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![]() たった30分くらいで終わってしまう。あっ、という間である。「厄払いができたような気持ちになりました」とかの声も聞かれる。どれくらい古い伝統的行事なのか、どうした意味を持つものなのか、雨乞いだとか、伝説に関連したものだとか、諸説たくさんあるが、そうしたことは本当は不明である。 ず〜〜っと古い古い祖先から伝え続けられてきた伝統行事、たった30分だが、それは永遠といってもよいくらいの祖先たちのなが〜いなが〜い時間と信仰が凝縮されている。 |
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![]() 公民館前の橋(宮前橋)が参道で、渡ると、正面に本殿がある。 ![]() 神事 ![]() ![]() (地図) ![]() ![]()
![]() ![]() 若者達はこのあと高野川の上流で水垢離を取り、帰ってくる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 撮影の舞台裏↑ 特別許可でロープ内に入って撮影。 坂根氏+ワタシで計6台のカメラをまわす。何千コマも写して、使い物になりそうなものは、千に三つほど。条件の厳しい中では最新のカメラがよい、おそろしいほど写る。 ![]() ![]() ![]() 今年は大松明が雨に濡れて湿っていたこともあり、長く燃え続けた。 しかしそれも燃え尽きた。 ![]() 松明の燃え殻を拾いたい人達が、消火を待っている。 さてよく燃えたから残っているか。 ![]() ![]()
![]() 雨引神社の西側を通る府道西舞鶴物部線(490号)を南の登尾峠を越すと、綾部市内久井町という所ヘ通じる(今は道らしい道ではない)。そこに伝わる伝説を『丹波負笈録』が拾っている。この山の伝説の最も古い記録になる。 『丹波負笈録』は、寛政・化政期頃(1789〜1830)の成立。『丹波志』の拾遺のようなもの。 それには、 内久井村 家敷七十軒同ヒウラ峠奥山あり 志賀郷十三ケ村入込所 奥深山なり 谷氏御領所 右深山の中に蛇池あり 昔志賀に夜アラシ云地侍の娘を此蛇にとられ 後彼池へ右の蛇を捕と名乗て弓を放つ体ニで向ひけれハ小蛇出 又夜アラシ申けるハ本体をあらはすべしと云 大蛇の頭をフタ立向けるを大雁俣にて一眼を射殺す 書方質朴にしてわかちかたし 其まゝいつれにも此書様をくわへす 外皆是にならふへし 此故に夜アラシ子孫代々片眼なり 今ハ家絶たり 志賀の夜アラシとハ同所町梅原氏の士にて強力の弓とりなり 物部に分家あり 女布の森脇宗坡の大蛇退治伝説と似ているというか、共通のもののようだが、しかし内久井の方が古い。片目のヘビとか、その子孫が片目とか、女布・城屋にはない古い要素を残す片目の鍜冶伝説。 「夜嵐」は志賀郷の英雄だが、「世荒らし」のことかと思われる、時の権力側からは忌まれ嫌われた神で、このように貶められた名で呼ばれたのではなかろうか。後世に土蜘蛛とか鬼とか呼ばれた者たち系の呼び名でなかろうか。 ![]() ![]() 当サイトにたくさんありますから検索してみて下さい。 ![]() 炎が夜空にアーチを描き飛び交う。京都市左京区の花背松上げなどで知られる柱松形式の行事。京都府内では南丹市など各地にも伝わり、8月に営まれる▼愛宕信仰と関わるとされ、地域によって松上げや上げ松などと呼ばれる。舞鶴市では14日夜に城屋地区の雨引神社で「城屋の揚松明」が行われ、山あいの里が見物客でにぎわう▼雨乞いの習俗と合わさったのが特徴だ。市を代表するお盆行事の一つで高村薫さんの小説「神の火」にも登場する。大松明は長さ約16bの丸太の先端に麻の茎をすり鉢状に束ねた「ハチ」を取り付け、境内に立てられる。若者が火をともした松明を投げて点火を競う▼ただし準備は大変だ。朝早くから当番の氏子が作業に当たる。住民が多かった時代は滑車を使って人力で大松明を立てていたが、現在はクレーンを利用する。関係者は「昔の技術を知る人がいなくなっている」と心配する▼府文化財保護課に聞くと、行事を担う地域から材料や人手の確保に苦労し、続けることが厳しいとの声が上がるという。勇壮な祭りへ人口減少や高齢化の波が確実に押し寄せる▼高村さんは小説で城屋の揚松明を「舞鶴で一番美しい祭り」と紹介する。今夜、繰り広げられる炎の祭典。楽しみながらも継承へのたゆまぬ努力や工夫を感じたい。 |
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