はせ尚不足せばその村方一同して積立てさす。
七、掛売、掛買、茶屋入、酒屋へ入呑する者も前項に仝じ。
八、他の藩札と使用した者は三十日又は五十日の歩役申付る。
九、産物を抜いて売買するものは最も重罰。
十、吉凶慶吊の際には分限に應じて節約しそれを積立さす。上分の者にて少額ならば罪科に處し又は大金の積金をさせる。
十一、山林の樹木の売買勝手に出来ない。桝物の売買も仝じ。
十二、上米と上納し中米以下を家得とす。
 右の外衣食住についても微に入り細に渉って規定された。かうなると商人はあがったり、百姓は一合の米も自由に出来ない。けれども丹波百姓のことゝてお殿様のためならば、お上のためならばと辛い目苦しい目をこらへて居った。その内立て直しの利目がほの見えて安政三年の春綱張侯の初老の祝の節には丸の内の調練場(今日の公会堂町役場辺)に米千俵清酒若干樽を積み並べて藩士一同および町方へも御酒下があった。(御酒下とは藩侯から宴を腸ふこと)この頃原井氏は家老であり市川氏は御祐筆を経て用人格であった。で只財政のみならす政務一切の改革係といふやうな肩書で時めいて居た。市川氏の男がお小姓に取立てられて一藩驚異の目をみはった。両氏の得意の度が高じる程町方百姓はいよいよ困難を重ねた。

 三、反対の叫び
頑固な原井氏と小才のきく市川氏等の改革はその是非はともかくとして惜しいことには人情味が欠けてゐる。自己の計画を遂行するために周囲からの批難攻撃を排する剛胆(?)は認めても上からうが一から十まで異議者を頭から叩きつけてしかも必要以上に抑圧を加へる。かうなると双方意地の張合になって終に血眼になって相陥穿するやうな浅猿しいことになってしまふ。こんなことは古今同じである否むしろ今日の方が甚しいとも思ふ。
原井、市川両氏とも格別理財に長じて居るのでもなく無論経倫家といった柄でもないからとかくの批難の起るのは当然であらう。只日夜考へてやつたことから殿様の信用を得たに過ぎない。併し信用が厚くなるほど取立が厳しい。そこで領民も辛抱しきれなくなる、そろそろ不平の声が漏れる。不穏のうはさが出る。これで反省すればよかったがさはなくて両氏は是等を只不心得者不埒者として白い眼で見る。睨まれるとだんだん悪くひゞく。どうもわるい奴ぢや。憎い奴ぢや。今度の整理とか改革とかは会所を利用して自分の腹を肥やすのぢや。その肥しにされる我等こそいゝ面の皮ぢや。最初から殿様のおためとか藩の利益とかを考へたものでない。うまく殿様をかつぎ上げてうつた芝居ぢや。一体市川の吐かす言が気にくはぬ『百姓と古俵は叩くほど米が出る』と実に言語道断な奴ぢや此上我々が黙って居たらどこまで叩かれるか分ったものぢやない抔と罵詈悪口を極めるに至ったいつの間にか左のスローガンが町の辻々に貼り出された。
市川や膠をたいて待って居れ
 やがて御膳の(御前)緑(扶持)が離れる。
扶持に離れるどころか命にはなれた。いづれ蒹葭堂あたりの戯作だらう市川氏。は聞いて烈火と怒った。そしてかう言った。「殿さまのお眼鏡にかなって政事万端をお引受してゐる拙者に対してかれこれ悪評を立てるなどは掟を軽んする奴原で其の罪はまことに重い。このまゝ捨ておいては殿様の御威光を損する」といきまいて益々強制抑圧を加へるやうにと下役人に厳達した。そもそもこゝらが毒血的のやうにおもふ。

 四、供客と蒹葭堂
福知山は呉服町に田舎では一寸珍しい乾分の百人以上もあらうといふ親分松本屋銀平といふのがある。本名は片岡俵兵衛正義とて上総生れといへば関東武士のなれの果て諸国を流浪した挙句この城下に居ついた。年は六十そこそこ固より度胸もあり腕も冴えて一癖ありそうにもあるがなかなか如才のない男で町方であらうが家中であらうが万辺に交際する。大兵肥満の銀平が長刀をぼつ込んで「旦部今日は」と上流の方へも出かける。万事に抜目のない所から銀平銀平とどこでも立てられた。その女房お金は信州松本生れこれも愛嬌者で姐御姐御と立てられた。しかしこの夫婦には子宝がないので何となく淋しいそこでいづこからかお春、お清といふ二幼女を養うて蝶よ花よと育み長ずるに及び読み書き裁縫より歌舞、音曲、茶道、生花と女芸一切を仕込んだ。殊にお春は容姿さへすぐれたればどこへつき出しても決してひけはとらない。大家のお嬢さまとしても恥かしくない迄に育て上げた。
侠客の常として堵場あらしや食詰者の出入がうるさい。そこで銀平は用心棒として居候二人を抱へた。西郷新太郎(或ハ信太郎)とて三十才前後松岡半重郎は四十才位共に腕利である。これもやはり東国辺のわけのある浪人。銀平はやがて道場をひらいてお面お小手の声が勇しく聞え出した。さて市川氏は何でもこの銀平を馴つけて何かの役に立てやうとの野心からかの養女に手習手本を書き與へなどした。(新太郎は仇持でつけねらはれてゐたのを逃げまはつてこゝにおちついた。この男はお金の甥にあたり、国元からしいろすろ銀平夫婦にあそ申越したこともあるといふ。)
で銀平も例の「旦那今日」で度々市川氏方へ出かけた。市川氏の肚裏ではこの銀平を一面は町人どもの抑へに又一面は領内の情勢を知る手蔓ともしたのである。一日市川氏は自分の股肱である出雲屋和助の嫁にとかのお春を所望したがこれは一も二もなく銀平は拒絶した。といふのはお春は既に新太郎と相思の仲でもあり、又ゆくゆくは銀平の跡目相続にと思って居たからである。実を言ふと新太郎は女房お金の縁者でもあるからこの縁談が成立たなかつにのは少しも不審はない。
それはさておき、こゝに又大阪の醤油業和泉屋太兵衛の息子で木村彌四郎、狂名は蒹葭堂(名は明啓、鹿の舎、真萩又暁の鐘成、未曾志留坊一弾、鶏鳴舎、暁晴翁、漫戯堂等の号あり。著書は蒹葭堂雑録、猪著聞集、摂津名所図絵、滑稽漫画等あり大日本人名辞書)とて遠近に名を知られた男がある。家業は弟にゆづつて天涯放浪の身となり巡り巡りて今は福知山に落ち着いたのである。この男狂歌の外に囲碁、将棋、茶湯、生花、何でもござれの多芸な者であるから漸く閑人仲間の交遊も拡まりまづ倶柴部といった型であった。かの典医荒木氏方など最ものお得意であった。銀平方の西郷は碁好き松本は将棋好と来て居るから暇さへあれば蒹葭堂へ出かける。町人も居れば家中の人もある。で市川氏のやり口など手に取るやうに分つて乗る。蒹葭堂は大阪者ではあるがなかく義気に富んで居る。大監にかぶれた訳でもなからうが市川氏の苛虐な仕振を見ては義憤禁ずる能はす、如何にもして領民の苦境を救はんと自ら訴状を草して窮状を訴へたが、風来者のいらぬお世話と一蹴されるのは当然。けれどもその後領内へ檄を飛ばしたこともあった。暴動鎮定後発頭人として入牢万延元年十二月十九日牢中で死んだ。年は六十八才といふ。後から思ふとこれはをかしい。何故ならばかの十三ケ條の條件の最後にある後日御吟味無之事にあてはまらぬではないか、若し領民外の者であるとてかく罰せられたとせぼ何故領民の中から救はなかつたか私は甚だ気の毒に思ふ。勿論煮じ詰めたらとの騒動の動機が全く蒹葭堂の教唆に出たものとしてもこの処罰は不当であると思ふ。却説安政六年夏の一夕お春と中心として一問題が起った。(市川氏方に出石藩士で田辺八太郎といふ関口流の柔道をやる男があった。此の男が例の和助の肩を持ったため新太郎は大いに怒って投げを食はしたなど其の一例である)所謂恋の三角関係とか四角関係とかいつたやうなものでどこにでもいつでも起る問題であるがその経緯を詳述することは平凡すざるから止めておく。お春と新太郎とがすでに相思の仲である以上三角でも四角でも五角でも新太郎が腕に任せて荒療治をやつてのけるととは当然すぎる。所が新太郎が誰彼かまはず手あらなこととするので市川氏に睨まれるやうになり遂に親分銀平迄が市川氏の御機嫌を損する破目になった。ある日銀平贔負の藩の重役朽木善右衝門氏から内密の使が来て一寸邸まで出て来いといふ。銀平は何事ならんと早速出かけると「其許の食客新太郎は近頃手荒な事をやるといふので市川が大いに立腹してゐる。なほ此上何かが出来ると殿様にも申訳ない。こゝ一つ其許も諒承して彼の二人を立ち退かせてくれい。自分は平素の昵懇から内々注意しておく」と銀平は聞いて痛入りいろいろ従来からの事情ともうち明けて老眼に涙さへ浮べたのであった。こんなことが終に新太郎の耳に入りお春にも聞える。新太郎(新太郎は今川義元の裔にて受領の兼光の名刀を所持して居つたといふ)は自分たちのために親分にまで心配をかけては相すまぬ。此際俺達さへ立ち退いたら問題はない。とはいふものゝ流石にお春に封する恋々の情、現分に対する恩義と思ふと煩悶せざるを得ない。しかしこんなことは誰にもロ外せず只相棒の半十郎だけに打ち明けた。半十郎は立ち退きは喜んで承知し早速逐電の方法まで談合ったのであった。俺達は城下を立ち退く位はさほど難儀とも思はないが思へばく憎いのは市川の老いぼれ、彼奴のために町人百姓の難題。俺等がかうなる上は退をがけの駄賃に彼れの白髪首をぶち斬ってやらうと考へはしたものゝ市川氏もさる者用心はなかく堅固少しの間隙もない。

 五、怨嗟の府正直会所
銀平の食客半十郎、新太郎の両人は始終市川氏を狙って居たがどうも乗やへき機会がない。といっていつまでもこのまゝでは親分の迷惑。一そのこと藩の金庫正直会所へ暴れ込んであはよくばあり金も攫み出さば一挙両得市川のど肝をぬくはこれに如かずと安政六年は七月二日宵暗を待って両人はそれとなく銀平一家に別れを告げ例の蒹葭堂で酒くみ交はしなどしてわざと夜を更した。子ノ刻もすぎ人も寝しづまれば時刻はよしとかねて手なつけておいた加納屋清兵衛に案内させて廣小路なる正直会所に押入った。
会所には泊り番天津屋冶助と川北屋仁兵衛の二人きり。半十郎新太郎の両人は悠揚煙草を喫しながら金の在所を尋ねたが唯ふるひ怯けて逃げ出さうとする。これを目敏く見た新太郎は抜手も見せず仁兵衛の胴腹眞二つ。治助只夢中で飛び出す背後からこれ亦半十邸が袈裟かけにバサリ。両人は顔見合せ「殺生をしたなあ」と互に血刀を拭ひながら鞘にをさめ彼方此方捜して立ち去った。これより両人は夜をこめて綾部、梅迫を経て田辺へ落ち延びんと梅迫まで着いて頃夏の夜の早や東天紅を潮する。
白昼逃走の危険を知る彼等は梅迫のとある宿屋を叩き起してこゝにしのんだ。かゝる間に早や警戒網は張られた。梅迫の情報を得た福知山では上杉・梅迫の番太(番又は番太は此辺の方言かもわからぬ大抵百戸以上の村においてあった、野荒しをしたり、窃盗、博奕、乞食、物もらひ、門つけ等を取締る役で今日の警察官の一部の仕事を引受けて其の村々で養ほれて居つた。つまり村の番人の意味であろう)に言ひ含めて両人をすかし止めさせた。かくて福知山からは刑事部長格の桐村文六氏が領分番頭渡邊伊助氏其の他屈強な番太十数名を率ゐて梅迫へ急行した。これは翌々日の暮方であった。宿屋の裏に廻って見ると血痕点々たる浴衣がかけてある。宿屋を取や囲む者、床下にもぐり込む者捕縛に向ふ者、手配は出来た。槍術の達者新太郎剣道の腕利半十郎であるから三人五人の番太の手に合はない。彼等両人晩酌とやってゐる坐教へ踏み込んだ者は実に物凄かつたらうと想ふ。この時座敷の縁先から床下へ投げ込んだー包があった。拾ひ上げて見ると幾十両かの金貨であったと実際床下にかくれて居って拾った大塚文助といふ男から私は聞いたのであった。何でも両人とも多少は抵抗もしたが羽がひぜめにして遂に縛に就いた。最早観念して居ったのか割合におとなしかつたといふ。福知山へ護送されて、かの案内者加納屋清兵衛諸共牢屋にぶち込まれた。銀平はかゝり合ひはなかつたがこれは仝年九月廿七日に病死善行寺に葬った。後にのとったお金と二養女は間もなく信州松本さして立ち去た。これには却て失望した者があった。正直会所の強盗事件は存外早く埒が明いた。市川氏は厄介払をして一安心である。新太郎は仝年九月廿五日牢死半十郎は仝年十二月二十日和久市三昧で打首になった市中を引廻はされて廣小路に出た際左の辞世た口すさんだ。
  三味線の絃より細きわが命
   ひきまはされて罰(撥)は目の前
半十部の墓前には香花が絶えぬといふ。


 六、弾圧と暴虐
正直合併兇変後の取立は益々厳しくなった。苟も市川氏の旨に違背する者は誰彼の容赦なく牢屋にぶち込む。上納米は桝目を増す上に一粒選といふ面倒臭いことになった。その上領民一統一人につき一日飯米の内から二勺(或は三勺ともいふ)宛喰ひ延年し三ヶ年間積立てよと触れ出した。領民二万人と見て一日に四石之を四斗俵にすると丁度十俵一ヶ年三百六十日とし三千六首俵、一石につき百匁として銀札百四十五貫匁となる。此は備荒貯蓄らしい。ともかく例の古俵主義め暴虐さである。今日やかましい整理とか節約とか又は更生とか赤字填補などゝは又格別手きびしいことである。
  粥食への御沙汰に背く者あらば
     召(飯)捕って来い直牢(食籠)に入る。
と喰ひ延べの惨状を諷したもの。これでは百姓は立つ瀬がない。六波羅の禿童はおかなかったけれども常に市川氏の手先の役人どもは出入して居るから町方在方のやうすは筒ぬけに市川氏に聞える。曾て但馬の出石騒動を諷したといふ(仙騒石動は天保六年十二
月に裁断された、即安政六年より廿余年前である。想ふに全くそれに託したに過ぎぬのであらう。
  殿豆腐、家中 赤味噌 唐辛子 阿呆辛うて
舌がたまらぬ。(又まはらぬともあり)
を甚左衛門といふ者がうっかり口ずさんだのでこれは適つきり市川政治を呪ったものとして早速入牢。かゝることは只百姓町人の上ばかりではない。藩士お歴々の上にも及ばん形勢であった。一日俄に藩士総御用といふ触れ出しがあった。家中一同さあ事かとー同登城大書院に打ちそろった。原井、市川両氏は一座を見わたして藩政改革の止むなき事情より会所の設立、財政の現在などを陳べた後、励声一番、拙者どもがかくも殿様のおため藩のために立て直しの真意を知らすしていろいろと悪評を加へるなど不屈千万である。元来無智文盲な百姓町人ならまだ恕すべき点もあるが、こゝに集へる士分の中にもかゝる不心得者がよい顔して居るのは実に不埒千万であると喚き立てた。一座は互に顔見合せてはらはらしてゐる。御目附が原井氏の袂を引く。
遂に改革の反対者鯰江氏は犠牲となって隠居仰せ付けられ其子息も亦閉門蟄居の身となった。かうなっては同列の重臣も皆口を緘して只傍観するより外はなかった。そこで市川氏はますます心驕り気昂ぶる一方。やがて爆発すべき火山の底にものすごい唸りのひゞきあるのを知らなかった。

 七、果然爆発して修羅の巷
かくても歳月は流れて安政はすぎ明けて萬延元年とはなった。世間は一層騒々しくなった。水戸の浪士が井伊大老を櫻田門外に斃したのも此年の三月。福知山領にも一揆の俑は既に作られて居る(享保一揆である)機会にあらば怨み重る役人どもに一泡吹かせんと口には言はぬが肚は一致の領民どもである。風来の蒹葭堂でさへ見かね聞かねて歎願した。村々を駈けまはつたといふ。去年七月二日の兇変こそ市川氏の猛者を促したのであつたと言ひ得る。一年後の今日此頃はいやた噂があちこちに起った。昨夜はいづこの山に篝火が見えた。今朝はどこの河原lこ蓑笠が動いて居たと流言蜚語が頻々と伝へられた。七月も過ぎ八月に入るとそろそろ検見の季節ある。(検見とは稲作の出来ぎえを巡視することで実は毛見の意である) 郡奉行齋藤氏・手代市川金全之助氏は共に検見に出かけやうとしたが、ともかく一応下役二三人を遣はして様子を偵はせた。所がなかなか検見どころの騒ぎぢやない。在方では早や蓑笠に身を固め、竹槍、蓆旗物々しく号令一下今にも城下へ暴れ込まん勢に下役等はびっくり仰天奔り帰って情勢報告、これを聞いた市川氏等は尚下役の臆病を叱りつけ且つ言った。幾百千の百姓ばらが押し寄せたとて、もとこれ烏合の衆、吾れ一喝差せば縮み上って引き退がるは必定と。其の夜(万延元年八月廿日)郷大取締長田村の高橋惣右衛門氏は市川邸に到。面会して此際せめて御物産の買占だけでもおとき払ひ下さったなら私共身に代へて郷内を取しづめませうと陳情したが市川氏はいかな聞入れない高橋氏も今はこれまでと引き取ったといふ。翌くれば廿一日村々寺々の早鐘は暁霧を破って鳴り饗いた。立原辺には金谷、夜久郷からはや五六百人勢ぞろひ男子は十六才以上六十才までとの触れ込みゆゑ刻々に人は増し殺気は漲る。巳の刻(午前十時)に雲霞の大勢が雪崩を打って城下丹後口御門へ押し寄せた。それと知った市川氏も流石に怯気ついたか即刻五十石以上残らず登城せしめ鎮撫策を講じたが既におそい。此時暴民の一部は南郷の長田、岩間、堀の役人宅をぶち壊はし、是亦京口御門さして押し寄せる。今や城下は夜久野、金谷、豊富の聯合軍と南郷軍との東西より挟撃せんす危機である。加之他領者の彌次馬連、火事泥的の横着者四方八方より馳せ参ずる。城外の士卒は家族をまとめて城内へ駈け入り一番隊、二番隊、等の臨時編制の警備は夫々持場に就く。お物頭以下は甲冑に身を固めて右往左往、郡奉行以下は糧食方といった風で全く包囲籠城の戦略状態である。此時お目附小串佐右衛門氏は部下を引き連れ丹後口に出て向ひ馬上大音声で「皆の者退け退け」と叫べば一同は「退くな退くな1死んでも退くな」とわめき返す。どっとあがる閧の声諸共頑丈鉄扉の丹後口門は見るまに壌はされ津波の勢で市中に押入る。これに力を得た京口門よりも南郷軍が闖入。これより暴民は手あたり次第に町役人宅をうち壊はし家財を投げ出し商品を引き裂き果ては火を放つ者さへ出来て直に修羅場、叫喚地獄と化し去った。此時破壊された家屋は町方百二十軒近在にて約百軒であったといふ。此は九つ時からの仕事である。市川氏は嫌嫌ながら軍装麗々しく大手門にあらはれた。「願の趣は聞届ける皆の者退けよ退けよ」と叫んだが市川氏の頭が見えるや否やソりヤ市川が出た。狸おやぢじゃ。人殺しぢや。親のかたきぢや。そこ動くな。打ち殺せ。首を引き抜け。などと詈り果ては投石する者さへある。
市川氏も這々の体で門内へ引き込んだ。此時この群集のあまりの暴言に憤慨してか大手門を守れる一卒安達周八といふがおもはず一発パチンあやまたず一人を仆した。血を見た猛獣の如く獣り狂った所で武器を持たぬ悲しさに仕方がない喊声をあげて最後に残してある市川邸へ市川邸とうち向つた。玄関から坐敷、書院と瞬く間に打ち壊はしたが土蔵だけは容易に倒れない。とこからか絹や木綿を数百反とり出して来た。これを引き網として土蔵の四隅に付け曳や曳やと到頭引き倒した。誰かがかやうな頑丈な建て方をした大工までも憎いとて遂にその大工の家までおそうたといふがずゐぶん滑稽にもおもふ。こゝまで暴威を揮ったらよかろう此の上やるとお殿様に謀叛になる。我々は市川には怨みはあるが、これほど暴れ廻はつたらもう要はならう杯、殊勝げに首ひまはって居る。この上は我々の願事さへ聞かれたらいつでも退くと案外やさしいことをいふ者もある。大分疲れたらしい。頭が冷えたであらう。

 八、騒擾やうやう鎮定
暴動は八月廿一日から三日間連日晴天で思ふ存分暴れまはった。聞くも忌ましい正直会所もつぶした。怨みに怨んた市川やきもこはした。此騒動に塩屋三太大方(吉田三右ェ門氏)だけは手をつけなかった。それは暴民の押し寄せたと見るや先づ炊出しをして握飯酒肴をウンと拵へて食ひ放題の呑み放題其上質草は悉皆返してやると群衆をねぎらつた。これは一寸賢明であったと思ふ。今は握飯を頬張りながら酒を呑みながら廣小路一杯になって領民はうようよしてゐる。眞に烏合の衆ではある。よい汐時見てかつて閉門隠居を申付けられた鯰江氏がわざと平服でそれでも馬上悠々と廣小路へあらはれた。一同は鯰江さんだ鯰江さんだ皆静かに静かにと互に制し合ってゐる。そこで氏はおだやかに
   願の趣は聞を届けるから一同は静かに退くがよからう。
と喩せば一同はうち肯き予て申合せておいた中村庄屋勘左衛門、石場村庄屋万右衛門等を惣代として左記十三ケ條を差出した。
一、原井惣左衝門、市川儀右衛門、関三造退役可被仰付事。
二、御免状引下げの事。(諸種の鑑札料を滅すること)
三、御検見引高御引捨の事。
四、諸産物御取払之事。(正直命所解散)
五、永銭高御引捨之事。(銀納廃止、永銭は最初永楽銭を用ひたからいふ)
六、封札積金勝手解払之事。(諸種の積金は自由たること)
七、金、他札勝手つかひ之事。(金貨、他藩の札など使用自由)
八、余米勝手売払之事。(上納米の外家得米売買随意)
九、喰延、禄出、解払之事。
一〇、御上様より御無心御断之事。(御用金拒絶)
一一、当年之頁米の内三分御容赦の事。(今年の上納三分引)
一二、此外法虔二十年前の通引戻之事。(諸規則はすべて天保年間通り)
一三、此度の徒党の者壹人も無之後日御吟味無之事。
ずゐぶん勝手な條件ではあるが取あへず之を受取って一且城中へ引き返し重役協議之上左の覚書を惣代に手交した。領民一同凱歌をあげて退出した。

    覚
 十三ケ條之 趣善右衛門殿御引受可被?侯得共一條名前有之分江戸表へ御越之上被仰上御取計可被成事
  八月
     清水安左衛門 印
     斉藤與市右衛門 印
     山縣直右衛門 印
     清水市兵衛 印
     鯰江喜間太 印
廿二日大手門前で捕はれた直見村半右衛門、卒野村和助、猪崎村太十郎、天津村市治郎、岩間村八郎右衛門、木村元助、安井村久兵衛は前記十三條によって放還された。この騒動中に横着者が多数あったのは無論である。田畑を買うたとか、家屋を新築したとか噂はとりどりであった。

  九、責任者の処分 (一)
原井、市川両氏のやり方があまりに苛酷であつたから当時他領からは福知山領内へ縁組することは厭忌されたといふ。取立のきびしさがよほど徹底して居たと見える。さて処罰、処分のことは只某は追放、某は入牢などゝ列記した所で何のおもしろ味もない。幸ひ当時数へ歌に作って民間に唄はれたものを得たからそれに註釈を加へて大体を知る便とする。

 一ツトニー 一人二人の盗賊が正直会所へ這入ったが始まりかいな。
当時藩の営業所であり又金庫である正直会所は廣小路万屋治郎兵衛宅に設けてあった。安政六年七月二日(七月四日ともいふ)
半十都、新太郎二人が押入ったことは前配の通り。そして夫は夜中すぎから丑の刻までに起った椿事である。近所からの知らせで駈けつけたのは町与力関三造其の他お徒士目付、下目付.町同心等、仝新係員黒谷屋忠兵衛、安井屋八兵衛を召出しいろいろ吟味の末、全く盗賊の所為と判った。
 翌々日犯人は福知山へ護送された。これが丁度七月四日。これ等が市川政治破滅の本である。

 強盗仕置の告示。
 当七月二日夜当町商業曾所へ押入金子並ニ銀札強盗剰へ泊り番天津屋治助、川北屋仁兵衛ヲ致殺害候盗賊無宿半十郎新太郎ト申右召捕吟味之上及白状候右体重罪之者ニ付引廻シ死罪獄門可被仰付候處当年ハ重キ御法事モ有之折柄ニ付以格別御慈悲半十郎儀ハ引廻シノ上死罪被仰付新太郎儀ハ致牢死侯ニ付不被及其沙汰條加納屋清兵衛儀ハ右手引致候ニ付死罪可被仰付之處是又以御慈悲百杖敲之上追払被仰付候右之御取扱ハ此度限ニ候以来ハ相当之御仕置披仰付候間下々一同承知可仕様被仰出候
  申十二月二日  (萬延先年)


 二ツトエー 不届なるのは関、黒忠、お上をたばかり在町を苦むわいな
関は町与力(諸吏員の配下となって同心を指揮して上官の事務を分掌補佐する六十石から八十石位)これは追放に處せられた。私が年少の頃惇明舘に入学して下宿して居た家は魚ケ棚筋の麹屋であったが、そこの主人がそのカウジムロを指して嗷訴の時関さんは此中にかくれて居った。もしうろついて居たら叩き殺されるのであつたなど話してくれた。黒忠は正直会所の元締いづれも市川氏の手先となって威張りちらし私腹を肥やし百姓町人の苦痛を顧みなかった。黒忠は騒動当時は商用で京都に往って居った急報を得て帰りかけたが帰った所で家は攘はされて居るし人目も憚つて途中櫓山から綾部街道へ出で位田村利兵衛方へ落ち着いた。福知山から追手が向ひ連れ帰って入牢。文久元年十二月廿日頃より病気にかゝり特別を以て翌二年正月伜の借家で養生することと許された。これは安井屋と共に永牢とて終身入牢の刑を受けた。

 三ツトエー 身の上知らずの安八が高い所から子をもろて首しめうかいな (又苦むかいなともある)
市川氏の男金全之助の先妻は宮津藩某の女。これは離縁になったが其の後女児と分娩して送り返して来た。即ち市川氏の孫娘である。それを安井屋がもらひ受けてお姆日傘で育てたのも束の間であった。けれども市川氏とは親子関係であるからいろいろなことを申出ても聞入れられる。御産物大取締となったもそんな関係からでもあらう。所が今度の騒動について標的人物である故に終身入牢といふ重刑に處せられ萬延元年八月廿七日入牢、仝年十月十七日牢中で咽喉をついて自殺した。死骸は木材三昧に埋めたのである。

 四ツトエー よくよくならこそ郷中が蓑笠竹槍丹後口乗り込もかいな。
当時福知山領分は南郷、和久郷、金谷郷、夜久郷の四郷六十二ケ町村であつた故に郷中と云ば 近江高島郡に千八百石余を除き 天田郡内の領分全体である。丹後口御門は寺町と鋳物師町との界今金比羅社のある下の所である。そこに立派な大門があって東の京口門と共に城下の二大関門であった。定番の詰所があって刺股、撞棒などいかめしく飾り立て胡乱な者と見たら一々誰何する。夜久郷、金谷郷、豊富郷の聯合軍が破壊したのは此門である。


 五ツトエー いよいよこれから柳町格子作りの油店乗り込もかいな。

 六ツトエー 報いを見てやれ町方の慾にかゝりてあの態と難渋かいな。
町人で市川氏に取立てられた者どもは前記黒忠、安八は永の入牢関は文久元年三月追放其の弟の加波屋九郎兵衛は牢死これ等を指したのである。序に家中で市川氏の手代として追放に處せられた者は船橋仙蔵、和田徳兵衛、桐村半六、塩見浜助、公庄源次、大橋喜六、田中好助、岡井喜三六、安達周八、伊藤愛蔵普請奉行山田字兵衛であった。(此中には私共の知ってゐる人もあるやうであるが追放であるから後年当地へ帰つた人もあるからであらうと思ふ。)

  七ツトエー 中でもお上の大将が腹も得切らず生恥を晒らさうかいな
原井、市川の両氏が騒動の張本人であればとくに切腹すべきであるお上の大将でありながら荏苒日を送って居るのはまことに歯痒い次第である。それでも原井氏は流石に自分の不明で市川を推挙したことと後悔して自責の念に堪へず、翌文久元年三月丸ノ内の自邸で切腹した。年六十。原井氏には却て同情する者も多かった。この頃市川氏は袋町の三疊敷許の挙屋 座敷牢 住居。それでも何とか殿様からの御なさけ期待して居た。真に生恥さらしたものである。文久元年も押し詰って十二月になった。江手詰の山田支之丞は藩侯の旨を含んで帰城、其月十日に市川氏と呼び出した。いよいよ今日限役向は取上げるとて大小までも召し取られた。士分の恥辱此上なし、市川氏は丸腰となって悄然と退き下った。其夜吉沢藤左衛門氏がさすがの市川も今日の申渡で最早切腹でもしてをることかとかの袋町へ出かけた。夜もすでに子ノ刻過。市川氏は態々このお見舞まことに恭い。考へると自分は切腹いたすにも延引して今日に至った。此上はたとひ生恥をかくとも今一度江戸表なる御前様に命乞を願ひ申して老後の御奉公を致したいと存すると案外なことをいふので温厚な宮沢氏もあきれかへり原井氏に次ぎたる貴殿が今日に至って命乞とは言語道断かくてはますます他領への聞えも宜しからず且つ御前様に対しても却て罪をかさねる次第と諄々喩しければ市川氏も漸く納得しそれでは是非なしとて覚悟した。だんだん時は移る夜は更けるいよいよ切腹せんと構へたが手元狂うて見えければ吉沢介錯申さんとて市川の刀をもぎ取り首打ち落し辛うじて絶命年六十一次の間に扣へた番人が直に男金全之助方へ走り報せしが罪人なれば早速死骸にさはることも出来ず隣人を頼んで大目付へ内々伺ひたり。死骸は勝手に取りかたづけ然るべしといと穏便な取扱に納棺の上金全之助方へ運んだ。老母は棺の蓋をとり、ヤア儀右衛門常日頃この母の論もきかずして今日の恥をさらす不孝者おのれは地獄に落ちゆくも母にこの憂き目を見せ女房子供まで雨露に立たせ御先祖に対して何と申訳するとにらみつけ涙もこぼさず自分の居間に退きのいた。金全之助母子は流石に死骸に取すがり悲嘆の涙にくれたがさてあるべきにあらねば泣く泣く内葬の用意し夜の明けぬ内にと菩提寺法鷲寺の墓地に埋葬した。町人四五人して、読経一つあらばこそまことに犬猫同様であったといふ。


 八ツトエー 役人庄屋が集って願書を認め百姓の難渋するのを許へよかいな。
 九ツトエー これからお上の御評定願ひかなうて下々が喜ぼかいな。
藩政時代には領内の騒擾三日以上になって之を鎮定し得ざれば領地は没収御家は断絶の掟であった。で八月廿三日の三日目にはどうしても結末をつけねばならぬ。かの十三ケ條件の第一を除いて他は悉く容認されたのもこのわけからであらう。
 十トエー 取込みしたる者共はどうせしまひは知久ノ市三昧かいな。
福知山城下の刑場は和久ノ市と木村との二ヶ所であった。打首又は罪人の死骸は皆そこで行はれ埋められた。江戸の鈴ケ森、京都の粟田口と同じである。新太郎は木村三昧に埋め半十郎は和久ノ市三昧で打首になった。今は二ヶ所とも普通の共同基地となつである。


  一〇、責任者の成分 (二)
 十一トエー  一体もとが町人で腹も得せず生恥を晒さうかいた。
 十二トエー  にくまれ、そしられ、つぶされてどうせしまひは国境追放かいな。
追放は徳川時代の刑の名で重追放、中追放、軽追放の名がある。国境とあるのは丹波国中には居られぬのである。これは重い方である。前にいつたやうに市川氏の手先となった者どもはいづれも追放の刑に處せられた。金全之助は禄は取り上げて国境外へ追放されることゝ決した。後妻は騒擾後一時綾部藩の里方へ預けて居たが今は之をも呼び戻し祖母及自分と三人借家住居をして居ったが、いよいよ文久元年三月八日永のお暇となりそれでも特に槍、両掛だけは御免となり、やがて故郷福知山を後に但馬銀山さして落ちゆき同地の縁家に辿り着いた。こゝで寺子屋を開いて居り、後当所へも帰ったといふが其の後の消息は不明である。その福知山を去る時は木村田圃に耕せる百姓たちはいづれも手を休めてその一行を見、市川の阿呆よ、罰見やがれ。その態は何だと罵り叫んだといふ。

 十三トエー さらさらお上も治まりて下も喜ぶごまんざい唱へうかいな。
 十四トエー  しぶとい市川馬に乗り力んで出る所竹槍で迫ひかけよかいな。
市川氏はその改革の効果が見えそめた頃新宅地を賜うた。今の内記五丁目で旧四ツ切で立流な建築をした。此項丁度福知山へ上方者とて入込んで居る庭造があった。手並が良いとてなかなか評判が高かった。市川氏か出入の者から勧められて彼の庭造を雇入れた。あゝかうと市川氏の望むまゝに四季山水を始め立石、伏石、対面石、不動石、蘇苔に至るまで月日をかさね金にまかせて数奇をこらした。この庭造こそ幕府の隠密使であらうとは誰も知らなかった。彼れ庭造にしてみるとこんなに好都合にゆくとは予期しなかったらうが、うまく入り込んで市川氏の仕振は手に取るやうに分り内外ともに詳細に知り得て暇を普けたのであった。幕府ではかうして内幕まで承知して居つたから藩侯の一と通りの中澤位では早速決定しなかった。けれども文久元年六月には最後の申渡で奏者番を免じお国替の所特別の御詮議で江戸お屋敷替となって従来の外桜田から赤阪今井谷に移された。が翌文久二年二月復職八丁堀に邸宅を賜うた。但し前年中は領民も遠慮して町方在郷とも盆踊停止。天照宮 今天照玉命神社 の八朔祭などにも相撲は差止められた。十四は市川氏が大手門に向つた所をいったのである。

 十五トエー 郷役つとめた原井さん、存じもよらぬ御切腹いとしいかいな。

 十六トエー  ろくろく算盤して見たら此年や黒忠厄年でよからうかいな。
黒忠の牢死は六十一才であった。

 十七トエー  七八年は出世して今の態見て親達は外聞かいな。
市川氏のいよいよ改革に着手したのは嘉永三年頃らしい。万延元年迄は約十年である。がその間の最も時めいた時代をいったものだらう。無論手先となったものも含めたるはいふまでもない。

 十八トエー  早うから此子氏知れたなら原井へ娘はやるまいになう朽木さん。
自殺を遂げた原井氏の跡目、応氏の妻は重役朽木善右衛門氏の女である。かゝる関係から原井応氏は閉門差許後程なく出仕することになった。

 十九トエー  国に殿さん御座ったらお目にかけたいこの嗷訴なうとの嗷訴。

  二十トエー 早や早やお江戸へお飛脚を殿さん聞かれてお腹立もつともかいな。
網張侯は万延元年六月江戸参勤。公儀からは気味わるい程詰問され領民に封しては例の十三ケ條の実施。幾度か重役会議の席上、席を蹴立てゝつと居間へ引き込まれたとか。これを見かねて森忠左衛門、川瀬條右衝門氏等はいろく慰安の方法を案じた。侯の酒好を幸ひ奥方、女中によく意と含めていろいろと企てたといふ。かくて文久三年五月帰城、慶応三年三月十三日病俄に起りて城中にて卒去年五十二。錦江院と諡し城東土師村円覚禅寺に葬る。治世およそ三十一年その間真に波乱重疊痛ましい一生であった。




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