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与謝野晶子
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丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の歌人。 (同町の観光パンフより↓)
![]() このページは晶子だけの簡単な紹介。 付 真下飛泉「戦友」 与謝野晶子↓これは大内峠の歌碑 ![]() ![]() ![]() 海山の 青きが中に螺鈿おく 峠の裾の岩滝の町 晶子 楽しみは大内峠にきわまりぬ まろき入江にひとすじの松 寛 昭和5年に丹後を訪れた時のものという。 ![]() 明治〜昭和初期の灼熱の歌人として知られる。しかしそれだけにとどまらず、古典研究や女性の自立を求めた評論活動、教育と社会活動など多様な分野に及んだ優れた万能選手で、私は日が三つの名と詠んでいるが、ホントにそんな女性である。 11人も子供がいるのだが、写真を見れば夢二の美人画のトロンと夢見ているようなお嬢さんに見えるのだが、周囲の猛反対をおして風呂敷1つで、知らぬ他国の定収入なしの貧乏文士(失礼)の元へ飛び出して、彼らを育てた母でもある。単に文学愛好女性であるはずがない、八面六臂の仏様のようなスーパーレディーで、1人でも育児ノイローゼになるようなひ弱な母、いや普通のどんな女性でも真似のできない活躍をするのであった。 ![]() ![]() 江戸末期からの和菓子商、練羊羹が売り物の老舗・駿河屋、鳳家の3女として生まれている。 堺は古い歴史を持つ自治都市で、「もののはじまりみな堺」といわれる、新しい情報がいち早く入り、あたらしい物事を生み出してきた、そうした堺商家の出であり、一種の強い反骨精神を生きぬいた人々の多い市民自治の町で育った。 鳳はホウではなく、本当はオオトリと読むのだろうと思うが、近くの神社か地名から取った明治の新姓だろうといわれる。近くに和泉一宮・明神大社の大鳥神社があるが、そこから取ったものではなかろうか。大鳥神社は鳥取神社で、ひょっとしたらホウでなく鳥取とか倭文とかの姓になっていたかも知れない。戦災で焼失後、戦後の区画整理で生家は道路(紀州街道)となったそう、そこには今は生家記念碑があるという。 海恋し 潮の遠鳴り数へつつ 少女となりし 父母の家 の歌碑があるそうだが、その海も埋め立てられて潮の遠鳴りをかぞへることはもうできないそうである。 ![]() 兄は、早くから秀才の誉れ高く、三高を経て東京帝大卒業、翌年には同大学助教授に任ぜられ、英・米・独に3年間留学した電気工学の泰斗であるそうだが、晶子もそんな兄と才能を分け合っているのか科学や理数系も強かったといわれる。今なら3万とも4万ともいわれるほどの秀歌を量産するかたわらにスーパーコンピューターを悲鳴をあげるほどに使いこなすような女性でもあったようである。 彼女としては兄と同じような高等教育が受けたかったようだが、おまえは女だし、兄ちゃんはもう帰ってきそうにもなく、姉ちゃんたちは他家へ嫁いでいるし、おまえがこの家の大事の跡取りになるかも、そんなことで箱入り娘にされて、親元を離してはもらえなかったかも。それは知らないが、彼女自身が求め満足するような高等教育は受けなかった。この兄は殊に晶子の結婚に反発したり抗議したりするのだが、元はと言えば長兄のくせに自分が跡取りしないからであろうが、勝手なことを言うだけの資格があるのかと、ワタシは思ったりする。 ふだんは帳場に坐って店番の手伝いをしながら、独学で古典を勉強し、あるいは新刊の小説類を読む、12時には消える電燈の下で両親に隠れながら、1時間か30分の明りを頼りに清少納言や紫式部を読みふける「本の虫」の文学少女だったという。 ![]() 「読売新聞」に載ったものというが、こうした鉄幹の無造作に率直な詠みぶりに刺戟されたという。このあたりがまいりはじめか。 明治32年、浪華青年文学会堺支会への入会。その機関誌が「よしあし草」で、明治30年創刊、末期に「関西文学」と改題され、34年まで続いた。堺支会中心の短歌会に「新星会」があり、後には鉄幹も加わり、山川登美子らもいて、晶子もこのグループ仲間になる。 ![]() ![]() あひ見れば優しの君よ歌みればをたけび男与謝野鉄幹(赤堀花蔭) と詠まれているが、『東西南北』のますらをぶり以来、「虎の鉄幹」の異名をとる男の、会ってみれば想像とは180度異なる優しい物腰と新しい自分の詩を歌えと説くさわやかな弁舌に、すっかり心を奪われ、晶子はもう降参やわの気分だっただろうか。 ![]() ![]() 石よりもつめたき人をかき抱き 我世むなしく 沈むべきかな この年の秋には林タキノの実家からは離別をいわれている。その帰途大阪に寄り、晶子・登美子を誘って、京都で小遊を試みた。 3人の話題は登美子の気に染まぬ縁談の話であったというが、それからすぐに登美子は結婚する。 ![]() 8月、歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で東京新詩社より刊行。 秋には、木村鷹太郎の媒介で、内妻林タキノと別れた寛と結婚。おめでとうございます。 だが、寛はタキノに未練も残しているし、山川登美子もいるし、まだまだほかにも…。多感で繊細で新派浪漫派を打ち立てようとする時代の期待の旗頭だから、それはある程度は詩人稼業の「職業病」のようなものか、ヨメはんがむこうから飛び込んできても、そう急にはココロは変われないというのか、立派すぎるヨメハンがあせってココロを独り占め奪おうとすれば、彼の才能を殺してしまうことになるかも。悪妻の方が彼の場合はいいかも、ソクラテスの如くに。良妻・悪妻は見方次第で、良すぎると、たいていダンナは死んでいる、息子も死んでいる、もう使い物にならない、あまりにしあわせ過ぎるのだろうか、それはジワリジワリと確実に最愛の周辺の人々を殺してしまうと、そんな感じをうけるのだが… ![]() やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅なからずや 罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながく作られし我れ 何版というのか短冊のような細長い本で、新しい酒は新しい革袋に、というわけだろうか、なかみだけでなく装幀・挿絵の造本もすばらしさいできばえであった。今本屋にあっても、えっ、ナニコレという感じで思わず手に取りそうな本に盛られていた。 舞鶴ならそれまではユウサイ様的なものが和歌だとばかりに思っていたところへ、うら若き女性によるこうした歌集である。ワタクシのような年老いた品行方正な聖人君主は横向いてふるえおびえかも知れないし、多くは読みもしなかっただろうが、この書のウワサくらいは皆が知っていた、三、四版と版を重ね、若い文学者達必読の愛読書となり、学園の禁断書とされながらも、新しさを求める当時の若者たちの脳天へガン!と大変なショックと深い影響を与えるものであった。 ![]() 明治37年『小扇』、『毒草』(寛と共著) 明治38年『恋衣』(山川登美子・増田雅子と共著)。 『恋衣』の長詩「君死にたまふことなかれ」は、前年の「明星」に載った作。 君死にたまふことなかれ 末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや 堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ 君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり … 姉が弟の無事を祈るのは当然ではないか何が悪いか、ということであろうが、しかしあなたできますか、原発だって表だって批判する者は最初はなかった。「乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と極論した者もあったが、自分だって息子が確実に戦死する攻撃軍にいれば、そんなことが言えるのか、ひとの息子だからタテマエ的寝言をいっているのではないのか、本当に国民のためにやっているものか考えてみてはどうか。 避難としている人は今でも34万人にもなるそうだが、いつ戻れるかは不明である。半分は原発事故の放射能汚染ためであるが、どこかの原発を持つ電力会社の課長とかは死者は一人もいないから原発は安全で、今後も稼働させるべしだと本来なら遠慮すべき会で信じがたいアホを言っている。擁護するもっとましなリクツがないのだろうか、返ってこうした連中の信用をまたしても落としてしまったようだが、日露戦争の死者は85000、負傷者は15万ほどであったとされている。弟君はその1人には入らなかったようだが、跡取り息子だったからかわからないが、もし女神のこの歌声をもう少しキチッと全国民が受け止めていたならば、後の戦争の2000万人犠牲の大惨禍は発生しなかったことであろう、痛恨の極みの思いを込めて、今からでももう一度読み返してみたいものである。 ![]() 英太郎東助と云ふ大臣は文学を知らずあはれなるかな といった、大臣や「駄獣の群れ」の議会に対してボロッチョンの批判歌も発表している。今に至ってもそうした文学知らずどころか、原発を知らず、国民の生活を知らず、何も知らず、あわれなるかな、の極地をいくクソ政治屋ばかり、子供を知らず守らず、自己保身だけ、あわれなるかな、の教委と学校、本当にあわれなのはその国民や子だが、有権者よしっかりと選べよ、孫子のあわれを本気で思うなら。なかにはよいのもいるかも知れないから。 ![]() 明治44年寛の出発。翌45年晶子も子供を残して、単身旅立つ。ウラジオストックまでは船旅、シベリヤ鉄道を経由、パリに赴いた。晶子は観光客ではなく、十冊もの歌集を持つ日本の代表的女流詩人として遇され、ロダン、レニエ、ヴエルハーレンらの詩人とも親しく会うことができた。パリ祭も見物し、ルーヴル美術館その他名所・史蹟を訪ねた。 ![]() ![]() 同年は、文化学院創設、第二次『明星』創刊。 11年『草の夢』、13年『流星の道』、14年『瑠璃光』 母性保護論争に加わったりして積極的に活躍し「人及び女として」(大正5)、「激動の中を行く」(大8)などの評論集を多く著している。 12年は関東大震災で、 十余年わが書きためし草稿の跡あるぺしや学院の灰 駿河台の文化学院に預けてあった「源氏物語」の訳註の原稿が焼失した。 大正末期から昭和初めにかけて、寛・晶子は、『日本古典全集』の仕事に没頭。 晶子ほど多くの旅をした女流歌人は少ないといわれるが、沖縄をのぞいて全国を旅行もしている。 ![]() 5年、『満蒙遊記』、丹後へも足を伸ばした。新詩社最後の拠点となった『冬柏』創刊。 9年、那須で晶子は大患をし寛は必死になって看護につとめている。 人の屑われ代り得ば今死なん天の才なる妻の命に 翌10年、そののぞみ通りとなったか寛の死去。そのあと、改稿決定版『新新訳源氏物語』が成った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ←館内の晶子の掛軸(パンフより) 皐月風与謝の入江をわたる日に 大内峠の新道を行く 晶子 同文庫中庭の晶子の歌碑↓ ![]() 直筆の色紙を信楽焼で再現したという。 いと細く香煙のごとあでやかに しだれざくらの枝の枝の重なる 新築した自宅の庭に友人から桜樹を贈られたという、そのときのものだそう。 与謝野晶子の主な歴史記録『丹後路の史跡めぐり』
![]() 関連情報![]() ![]() 真下飛泉(ましも・ひせん)![]() 良くても悪くても歴史が残る、生きたあかしは残される、おこない悪いと子孫に恥ずかしいぞ。 しかし唯一の例外的な若者がいる。 ここはお国を何百里 離れてとほき満洲の 赤い夕日にてらされて 友は野末の石の下 ![]() 思へばかなし昨日まで 真先かけて突進し 敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか ああ戦ひの最中に 隣にをつた此友の 俄かにハタと倒れしを 我はおもはず駈け寄って 軍律きびしい中なれど これが見すてて置かれうか 「しつかりせよ」と抱き起し 仮繃帯も弾丸の中 折から起る突貫に 友はやうやう顔上げて 「お国のためだかまはずに おくれてくれな」と目に涙 あとに心は残れども 残しちやならぬ此からだ 「それぢや行よ」と別れたが ながの別れとなつたのか 戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では どうぞ生きつてゐてくれよ 物なと言へと願うたに … (5) 戦友 - YouTube と14番まである長編の「戦友」の作詞者・真下飛泉は、鉄幹の温江からなら大江山を東に越した、大江山東麓の福知山市大江町河守小字新町に生まれている。明治11年生まれだから、晶子と同年、鉄幹より5歳年下で、「明星」の熱心な投稿者、鉄幹の数多い弟子の一人であった。 日露戦争の時代に一世を風靡した与謝野晶子の長詩「君死にたまふことなかれ」と真下飛泉の爆発的国民歌謡「戦友」がいずれも丹後と関わり深い人によるものだったことはわれらの郷土の誇りとしよう。 ![]() 読めばわかるように、飛泉の非戦、悲戦、否戦、避戦、疲戦の思いが込められた「軍歌」で、野戦叙事詩とでも呼ぶようなものである。幾人もの実戦体験兵士に聞き取って彼らの立場に立って作詞した、戦場の一瞬先の命もわからぬ激しい戦闘下での下級兵士たちのココロが詠まれた叙事詩である。聞くものはいきなり砲弾飛び交う戦場へスリップさせられ、軍記物を語る琵琶法師を聞くごと、聞く人みなすすり泣いたという。机上でデッチあげたアホくさい戦争の賛美歌などではまったくない。 以下『大江町史』によれば、 ![]() 明治33年ごろから短歌を与謝野鉄幹に師事し、鉄幹主宰の「明星派」の影響を強くうけたといわれる。 国を出てて高きにのぼりふりかえり 誇るべき地のせまきを見たり 明治37年5月、師範学校附属小での学芸会に、5年生を担任していた飛泉は、自作の「出征」という唱歌劇を出演させた。この年2月日本はロシアと戦端を開き、町から村から赤襷をかけた応召の兵士が、兵営をめざして陸続とつづいた時代のさ中であったという。 ![]() この歌は忽ち各地にもてはやされ、「…中には軍人遺族の家庭ではこの歌をうたって毎日涙だとききまして、作者たる私は望外のことと思うのであります…」と飛泉自身をも驚かせた。 この第一作を契機に38年9月、第三作「戦友」が生まれる、歌詞は別掲のとおりで、作曲者三善和気の曲を得て忽ち爆発的な流行をみ、国民歌謡となって全国を風靡した。 三善和気はこの時20歳、市内小学校に勤務しており後年宝塚歌劇学校に転じた。飛泉の下宿へバイオリンを抱えてきた彼は、爪弾きでこのメロディーを飛泉に伝えたという。 飛泉はこの曲が世に受けない時のために、別にヨナ抜きの兵隊ぶしも用意したが、今この方は全く用いられていない。 ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『加悦町誌』 『加悦町誌資料編』 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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