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拝師郷の概要
「和名抄」丹後国与謝郡七郷の1つ。高山寺本の訓は「波也之」。
「丹後国風土記」逸文の天椅立条には、速石里とある。
天椅立
丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間に久志と云へり。此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。 |
拝師郷は、宮津市府中地区から岩滝町にまたがる阿蘇海を囲む地に比定されている。
後の府中の地が含まれ、古代の国府があったとされるが、ライターの馬飼の時代(奈良期初期)には、当地にはなかったと見られる記述である。郡家の位置から速石里を説明し、当地にあったとされる国衙(彼の職務所である)については何も記事がない。もし府中に国衙があったのであれば、「郡家の東北の隅の方に速石の里あり」といった書き方はしないであろう、速石の里は国衙のあるところと記すのが自然であろう。当時の丹後国衙はいずこにあったのであろう。
少し下って、文治4年(1188)銘を有する府中籠神社境内出土経筒に「南閻浮提大日本国山陰道丹後国 与謝郡拝師郷溝尻村(下略)」と見える。
「丹後国田数帳」には
一 拝志郷 七町四段二百五十六歩内
一町 印鎰社
一反百八十歩 仏性寺
一町二段九十歩 延永左京亮
七段二百十六歩 成吉三良左衛門
三町六段二百七十歩 安良八郎
二町百八十歩 廳次
四反四十歩 無下地
与謝郡
一 拝志郷神田 九段百廿歩 無現地 |
印鎰社、庁次など国府に関係のある土地であることを示唆している。
「日本地理志科」は「府中・国分・男山・小松・中野・大垣・伊根・江尻・難波野・溝尻・岩港・弓木」をさし、「大日本地名辞書」は「今吉津村・岩滝村・府中村是なり」としている。
本来ハヤシと呼ばれた地域は、もっと広かったのではないかと私は考えている。後の日置郷はほぼ確実に含んでいたかも知れない。
現在のこの地では、ハヤシの遺称はみられず、『元初の最高神と大和朝廷の元初』は、
和銅年中以降の速石という地名は、全く忘却せられ、現今まで遺存してはいないのであって、わずかに、速石(ハヤイシ)という姓が少数あって、その里の名称の名残りを留めているに過ぎないのである。 |
電話帳を見ると、早石サンが江尻に6、速石サンが江尻・難波野に7、林サンは須津などに3軒ほど掲載されている。
「室尾山観音寺神名帳」の与謝郡六十八前に、
が見えるが、しかし今はそんな神社はないし、どこにあったのかも不明である。
江戸期の文献には速石別尊の記事も見える。
福知山市大江町天田内に林神社がある。
宮津市奥波見に「林崎」の里名がある。日ヶ谷の日吉神社境内社に「小林神社」がある。
ハヤシ郷は各地に見えるが、近くでは丹波国天田郡拝師郷、同国何鹿郡拝師郷がある。

ハヤシの語源
大変重要な土地に付けられた、大変重要な歴史的意味を持つハヤシという古代地名。その意味は何なのだろう。
ここに林があったから-、そんな簡単な物語ではないようである。
しかし有り難いことには先学がすでにだいたいは解いていてはくれるのでそれに従って見てみよう。
丹後については誰もまだ手がけていないようである、こんな面白い歴史をほっておいて何を勉強するというのだろうか、こうした基礎の骨組みが手がけられないと、実際は細部も見えないのてはなかろうか。柱も建てずに家が建つだろうか、そうしたあまりにリコウ過ぎる所が郷土史や地方史にはよく見られる、シロウトだからしかたもないのだが、そのくせに威張り過ぎる、私も含めての話であるが、コッケイと言うか情けないと言うか、正常なほかの世界から見ればマンガにも見えることだろうと思う。
情けない自分の姿をココロに置きながら、耳だけははるか忘却の彼方へと去った地名の物語る世界へと傾けてみよう。
タカナシ=タカ穴師
拝師郷の北、与謝郡伊根町に「高梨」の地名がある。伊根浦の舟屋の建ち並ぶ、一番手前、入り口側である。この同じ高梨の地名は全国にもいくつか見られる。どういう意味のものだろうか。

こんな所に意外なこの地の歴史がひっそりと残されている。舟屋とブリやカニばかりのように言われているが、もともとはそうした地ではなかった。「与保呂の里」でも書いた所であるが、もう一度おさらいをしておこう。
『播磨風土記』の揖保郡
上筥岡・下筥岡・魚戸津・朸田
宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠租、兄太加奈志・弟太加奈志の二人、大田の村の與富等の地を請ひて、田を墾り蒔かむと来る時、廝人、朸を以ちて、食の具等の物を荷ひき。ここに、朸折れて荷落ちき。この所以に、奈閇落ちし處は、即ち魚戸津と號け、前の筥落ちし處は、即ち上筥岡と名づけ、後の筥落ちし處は、即ち下筥岡といひ、荷の朸落ちし處は、即ち朸田といふ。 |
兄弟の太加奈志と、ここでは表記が異なるといえ高梨は同じ歴史を語るものと思われる。タカナシとはタカ穴師のことだと吉野裕氏はすでに書かれている。穴師とは鉄穴師のことで、採鉱製鉄集団である。
与富等は今の兵庫県姫路市勝原区丁であるが、同じように加佐郡の与保呂(裏山を越すと何鹿郡拝志郷だったと思う)も、高梨の南にある宮津市養老もたぶん、まだ確認できていないが、恐らく同じ歴史を持つものと推測できる。
その大田の里とは、
大田の里 土は中の上なり。
大田と称ふ所以は、昔、呉の勝、韓国より度り来て、始め、紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。其の後、分れ来て、摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り到りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。是は、本の紀伊の国の大田を以ちて名と爲すなり。 |
タカと名乗るのは日槍系と思われ、高梨はそうしたもっとも初期の韓国からの渡来系製鉄技術集団の拠点地だと思われる。

ハヤシ=イワナシ=磐穴師
播磨国の与富等の西は揖保川と林田川の合流点で、その林田川を10キロばかり遡った所が林田の里である。『和名抄』の揖保郡林田郷。今の兵庫県姫路市林田町であるが、
「播磨風土記」には、
林田の里 本の名は談奈志なり。土は中の下なり。談奈志と称ふ所以は、伊和の大神、国占めましし時、御志を此處に植てたまふに、遂に楡の樹生ひき。故、名を談奈志と称ふ。 |
明確にハヤシはイワナシだと書かれている。林田サンは丹波に多いが、それは元はイワナシと言ったと書かれている。イワナシがハヤシに転訛したようである。イワナシとは磐穴師だと吉野祐氏は書いている。タカ穴師は川や海の砂鉄を採集していたようだが、この時代の磐穴師は岩石を砕いて鉄を作るようになっていったのかも知れない。
ハヤシとは磐穴師の転訛と見る吉野氏の意外な説が最も妥当性が高いと私は見ている。丹後のこの周辺は穴師ばかりである。
備前国磐梨郡石生郷が『和名抄』に見える。
和気清麻呂も元は磐梨別公である。舞鶴には和気サンもあるが、あるいはそうしたことかも知れない。
石生はイワナシと読むのであるが、イソウとも読める。氷上郡石生郷はイソウとかイソ読むが、本当はイワナシなのかも知れない。
そうとする天橋立の磯清水のイソがまたしても気になる。もしかするとイワアナシの清水だったかも知れない。
与謝郡式内社・阿知江イソ(石偏に山)部神社。
「室尾山観音寺神名帳」の与謝郡、従二位磯部明神。
これらのイソはあるいはイワアナシであったかも知れない。
さて、『丹哥府志』に興味深い記事がある。
◎立石村(鳥屋の次)
【あじかまの潟】宮津府志に栗田郷宿野村にあしか浜といふあしかまの石は此處ならんかと疑を存して記せり。されど立石村あしかといふ古き社あり、恐らくは此處なるべし。あしかはあしかまの略語なり、今あじやといふは非なり。
【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。
【亀島山海福寺】(臨済宗)
【普門山慈眼寺】(曹洞宗) |

丹後では天橋立に次ぐ観光名所になってきた、伊根浦だが、観光だけでなく、両地にはもともと深い関係があったと思われる。亀島と呼ばれているが、立石は郵便局の辺りから、慈眼寺・海福寺のあたりまでを言うようである。海辺は舟屋が続くところである。
先の高梨とは浦を挟んだ対岸側になるが、ここに五十建速石別尊が祀られていた。イタテというのもまた興味引かれる、伊達などとも書かれ、神功皇后の時代に渡来した鍜冶神と思われる、それとハヤシ(磐穴師)が合体している。彼は丹波道主の孫で、兄は拝師郷にいたというのである。実の兄弟かどうかは知らぬが、両地の関係はそんなもんなんだと信じられてきたようである。
「あじかま」「あしか」のアシはアナシの事かも知れないが、二大観光名所の阿蘇海も伊根浦も元々は鉄の浦だと私は言ってきた、どうやらますますそのように見えてきた。そうならば、伊根とは鋳泥なのだろうか。
詳しくはこの地で再び取り上げたい。

アナシ=穴師
播磨国の林田川をさらにもう10キロばかり遡ってみよう。そこはもう宍粟郡安富町になり、風土記によれば、宍禾郡穴師の里。
『和名抄』の安志郷(播磨国宍粟郡)。アナシとかアシと読まれているが、川の名も穴師川に変わるそうである。そして今は安志の集落がある。アンジと今は呼んでいるが、アナシである。アナシは穴師、鉄穴師のことである。
アナシは職業病として目だけでなく、タタラを踏むために足も痛める、そのため痛背とか痛足、病足とも書かれるし、場所によっては穴石とも書かれる。
野田川町四辻に穴石神社があり、その東隣の上山田には苦無神社もある。クナシ=クラナシ=クラ穴師と思われる、詳しくは、そのページまで筆が進んでからにしたい。
単に穴師と呼ばれるのは新しい時代のようだが、その穴師とミワ神社やカモ神社は関係がありそうで、岩滝町弓木には三輪神社があり、これも穴師が祀ったものかと思われる。籠神社祭神は賀茂神社祭神と実は同体といわれる。これらも詳しくは後ほど取り上げたい。
ハヤシの関係する土地ははかなり広い範囲にまたがっていたように思われるわけで、丹後古代史の中心的な場所であったと思われるが、その中心はどこにあったのだろう。拝師姫・拝師彦神社の地なのだが、それらは失われて今はもうわからない。
岩滝や男山のあたりと私は睨んでいるのだが、
地理志料は、
板竝神社在二男山村一蓋祀二池速石別命一
と考えているようだが、男山八幡が中心かも知れない。
ハナナミとアナシも何か関係があるかも知れない。

拝師郷の主な歴史資料
『丹後旧事記』
速石別尊。日本旧事記垂仁天皇第四の妃薊瓊入姫の御子池速石別尊といふ五十建の速石別尊。 |
『丹哥府志』
【あじかまの潟】宮津府志に栗田郷宿野村にあしか浜といふあしかまの石は此處ならんかと疑を存して記せり。されど立石村あしかといふ古き社あり、恐らくは此處なるべし。あしかはあしかまの略語なり、今あじやといふは非なり。
【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。 |
『大日本地名辞書』
【拝師郷】和名抄、与謝郡拝師郷。○今吉津村、岩滝村、府中村是なり、即天橋立の四周に渉る、風土記逸文に速石ハヤシ里に作る。…略… |
『与謝郡誌』
拝師郷
風土記逸文に與謝郡々家東北隅方有速石里云々とあるが速石、拝師相同じ。地理志料には亙二府中、国分、男山、小松、中野、大垣、伊根、江尻、難波野、溝尻、岩瀧、弓木諸邑一爲二古郷域一祀典所レ秩籠神社在二大垣村一祀二住吉三神一称二本州一ノ宮一、木積神社在二弓木村宮谷一祀二五十猛神一板竝神社在二男山村一蓋祀二池速石別命一也、東鑑建久六年條丹後伊禰保地頭後藤基清、伊禰荘又見二田数目録一とあり、伊根は日置郷にて此郷の地域にあらざるは明かなるも、其の他の村里は異変なきが如く即ち今府中村、岩瀧町の地域なり。 |
『加佐郡誌』
大化の新政以前に於ける本郡については、記録の徴すべきもの少きが故に、今は唯歴代の領司を列記するに止めて置く。速石別命 同上(垂仁天皇の御代) |

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