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2013年(平成25年)8月24日は、浮島丸事件から68年目。「浮島丸殉難者を追悼する会」は、爆沈現場に近い舞鶴市佐波賀 の「殉難の碑公園」で、300余名ばかり今年も集会を開いた。だいたいこの日は晴れるが、今年は曇りで小雨がまじった。
今回はこんなDVDや絵本なども並べられていた。↑ 三羽の折り鶴も加わった。
浮島丸の犠牲者は国の発表ですら500人超、実際はその数倍もあったと思われるが、これほどの大事件を知らない、正確な知識のある市民はどれくらいになるだろう、周辺諸国から非難されているのは市民でもある。 現場からなにほども離れていない場所で生まれこのトシになったが、この事件を誰にも正確に伝えられたことがない。自分で本でも読んで調べる方法しかなかった。 私のオヤジはこのあたりで海運関係の仕事をしていたようで、「ここに浮島丸で死んだ朝鮮人らの頭骨がいっぱいならべてあったわい」などと多少は断片的に聞いたくらいである、教科書などどうひっくりかえしても記述はなく、多感な時代を詳しくも知ることもなく過ごしてしまった。 思えば今のその年代の若者たちも同じではなかろうか。松江のように意図的に隠される場合すらある。 戦争被害をおおびらに語るのもはばかることは今でも一部では見られるし、ましてや加害を語るなどは、史実であったとしても市民社会でも今でもまずどこでもタブーとなっている。うっかり語ればその社会から追放である、松江ばかりではない。 都合の悪い過去とは向き合わない、誠に勝手な情けない者である、程度の差はあれ、たいていが皆その様子で、それが今の政治の右傾化を生み出している根かも知れない。 過去を忘れる者は未来も忘れる、歴史認識を非難されない一人前市民となるには、まだまだなすべきことが多く残されていそうである。 この現場へ立ち戻るより出発できない。こんな歴史はカナンわいや、の声もあろう、みな本心ではそうであろう、しかし教えていくより、伝えていくより、未来はない。 改めてそうした思いにさせられる会である。 2013年集会次第 (主催者のパンフ「浮島丸殉難68周年追悼集会次第」。当HPの引用はすべて同パンフによります) 浮島丸殉難68周年追悼集会 次第1 開会 2 黙祷 3 追悼の辞 1)主催者 2)開係諸団体 (在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会) (在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部) 4 来賓及びメッセージ紹介 5 献花 京都府知事 舞鶴市長 関係諸団体 6 献茶 韓国茶道協会京都支部 7 慰霊の舞 金一志韓国伝統舞芸術院 8 追悼歌 「はまなすの花さきそめて」京都朝鮮中高級学校 9 献花 参加者一同 10 閉会 ↓以下は集会の式の順番通りの紹介ではありません。1時間ばかりの集会のメダマ、売り出しもの(私の判断)の方を先にしています。
都年子さんと宮本雅代さんの献茶。お茶は「パク・クネ大統領賞受賞・雀舌茶」という伝統茶(聞き取りのため、ちがったかも)だそう。 日本の茶と関係があるものなのか、調べてみるがわからない。日本の茶は中国から入ったと言われているし、朝鮮の茶は中国やインドが言われている。茶は照葉樹で、日中印韓などは古い文化のベースは同じものだろうが、それそれの自然や歴史、全体の文化を背景にその後はそれぞれが別個に発達していったものかも知れない、どこもまったく同じで個性なしでは面白くもなく文化もなく脳死の属国である。
金一志韓国伝統舞芸術院の皆様
京都朝鮮中高級学校生徒の皆様 13朝鮮中高級学校生徒の皆様。 プラウザやその版によっては再生できないかも、その場合はここからDLして聞いて下さい。(自分で聞く範囲にして下さい) 「はまなすの花 咲きそめて」
集会の最後は犠牲者たちの眠る海へ向けて、参加者一同の献花。今回はそれに先だって献茶が行われた。 68年前のこの日、朝鮮引揚者たちが沈んだのはこの海であった。引揚港舞鶴のもう一つの原点、戦後史の出発点である。
浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難68周年追悼集会」を開催するにあたり、549名(政府発表)の犠牲者の皆様方に謹んで哀悼の誠を捧げます。 1945年8月24日静けさを取り戻した舞鶴湾に入ってきた浮島丸が、午後5時20分頃ここ下佐波賀沖で、突然発生したすさまじい爆発音と共に、真っ二つに折れて沈んでいきました。静かな海は阿鼻叫喚の生き地獄に一変しました。 急を知った近くの佐波賀の人々などの、懸命の救助活動にもかかわらず、女性・乳幼児を含む乗客524名が、乗組員の日本兵士25名と共に、かけがえのない生命を失ってしまったのです。 この大惨事には長い歴史的な背景がありました。1910年(明治43年)日本は統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、36年に及ぶ、植民地化政策を行ってきました。その結果、土地も仕事も失った人達が激増し、その多くは日本へ家族ぐるみの移住を余儀なくされました。一方、第二次世界大戦が勃発した1939年(昭和14年)からは、年老いた母を残した若者や一家の働き手である父親が、次々と日本へ強制的に連れてこられ、戦争遂行のための労働力として日本の各地で苛酷な労働を強いられました。このような背景を負っていただけに、過酷な異国での厳しい労働に耐える事が出来たのは、家族との安らかな生活と祖国の独立の実現でありました。 1945年8月15日の日本の敗戦は、家族との再会や祖国の独立への参加を現実のものとしました。しかし、浮島丸事件はこうした希望や喜びを一瞬にして消し去ってしまいました。私たちは亡くなられた人々が祖国の独立の回復の希望に胸をふくらませ、それを絶たれた無念さを思いました。私たちが浮島丸事件に取り組む時、一つには浮島丸事件の背景を日本の歴史の中で考えること、もう一つはこの事件で犠牲になられた人たちの立場になって考えることです。絶たれた希望や想いを共有することであり、それを語り継ぎ、忘れないことです。 大湊海軍警備府が出した「本国送還」の指示で、青森県下北半島方面で働かされていた朝鮮人労働者とその家族3735人(政府発表)が乗った旧日本海軍輸送船「浮島丸(4730トン)」は、8月22日午後10時に大湊を出発して航行を続けました。連合軍の要求に基づいて発せられた日本政府の命令で、浮島丸が針路を舞鶴に向け、湾内に入った直後にこの大惨事が起きたのです。夢にまで見た故郷や肉親との再会を翌日にひかえて、船内が喜びに沸きかえっていた最中に、予想もしなかった大惨事に遭遇し、尊い生命を失われた皆様の悲しみと無念さは如何ばかりであったでしょう。 私達は広範な市民の方々の浄財と京都府及び舞鶴市のご援助を頂いて、1978年8月、事件発生現場が一望できるこの地に「殉難の碑」を建立し、毎年追悼集会を閲催して今日に至っています。 犠牲者の皆様方のご冥福を心からお祈りすると共に、そのような歴史的背景を持つ「浮島丸事件」を風化させず、我が国が過去の過ちと教訓を忘れて、再び同じ道を歩むことを決して許してはならないと考えたからです。 しかし、現在日本の状況は過去の歴史の事実を認めず、再び誤った歴史の道を歩もうとするかのような事があり危惧されます。 私はものつくりをする者として想います。「戦争はいかなる大義名分があろうとも、破壊しかありません。常に弱い立場の人々が犠牲となっています」「人間が尊い生命や人の気持ちを奪う事は決して許されません」。 私は、日本人として、過去の歴史的加害に対して、心より謝罪の意を表するとともに、日本の若い世代に、正しい日本の歴史を伝える事を責務として、追悼事業を続ける決意です。 私達は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意する」と明記されている日本国憲法の立場に立って、追悼集会を続けてきました。 東京、中目黒の「祐天寺」には、いまだに故郷へ帰れない「遺骨280体」が残っております。 私達が願う日本海(東海)は、友好の船が行き交う平和な海であります。r浮島丸事件」を忘れないことを「日本人の責任」として、事件から教訓を学びとり、平和の確立に向けてこれからも追悼事業を続けて行くことが浮島丸犠牲者の皆さんとの約束であると思います。 日朝、日韓、日中国民の友好関係のさらなる発展を念じ、犠牲者の皆様のご冥福を心からお祈りして、追悼の辞と致します。 2013年8月24日 浮島丸殉難者を追悼する会 会長 余江勝彦 〉 在日本朝鮮人総聯合会京都府三丹支部常任委員会 委員長 李 宗一氏の追悼の辞 〈 ◆浮島丸殉難68周年 追悼の辞 私は、浮島丸殉難68周年を迎えて犠牲者の霊前に衷心から哀悼の意を表します。 68年前の今日、《亡国の民》の苦しみと悲しみ、そして残酷な民族差別と虐待に耐え、漸く解放を迎えて、明るい希望を胸に懐かしい祖国に向った3735名の同胞を乗せた浮島丸が、この舞鶴港で突然爆発し、549名の尊い命が犠牲になりました。 今から103年前の併合により朝鮮人は、土地や財産、資源のみならず、民族の魂である言葉や名前までも無残に奪われました。 一世紀という長い歳月が経ち今日に至るも、日本政府は一般的な言葉でのみ、朝鮮植民地支配に対して遺憾であるなどと口にするものの、過去清算を誠実に行わないばかりか、この「浮島丸」事件の真相究明も、公的謝罪も、そして当然な補償も行おうとしないことに、憤激を禁じえません。 最近、世界的にも批判されている、一部日本の政治家の歴史修正主義的な妄言、高等学校無償化適用同題を始めとする朝鮮学校に対する差別政策、「朝鮮人は日本から出て行け!殺せ」などと動物も恥ずかしがるような暴言を吐き、街を闊歩する集団のヘイトスピーチなど、日本社会の中で絶え間なく息づく排他的傾向が日ごとに増しています。 これらの根本原因は、行き着くところ、日本政府が、浮島丸爆沈事件を始めとする植民地犠牲者たちに、公式謝罪も補償もしないまま、見過ごしてきたところにあるのではないかと思います! このような状況が続くのを憂慮するのは、私だけでしょうか? 開放された祖国の繁栄と、懐かしい故郷での楽しい暮らしを夢見て、浮島丸に乗船し無残にも犠牲になられた先輩たちは、わが民族が半世紀以上にわたり祖国分断の苦しみを受けるなどと想像すら出来たでしょうか! 事件から68年目の今日に至っても、祖国を統一できず、同じ民族同士がいがみ合ったり一つになれないことに対し、申し駅ない気持ちでいっぱいです。 それでも、犠牲になられた同胞の皆さん!もう少しだけ、待ってください。我々は、あらゆる問題に対し、今後も、《わが民族同士》の精神に基づいて、一日も早い祖国統一を実現し、すべての兄弟姉妹が一つのふるさとで幸せに暮らせるように全力を尽くす覚悟です。 最後に、事件当日の負傷者救援をはじめ今日までの真相究明、啓蒙、そして追悼行事などご苦労なさっている、余江勝彦会長を始めとする《浮島九殉難者を追悼する会》の皆様と地元住民の皆様に、心からの謝意を表し、私の追悼の辞といたします。 2013年8月24日 在日本朝鮮人総聯合金京都府三丹支部常任委員会委員長 李 宗一 通訳 在日本朝鮮留学生同盟 京都地方本部 部長 高 明愛 〉 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金 英王氏の追悼の辞 〈 追悼の辞 本日ここに「浮島丸殉難68周年追悼集会」を迎え549名の犠牲者の皆様に謹んで哀悼の誠を捧げます. この追悼の碑を訪れる方も年々増えており、このような悲劇があった事実を後世に伝え続け決して風化させてはなりません. 長年に亘り追悼の行事に努めてこられた「浮島丸殉難者を追悼する会」の方々に謹んでお礼申し上げます. さて 我が祖国では昨年12月我が国歴史上初の女性大統領 朴護恵大統領が誕生しました. そして本年6月には訪中し両国の政治・安全保障分野での戦略的なコミュニケーションを強化することで合意し未来志向的な両国の緊密な友好関係を対外的にアピールしました.北東アジアの平和における両国の役割は大きく更なる発展を望みます. 今年は朝鮮戦争休戦から60年になります.この戦争では死者400万人ともいわれ、離散家族は当時の南北の人口の3分の1に及ぶ1、000万人とも言われています. このような悲劇は二度とおこしてはならず 南北の早期の平和的統一を成し遂げねばなりません. さて日本に於いては 大阪市長の従軍慰安婦発言、自民党の衆議院、参議院選挙の圧勝による憲法改正懸念等、韓日関係は必ずしも良好とは言えません. 難しい歴史同題等有りますが 我々市民レベルに於いては韓日交流を一層推し進め、相互理解、共存共栄の社会を目指し一層努力して行きます. 最後に事件当時困難な状況で救助に尽力なされた地元佐波賀の皆様方に改めて御礼申し上げ追悼の辞と致します. 2013年8月24日 在日本大韓民国民団京都府舞鶴支部 支団長 金英王 通訳 在日韓国婦人会京都府舞鶴支部 会 長 朴昭子 〉 メッセージなど 〈 浮島丸爆沈事件68周年に際して 私は、尊い命を落とされた同胞犠牲者とその遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。 日本帝国主義による植民地統治から解放された喜びに沸き、懐かしい故郷へと向かう同胞を乗せた日本海軍輸送船「浮島丸」が爆沈され、早や68年の歳月が過ぎようとしています。 この凄惨な事件により、数千人の無辜なる同胞たちが犠牲となりました。しかし日本政府は、68年が経った現在もこの事件の真相を明らかにしておらず、また、同胞犠牲者の遺骨をすべての遺族に返していません。 ましてや、同胞犠牲者とその遺族に対する謝罪も補償もせず、この事件の真相を一貫して隠蔽しつづけています。 このような日本政府の姿勢は、現在、過去の植民地統治の犠牲者でありその子孫である在日朝鮮人に対する不当な差別政策にも露骨に表れています。 日本政府は、朝鮮民主主義人民共和国に対する不当な制裁措置を発動し強化しつづけることによって、日本社会で朝鮮と在日朝鮮人に対する敵対意織をかつてなく煽っています。 とくに各種学校の認可を得た外国人学校の中で、朝鮮高校の生徒のみを無償化制度から除外するなど、国際的にも認めもれている民族教育の権利を著しく侵害しています。 私は浮島丸爆沈事件68周年に際し、日本政府がこの事件の真相を明らかにし、犠牲者とその遺族に対して謝罪と賠償を速やかに行うとともに、在日朝鮮人に対する不当な差別政策をただちに是正することを強く訴えます。 皆さんもご存知のように、今年は浮島九爆沈暮件の68周年であるとともに、関東大震災朝鮮人虐殺事件が発生して90年を迎える年です。 在日朝鮮人人権問題の発生原因と以降の歴史、そして国際的な人権擁護の趨勢から鑑み、これらの事件の現在的意味を問うことは、私たちにとってとても重要な意味を持つものと思います。 68年前の浮島丸爆沈事件、そして90年前の関東大震災朝鮮人虐殺事件のような惨たらしい事件を二度と繰りかえしてはならず、そのために私たちはあらゆる努力を傾けていかなければなりません。 たとえ多くの歳月が流れようとも、この不幸な出来事を決して風化させることなく世代を継いで伝えていき、歴史的教訓を現在、そして未来へと生かしていくことが、今を生きる私たちに強く求められています。 私は浮島丸爆沈事件68周年に際し、朝日間の不幸な歴史を克服するため、そして心が通い合う真の朝日友好親善関係をつくるため、皆さんとともに邁進していく決意をあらたに表明する次第です。 浮島丸殉難68周年追悼集会にご参席された皆様に、心からの敬意を表します。 2013年8月24日 朝鮮人強制連行真相調査団 朝鮮人側代表 在日本朝鮮人総聯合金中央本部 副議長朴久好(パク・クホ) 〉 〈 本日、浮島丸殉難68周年追悼集会が挙行されるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。 68年前のこの日、ここ舞鶴で海軍輸送船浮島丸が沈没し、多くの犠牲者を出す大惨事となりました。 この惨事を知る方々も高齢化している今日にこそ、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語り継いでいかなければなりません。 ここに改めて平和への決意を新たにするとともに、お亡くなりになりました方々のご冥福を心からお祈りいたします。 なお、厚生労働省でお預かりしているご遺骨は、東京都の祐天寺に丁重に安置されていますが、現在、外務省等と連携して韓国政府と早期の返還に向けて取り組んでいます。 ご遺族の方々並びに関係各位のご健勝を心から祈念申し上げます。 厚生労働大臣 田村 憲久 〉 〈 メッセージ 2013年度浮島丸殉難68周年追悼集会 御中 2013年度浮島丸殉難68周年追悼集会にあたり、犠牲になられた方々への、心から哀悼の意と、平和への誓いをこめてご挨拶を申し上げます。 二度と戦争のない平和な世界と日本を作ることが政治の責任と、強く自覚をしているところです。私たちは、今こそ日本の 平和憲法を守り、韓国・朝鮮の皆さまと手を携えて、恒久平和の実現のため、全力でがんばる決意です。 最後に、ご遺族ならびにご参加のご健勝とご多幸を祈念して、ご挨拶としlます。 二〇一三年 八月二十四日 日本共産党 衆議院議員 こくた恵二 参議院議員 井上さとし 参議院議員 倉林 明子 〉 〈 「浮島丸殉難68周年追悼集会」開催へのメッセージ 海軍特設輸送艦「浮島丸」が、約4千人の朝鮮の方々を乗せて、大湊港から釜山に向けて旅立ってから68年目の夏を迎えます。 例年にない猛暑や大雨など厳しい条件の中で、「浮島丸殉難68周年追悼集会」を開催されます舞鶴市「浮島丸殉難者を追悼する会」の皆さんに心からの敬意と連帯のメッセージをお届けいたします。 浮島丸の生存者であるキム・スゴンさんが、浮島丸事件から47年後に、大湊港の跡地を訪れたときに「あれから47年が経った。一緒にここから浮島丸に乗った同胞のほとんどは亡くなった。うらみ・つらみはもう言うまい。ただ、朝鮮半島から連行されてここでつらい思いをした朝鮮人がいたことを忘れないで欲しい。」という言葉を残しております。 「浮島丸下北の会」は舞鶴市の皆さんのご協力やご支援のもとに「出港追悼集会」に取組今年、20回目という節目の開催となります。 彼の言葉に答えるかのように、当時のゆかりの地を訪ねたり、労働現場を目撃した方々からお話を開く作業を続けています。 「忘れないこと」、なぜこのような事件が起こったのか、浮島丸事件の真実を知り、「次に伝えること」の取り組みが、二度と悲惨な歴史を繰り返さないための「平和」の誓いだと思っています。 「浮島丸殉難68周年追悼集会」の御盛会を心から願っています。 2013年8月24日 浮島丸下北の会 会長 村上 準一 〉 参考資料 これまでの略史が同じパンフに書かれている。 〈 浮島丸殉難67周年追悼集会にあたって 1.1945年(昭和20)午後5時過ぎ、日本海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)が舞鶴湾に入港してきた。青森県地方で働いていた朝鮮人労畿者とその家族(3735名)を乗せ、8月22日午後10時に大湊港を出港、釜山へ向かう途中針路を変更、日本海を南下して舞鶴湾に入ってきたものである。入港してきた浮島丸は下佐波賀沖にさしかかたところ、突如大爆発音とともに中央部から二つに折れて沈没した。突然の大事故により、近辺住民など懸命の救助活動にもかかわらず朝鮮人524名、乗組員25名、計549名(政府発表)の犠牲者を出す大惨事になった。 2.1910年(明治43)日本は統治権を朝鮮から奪い、朝鮮に総督府を置き軍隊を常駐させ、武断政治と同化政策をとった。朝鮮人民は日本語の使用を強制され、日本名を名乗らせられ(創氏改名)異民族の宗教である神社参拝を強要された。又、法律の悪用による土地取り上げが行われた。15年戦争の進行と共に、朝鮮人にも徴兵・徴用がおこなわれた。 徴用された人達は炭坑・鉄道や軍の施設の建設工事等に従事させられ苛酷な労働が強制された。浮島丸はこれらの人の帰国のため配船されたものであった。 3. 1954年(昭和29)4月1日、東舞鶴公会堂において第一回浮島丸殉難者慰霊祭が同実行委員会と東本願寺の共催で行われた。実行委員会の呼びかけ人は、大山郁夫(参議委員)未川博(立命館大総長)住谷悦治(同志社大総長)大谷蛍潤(東本願寺)その他の各氏である。 以来、東本願寺別院(市内浮島、至志徳寺)などで追悼慰霊祭が行われてきたが、追悼の碑建立の気運が起こり、佐谷靖舞鶴市長(当時)を会長に「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」がつくられ、幅広い市民の浄財と府、市の補助金を得、用地も現場を目前にした最適の地を地元のご協力で確保することができ、土地の造成は地元の建設業者の手で、像の制作は市内中学校美術教師の集団制作によって、1978年(昭和53)に完成した。「浮島丸殉難者追悼の碑建立実行委員会」同年「浮島丸殉雛者追悼実行委員会」に改組し、追悼式典を行ってきたが、個人が参加できるよう1996年(平成3)「浮島丸殉難者を追悼する会」に改めた。 4.「会」は1989年(昭和64)事件の経緯と死没者名を収録した「浮島丸事件の記録」を刊行し、1998年(平成10)には「殉難の像」建立20周年記念行事として青森、東京、京都、舞鶴の関係者による 「シンポジュウム」と事件と運動を回顧する演劇「海を見つめる群像物語」を公演した。 5.1995年(平成7)浮島丸事件に題材をとった映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」が製作され、舞鶴ロケには多数の市民がエキストラとして参加した。この映画の中で舞鶴は、犠牲者を救助し、追悼を続けるヒューマンな街として描かれている。この映画は2001年(平成13)から韓国各地で上映運動が始まり、韓国で事件と舞鶴に対する関心が高まり2002年(平成14)2003年(平成15)には韓国・光州市民との交流・相互訪問が行われた。 6.1996年(平成8)本集会に対して厚生大臣名で追悼の電報よせられ、以後毎年、本集会に対し、政府から弔慰の表明が行われている。 7.沈没していた浮島丸は1950年(昭和25)に後半分が、1954年(昭和29)前半分が引き上げられた。浮島丸事件犠牲者のうち、まだ引き取られていない遺骨280体が東京目黒の祐天寺に祀られている。 8.2005年(平成17)中国・北京大学での映画上映が行われた。こうした国際交流の成果を受けて、2005年(平成17)、浮島丸殉難60周年企画として「国際シンポジュウム」を韓国・延世大学、中国・北京大学の研究者、及び日本の関係者の協力お得て行いました。又、これまでの追悼事業の取組が評価され、駐大阪大韓民国総領事館総領事による感謝状が贈られました。 11月6日 追悼する会の野田会長死亡。 9.2006年追悼する会総会を開催し、顧問須永安郎 会長余江勝彦を選出する。 10.2007年7月 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会による「浮島丸事件沈没地の現地調査及び懇談会」実施。8月23日 追悼の碑建立30周年 r金一志韓国伝統舞鯖の夕べJ 公演。 11.2008年4月 浮島丸事件の聞き取り、下佐波賀出身 当時5歳父の救助活動手伝う。駐大阪大韓民国総領事館総領事 公式初参加。 12.2009年8月24日浮島丸殉難64周年追悼集会実施 13.2010年8月24日 「韓国併合」100周年・浮島丸殉難65月年追悼集会を実施厚生労働大臣からのメッセージを始め、駐大阪大韓民国総領事、京都府知事、舞鶴市長の献花と追悼の言葉を頂きました。 7月23日紙芝居「浮島丸事件」完成 上演開始 14.2011年8月24日浮島丸殉難66周年追悼集会実施 8月25〜30日紙芝居 「浮島丸事件」完成報告下北ツアー実施 11月14日韓国海軍司令官・艇長・東京大使館員(通訳)下佐波賀訪問 献花 15.2012年2月7日韓国「ハンサリム」一行 下佐波賀訪問 献花 6月 碑公園「ハマナスの木」植樹 追悼歌 歌詞パネル設置 韓国冊子 rマンガで見る東学農民革命」日本語版 舞鶴から発行 16 京都府総合資料館に「浮島丸事件」資料提供 17 2013年8月8日「東アジア青少年歴史体験キャンプ」碑公園追悼集会実施 〉 日中韓の若者達が折った大きな三羽の折り鶴。白い紙に何やらメッセージが書かれている、勉強が足りず、私は読めない。 これまでには見られなかったもので、今後が楽しみのものある。 『舞鶴市民新聞』(2013.8.16)は、(写真も) 〈 *日中韓の若者たち106人 浮島丸事件の殉難碑訪れる 追悼し平和へのメッセージ残す* 東アジアの歴史や平和を学ぼうと、日中韓の中・高校生106人が、下佐波賀の浮島丸殉難の碑公園を訪れ、浮島丸事件の犠牲者を追悼し、大きな折り鶴に平和の願いを込めメッセージを書いた。 立命館大学コリア研究センターなどの主催で、第12回東アジア青少年歴史体験キャンプの一環。若者たちに東アジアの戦争の歴史などを現場で学び、国際交流を図ろうと、毎年持ち回りで3国を訪問している。 今年は日本から33人、中国34人、韓国39人が、7日〜12日の日程で京都市内を中心に見学や講演に参加。終戦直後に、青森下北半島から朝鮮人労働者や家族を乗せた船が、朝鮮半島へ帰国途中に寄った舞鶴湾で爆沈し、524人が犠牲となった浮島丸事件をテーマに選んだ。 浮島丸を追悼する市民、綾部や福知山の高校生たちが出迎える中、到着した若者たちは殉難の碑前で、追悼歌「ハマナスの花咲きそめて」を歌った。続いて現場となった海に向かって花を投げ込んだ。 日本人とカナダ人を両親にもつ立命館宇治高校2年のマクドナルド恵美理・マーガレットさん(17)は「キャンプに参加して事件を初めて知りました。外国にも伝えていきたい」、ソウルの高校3年のリー・エーダム君(19)は「日本人が碑を作り、追悼を続けていることを知って感動しました」、中国南京市の高校を卒業したチョウ・ユウユウさん(18)は「事件を知り、国境を越えて命の大切さを感じました」と話した。 〉 その折り鶴を持って、今回の集会にも高校生5名が参列していた。 わかりにくくて不便な場所↓ですが、会場はここです。車も駐められます。 |
浮島丸殉難追悼集会の記録 2024追悼集会 2023追悼集会 2022追悼集会 2019追悼集会 2018追悼集会 2017追悼集会 2016追悼集会 2015追悼集会 2014追悼集会 2013追悼集会(このページ) 2012追悼集会 2011追悼集会 2010追悼集会 2009追悼集会 |
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関連情報 67年前の浮島丸事件とその後のおおよその経過は、すでに何度も書いていますのでそちらを参照して下さい。 以前の追悼集会については「浮島丸追悼集会:丹後の伝説17」 事件そのものについては「浮島丸事件」 など参照して下さい。 |
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