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旧・丹波町(たんばちょう)
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旧・丹波町《旧・丹波町の概要》 ![]() 旧・丹波町は京都府の中央部、丹波高原の中に位置し、海抜は役場付近で135mである。須知川・実勢川などが高屋川に合流して由良川に注いでいる。これら河川の流域に耕地が開け、良質の丹波米を産する。地質は秩父古生層で、蒲生野などは第四紀古層からなる原野である。 古くから日本海側と京阪神を結ぶ交通の要所であり、明治の末期まで宿場町として栄えた。 ![]() 本町で確認された古墳は36基存在する。豊田車塚古墳(きもんのもり)・カナヤ1号墳(乗鞍古墳)の2基が前方後円墳、実勢1号墳(狐塚古墳)をはじめ34基が円墳である。このうち横穴式石室はほぼ16基を数え、土師器・須恵器を出土している。古墳は高屋川支流域富田・蒲生・曽根地区に集中している。 奈良期の遺跡として、中台天ケ棚窯跡4か所・院内窯跡1か所があり、いずれも須恵器窯。 ![]() 律令制下では丹波国船井郡に属し「和名抄」での同郡11郷のうち、当町は出鹿郷と須知郷の郷域にあり、高岡・水戸ミト・新水戸・市森・曽根・塩田谷・安井の各地は出鹿郷、須知町・院内・豊田は須知郷の地域に比定されている。天暦8年(954)の太政官符には船井郡出鹿郷の戸主丹波直継の名が見える。 式内社は船井郡10座のうち2社が存在した。出石鹿イソ部神社(現何鹿神社)・弁奈貴神社(現岩山神社)・酒治志神社である。何鹿神社(曽根)は大宝2年(702)、岩山神社は延暦年間(782~806)の創建年次をもつ。能満神社(上野)は延慶3年(1310)の創建とするが、もと須知大宮と称したとされ式内酒治志神社に比定する説もある。九手神社は長元2年(1029)造営で、官幣大社松尾神社の分霊を祭神とする。現社殿は明応7年(1498)の創建で、本殿は三間社、流造、桧皮葺で国重要文化財に指定されている。 この期の仏教は真言宗の伝播があり、大福光寺(仁和寺末)は延暦年間に僧峯延が鞍馬寺から小堂を空山に移建した寺である。新宮寺(現曹洞宗)は寛治4年(1090)に熊野三山を勧請し、白河法皇は上田氏(新宮大和守)を遣して薬師仏をはじめ仏を安置せしめたとされる。また何鹿神社の神宮寺浄光寺は寺伝によると延長2年(924)の創建である。 紅村は保元・平治の乱や承永の乱の時には都を逃れた貴族や武士が隠棲した地とされるが詳細は不詳である。九手梅を産し、歌の名所でもある。 ![]() 〔大福光寺〕承永の乱後、北条氏が守護となり当地を支配した。足利尊氏挙兵時には直接的・間接的な受けたと思われる。大福光寺は足利尊氏の本願で、嘉暦2年(1327)に空山から現地に移建され足利将軍家祈祷所となった。これは同寺に残っている建武4年(1337)10月の地頭代縫殿助平の制札から知られる。 その後南北朝期に守護となった仁木頼章は新宮寺の寺領押収・堂塔破壊などを行っている。 〔須知城〕室町期に入り守護は山名氏、ついで明徳3年(1392)以降細川氏が8代に及んで世襲したが、寛正3年(1462)頃の須知村は五山相国寺塔頭雲頂院雲沢軒の所領であった。文明9年(1477)に塩田村(森・谷・安井などの塩田谷の3村)に山内荘の荘号が確認される。この年山内荘は飯河中務丞忠資の知行となっていたが、須知源三なる者の押領を訴えており、豪族層の成長を知ることができる。同荘は近衛家領で、天福2年(1234)8月の青蓮院門跡滋源の所領注文目録(近衛文書)に見える。「蜷川家文書断簡」によると、上記の塩田村・八田村・紅村・十勢村・鼓打村など11か村からなっていたことを知る。須知氏は、遠江国周知郡に住した周知景基が源為義に従い丹波追分(現須知)に移住して当地須知氏の初代となったもので、9代秀基が足利尊氏挙兵時に活躍して摩気・下村の荘を与えられ、市森の須知城主となったと伝えられる。当地にはまた山内氏があり、山内荘荘主は山内越中守とされ、土佐藩主山内氏の出身地とされる。 須知氏の居城、市森の須知城跡は、琴滝の数百m北の屏風岩の上に築城された山城であり、豊田城はその支城であった。両城は天正7年(1579)明智光秀の丹波攻略により没落した。 〔曹洞禅〕寺院では、応永23年(1416)太容梵清が須知出羽守慶吉の外護を受けて玉雲寺を開創し、曹洞禅が伝播の基礎を作った。天正7年の兵火で焼失したが、明智光秀が寺領を寄進して移建再興した。宝昌寺・宇津木寺・新宮寺などは玉雲寺近門10か寺中早期に末寺化した寺である。また上野の大円寺(臨済宗)・森の浄土寺(真言宗)などもこの期創建の寺伝をもつ。 ![]() 当地の支配は亀山藩が八田辻・八田笹尾・八田中畑・八田中・八田下・八田鎌倉・西階・水戸・新水戸・須知・市森・蒲生・塩田谷・安井の14か村、園部藩が上野・坪井・谷・黒瀬・蕨・尾長野・白土・知野部゙村および曽根村の一部を領した。また旗本では竹田幸之助が高屋村、柴田七九郎が紅井・新宮両村および院内村の一部、島藤左衛門が十勢を領し、院内村の一部は代官前田佐助の支配にあった。このほか森村の一部を泉湧寺・竜安寺・上賀茂社がそれぞれ領有していた。 元禄13年(1700)11月の「丹波国郷帳」によると、当町関係は30か村、総村高7,265石余である。曽根村の557石2斗6升6勺を最高に、高屋・須知・坪井・十勢の4村が500石代、蒲生村が415石余、水戸・市森・上野・谷の4か村が300石代、300石未満100石以上が新水戸など13か村、100石未満は7か村を数え、最低は知野部村の13石4斗1升4合である。 交通はもっぱら陸路で、山陰街道の沿道にある須知は宿場町として栄え、観音峠以西の地方産物の集散地でもあった。蒲生野は紅野と称し、ツツジの名勝として開花期には旅人に親しまれた。また紅井村は高岡とともに、文政元年(1818)および嘉永元年(1848)の両度の大嘗祭に主基田として卜定された名勝旧跡である。 〔玉雲寺〕この期の仏教は玉雲寺を中心に発展し、同寺は船井・桑田両郡および陸奥・大和・備中・備後・伯耆諸地方に170余の末寺をもっていた。金剛寺・正灯寺・福満寺・大通寺・国祥寺・称安寺・泉谷寺などはこの期の創建による末寺であり、園部藩・亀山藩から除地を得ている。また円正寺・正安寺などの寺院が創建された。 ![]() 明治維新ののち、亀岡県・園部県・久美浜県に分属したが、明治4年11月に京都府所轄となった。翌5年の区制施行で竹野地区・須知地区・高原地区とそれぞれ第7区・第8区・第12区に区分された。 明治7年紅井・谷・新宮村を合して豊田村、高屋村・坪井村を合し富田村、上実勢村・下実勢村を合し実勢村、黒瀬・蕨・尾長野・白土・知野部の5か村を合し下山村とし、同9年には八田辻・八田笹尾・八田中畑の3か村を合して口八田村、八田中・八田鎌倉・八田下・西階の各村を合して高岡村となった。 明治22年市制町村制実施の結果、水戸・新水戸・口八田・高岡の4か村を合して竹野村、須知・市森・上野・蒲生・塩田谷・安井・曽根・院内・森の9か村を合して須知村、豊田・富田・実勢・下山の4か村を合して高原村となり、3か村が発足した。その後明治34年7月19日に須知町が成立し、昭和26年4月1日竹野村、同30年に高原村をそれぞれ編入合併し、昭和30年人口9,000人の丹波町として発足した。 明治5年、須知小学校の開校を最初に富田・敦篤・下山の各小学校が開校した。明治9年の京都農業牧学校が須知村蒲生野に創設された。米国人オースチン・ウィードを主任に実習教員など11名で構成され、近代的畜産酪農法が教授された。明治12年廃校となり、現京都府立須知高校はその後身である。 須知地区には、明治45年に京都競馬場の移転で、須知競馬場が設置され、淀競馬場開設の大正13年まで存続し、春ともなれば紅ツツジが美しく咲き乱れ、人々を楽しませた。また大正11年には、わが国の民間航空の草分けともいうべき須知飛行場(曽根)も開場した。 明治32年山陰線は京都~園部間が開通し、須知は園部町以北の貨客往来の要所となり商業が発達した。また地方銀行創設もあり、町制実施も早かったが、明治43年山陰線は、当町中心部を迂回して園部~綾部間に敷設されたため、須知の商工業の発展は停滞した。その後も大正14年北端部に下山駅が設置されるのみで、もっぱら道路交通に依存している。国道9号・同27号をはじめ、府道篠山丹波線・日吉丹波線・桧山丹波線・富田胡麻停車場線・豊田富田線・大身下山停車場線・下山停車場線などが通じている。 明治19年、高原村に紅茶伝習所が創設されたのをはじめとして、産業は昭和25年頃まで農林業が中心で、米麦・薪炭・茶・繭などを産したが、近年になって畜産・酪農に力を入れている。また自動車による交通機関の発達で近郊都市への野菜・果実の供給地として着目されるとともに、国道沿線の広い土地は産業界から注目されて、宅地開発・工場誘致が進んでいる。昭和45年3月府立丹波自然運動公園が蒲生野に開設されて丹波高原開発に資す。 〔史跡・文化財・文化施設〕 国重要文化財に三間社、流造、桧皮葺九手神社本殿(1棟)、方五間単層の大福光寺本堂(毘沙門堂)と塔婆(多宝塔)、大福光寺蔵紙本墨書方丈記・玉篇(巻第廿四断簡)などがある。 下山岩ノ上所在の渡辺家住宅は、入母屋造・茅葺の江戸中期の建築物で国重文。 文化施設としては、蒲生野に府立丹波自然運動公園があり、各種運動施設や合宿所を備え、人々のいこいの場として親しまれている。 ![]() 旧・丹波町の主な歴史記録![]() 関連情報![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『船井郡誌』 『丹波町誌』 その他たくさん |
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