過去は忘れて 戦争でも始めよう!

MGや歩兵だけが残酷なことをしたんやない…南京攻めで、似たようなことは衛生隊もやった…輜重兵もやった…砲兵隊もやった。あらゆる部隊がやったことや。

(5)より。−宮津市内の元20連隊機関銃中隊員の証言−

誰が敵だかわからない、侵略戦争である以上はすべてが敵であった。そこで虫けらのようにしかも残忍に十万を超える人々を殺した、実はワシも殺した、親や祖父たちが証言する。ワシはオニだったと。そんなアホなことがありますかいな、なんぼ戦争やいうても日本兵は残虐ではなかったはずですよ、中国がええがけんなことをオーバーに言ってるんですよ、なにせ白髪三千丈の国ですから。当の戦闘員がこう語っているにもかかわらず、現場を見たことも調査したこともないくせに勝手にそう決めてかかりたい人が中にはあるかも、しかしそうしたまぼろしは我らの親や祖父たちの胸を掻きむしる証言で打ち砕かれる。救いは父や祖父たちが過去を正直に語り心に刻んでくれたことであろう。これは誇ろう、密かに、そして我らも父や祖父達と同じ事をしかねない子や孫と考えてみよう。

誰が敵だかわからない

福知山20連隊と南京事件

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 中国との戦争ひろがる



「世界に求む」。松平夏奈さんです。勝手にここへ置かせてもらいました。


南京入場式


 〈 ●日中戦争となって中国全土に広がる
・1937年、日本軍と中国軍がペキン(北京)郊外で戦いを始め、それが、政府の考えとちがって、中国各地に広げられ、全面的な日中戦争となった。
・首都ナンキン(南京)を占領したとき、武器をすてた兵士や、女性や子どもをふくむ多くの中国人が殺害された。このことは、日本の国民には知らされなかった。
・日本は、首都のナンキンを占領すれば、早く戦争が終わると考えていた。しかし、中国の人々は、日本の侵略に対して抵抗を強め、戦争は、日本の予想をこえて長く続いた。  〉 

↑ 小6の息子の教科書『新編新しい社会上』(東京書籍)による。(写真も。中山門前の入場式の模様か)
小学六年生は日本史の全てを全120頁で習う。この事件はそれなりにかなりのスペースがさかれている様子。しかし「大虐殺」の言葉も犠牲者数もない、文部省の検定圧力か、こんな記事を教科書から削除したい、本文から脚注へ移したい、侵略ではなく侵攻としたいなどと白を黒と言いくるめても都合の良いことをと願う「愛国」日本人も多い、侵略を受けた周辺諸国との事件に対する認識の落差は大きく、いろいろと外交問題まで何度も引き起こしてきた。
こうしたことで南京事件は何も70数年も過去のすでに終わった事件というだけではなく、現代日本の問題でもある。
南京事件は私たちの郷土と特に関係深い事件であった。同じ時の同じ情景の写真は(8)にもある。

南京入場式
南京入場式。(昭12)12月17日、中支那方面軍は南京入城式を行った(写真先頭は松井石根司令官、その後ろは朝香宮鳩彦王・上海派遣軍司令官)。皇族が参列する式典警備のため、14日から過酷な敗残兵狩り″が南京城内外で展開され、さらに多くの中国軍民が殺された。後に陸軍中央は虐殺事件の発生を知り、翌年2月松井大将を解任したが、彼の責任は不問にし国民に対しては事件を隠し続けた(『朝日クロニクル20世紀』より)



↑ユーチューブより。ほかにもたくさんアップされてます。

どこでどう撮影されたものか私は中国語が読めないのだが、中国側がアップしたものも多数見られる。心臓の弱い方は見るのは注意して下さい。→「南京大虐殺
南京事件の画像 南京事件の動画 野中広務氏も述べている

なかった説は成り立ちようもないし、そんなレベルの話ではないはずなのだが、いまだそんなことを言う日本人も多く、国内ではある程度の影響力もある。

 丹後史料叢書の第六輯の「丹哥府志に序す」という永浜宇平氏の序文の最後は「昭和十二年十二月十三日皇軍敵都南京占領の捷報に耳を峙てつつ」と書かれている。彼の郷土からも幾人も出征していたのだろうか。
南京を一撃すれば戦争が終わり日本が勝つと期待を抱いた一般の国民は提燈行列のお祭り騒ぎで祝ったそうである。
ちょうどその時は「街には、いぜんとして殺戮、強姦、掠奪、放火が続き、恐怖が吹き荒れている」そのとき南京に居合わせた外国人はそう日記に記していたとおりの大虐殺の真っ盛りであった。

 南京はすでに中国の首都ではなく(11月20日、重慶に移転)、不拡大方針の中央の正式な攻撃命令も当初はなかった、現地軍の独断専行に引っ張られていよいよ戦線は拡大し、地元の16師団・福知山20連隊も北支より転戦して参戦した。
政府の当初の計画通りに歴史が動くとは限らない、経済と戦争は似ていて人間の理性コントロールではどうにもならない動きも発生する、戦争力学が人為のコントロールを越えて戦争の不条理を加速する。一度坂道を走り出すと雪だるま式にふくれあがった。
丹後丹波の兵は南京では最後まで残った中山門を無血占領。門の鉄扉に「昭和十二年十二月十三日 午前三時十分 大野部隊占領」と書き付け南京一番乗りをした。大野部隊とは大野宣明大佐連隊長の福知山20連隊である。その後16師団は南京警備の任についていたが、その十日間前後に大虐殺があったという。

中国人捕虜を処刑場へ
↑処刑場へ運ばれる中国人捕虜
南京に入城した日本軍(主として中島師団)は、市内の掃蕩に当って、近代史上最大の虐殺事件といわれる恐るべき悪虐行為を行った。事件の証人たちの述べるところによれば「2万人からの男女、子供達が殺され」4週間にわたって南京は血の街と化したといわれる。ほとんど総ての女性は老若をとわず野蛮な被害を受け、家という家は掠奪を受けた。「南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として世界に宣伝され」て、日本の名誉は地に墜ちた。日本軍はこの事実が外に洩れることを恐れ、あらゆるニュース・ソースに対して厳重な検閲をおこなったが、一部外国人も残留しており、また事実は覆いかくすべくもなかった。この南京の残虐行為こそ、結局中国をして徹底抗戦に導く結果をもたらしたものであった。(『画報近代百年誌5』より)


この写真は当時中島師団に従軍した本誌の不動編集長の撮影したもので、本誌によって初めて世に出たものである。

としている。8枚あるけれどもここでは一番ショックの少なそうなものを撰んだ。中島師団とは伏見16師団のことで、私たちの郷土部隊・福知山20連隊が属した上部組織であった。
当HPでは、あるいは信じられない過去がよみがえるかも知れません、私たちは加害者であった、そして今もそうなのかも、よく知らないという方は覚悟して以下はお読み下さい。

 南京事件については最もよくその実相を知りえた、その実行部隊であり、中国側からは最も残忍な部隊と名指しされた。南京事件と丹後丹波とは因縁が深い。大野部隊(20連隊)の中には妻の叔父なる人物もいて、中山門一番乗りの勲功により金鵄勲章を貰ったと記録にはある、南京で勲章を貰ったのは村ではこの人だけのよう、温厚な将来嘱望の人だったと聞くがガリガリにやせ細って復員しすぐになくなったそうで、この時の子細は不明である。

中国は日本兵を次のように見ていた。
…如此皇軍 倭寇称「皇軍」 貧財又好淫 強姦我婦女 掠槍我金銀 如此「皇軍」 人面獣心…
(4)−東史郎氏が壁に書かれた抗日宣伝文を書き留めたもの、南京への道筋で−

中山門から南京城に突入する日本兵
↑(12)の表紙写真。中山門から南京城に突入する日本兵、とある。福知山20連隊であろうか。(のちのヤラセ写真だろうか)


 今では小学生でも知っているわけだが、当時提燈行列して祝った国民は誰も「南京大虐殺」を知らなかった、というか知らされていなかった。16師団の地元のあたりでは帰還兵からのウワサとして微かに人に知られないようにヒソヒソとは伝わっていた、事は軍機にかかわることであった、こんなことで皇軍の権威が揺らいでは戦争ができない、真相は隠された。しかしジワジワと染みこんでいく、私などもそうした話を直接聞いた一人であろうか、私らの世代なら誰でも一度くらいは聞いている。しかし全体像までは知らなかった。
この世の地獄、大虐殺といえば西がアウシュビッツなら、東では南京がよく挙げられる。今となっては誰も正確な数値は示せない、聖戦論者にとっては最も知られたくない侵略加害部分でありアキレス腱である、そのためか歴史を離れたような根拠無しの勝手な主張もみられるが、都合悪いと忘れても、隠しても、何も後世得る物がない、何も未来へ繋がらない。
過去を忘れる者は未来も忘れる、次の戦争はアウシュビッツや南京どころではないと想像される、その千倍万倍を越えるものであり、全人類の皆殺し戦争となろう。われらとしてはできるだけ正確な歴史を知るよう努めねばなるまい、聖戦論者(軍国主義者・自称「愛国主義者」か)がすぐいう、「自虐史観」とか呼ぶ次元ものではなく、全人類が絶滅するか生き延びらられるかの大問題を視野に入れてのことになる。どこかの一国の誤った過去としてだけではなく、全人類の誤った過去として、人類恒久平和の構築という観点からもう一度しっかり見つめてみるべものであろう。そうでなければ歴史を学ぶ意味はなかろう。
犠牲者数推定はまちまちで、アウシュビッツは800万〜15万、いろいろ異なっているが本当はだいたい150万くらいとされているよう。南京は40万〜0。東京裁判では20万以上、南京裁判では30万以上とし、後の日本側の研究では一般には20〜15万くらいとされている。
(12)は、

 〈 こうした状況を考えると、軍人・市民をふくめ、戦死者も虐殺の犠牲者もあわせた死者の総数については、「南京城内外で死んだ中国軍民は、二十万人をくだらなかったであろう」(『決定版・南京大虐殺』)という洞氏の推測が、現時点でもっとも実際に近いものとわたしは考える。  〉 
としている。


 『舞鶴市史』は、

 〈 昭和八年五月、日本は中国と満州事変の停戦協定(タンクー協定)を結び、満州における既成事実を中国に黙認させた。軍部は、その後も満州に隣接する華北の一部を日本の勢力下におこうとして、進出の機をうかがっていたが、同十二年七月七日、北京郊外の蘆溝橋で中国軍と衝突(蘆溝橋事件)、続いて八月九日、わが海軍軍人が殺害されたのをきっかけに上海を攻撃(第二次上海事変)するに及んで、戦線は華中にも拡大し、ついに全面的な日中戦争となった。
 特に上海戦線には舞鶴要港部所属の艦船、部隊も参加しており、地元の関心はひときわ強かった。同年九月軍需工業総動員法が発動されたのを皮切りに、次々と戦時経済体制への移行が行われた。また、国民精神総動員運動が起こり、言論、思想の統制も一段と強化されていった。
 在郷軍人の応召も日ごとに多くなり、舞鶴駅、新舞鶴駅、中舞鶴駅はじめ、加佐郡内各駅から歓呼の声に送られて征途につく人々と、これを見送る人々の押し立てた出征幟や、小旗が駅頭を埋めつくした。  〉 

と、これくらいしか書かれてはいない。南京事件などは何も触れない。どちらかと言えば「戦争の受益者」の立場であった舞I市史や福知山市史などはほとんど書かない。原発事故に触れない原発宣伝のようなタメにする無責任な偏向史を見る思いになる。しかしその本当の歴史に向き合うことは自らの町とその歴史を否定しかねない、自分自身すら否定しかねないからであろうか。真摯に向き合う姿勢は今も極端に弱い。
いまのこの町のあるのは、かく近代化してきたのは、実は軍国日本のアジア侵略戦争のお陰です、軍隊様のお陰です、の気持ちが深いところにあり、また一方では知識だけではあるが、周辺諸国には大変な迷惑をかけたの気持ちもある。郷土の軍隊については両義的で複雑な感情をもっている、だから誰も正確な話はしないし知らないままにしいる。南京か、アー重たいな、などと言えば上等のほうか、ええ舞I市民がそんなことで郷土部隊の歴史に向き合えてはいない。市民の多くの意識は自分の住む町を越えられず、国境はもちろん越えられない。手前勝手な精神構造は今もさして変わりないように思われる。
 南京大虐殺の直接の下手人であった下級兵士たちの勇気ある証言が多く発掘されたのは京都府内であり、そうしたことで全国的な注目を集めた過去がある。丹後の兵士達が南京を証言をした日には取材ヘリが何機も飛び交い、峰山駅クヨスクの各新聞が全部売り切れたという話もあった、そうした京都も丹後も関係がなく、あくまでもポツンと井の中の舞I人に留まる、それくらいならいいのだが、それどころか先の戦争を大きな誇りをもって子孫に伝えたいなどともしかねない雰囲気すら一部にはあり、なにかとニュースとなる舞I人の頽廃はこうした面でも一部には見られるように思われる。
大きな誇りか、それとも大きな不名誉か、歴史をよく見てみようではではないか。舞Iに残された戦争遺跡の全体的な評価はそれからでよいし、ゼンキンを億単位で投入するその再利用はさらにその先の話であろう。市史を見ても理解できるが、そんな面倒で重く苦しいことは戦後一度もやってはこなかった町であり、避けてきた町である、戦争遺跡を納得のいく再利用ができるほどの基礎的な道義や理論研究を市民レベルでも、どのレベルでも持ってはいない、どこにもない。実は小6レベルの歴史知識すら怪しいのである。
正確な全体の歴史を見ずにただごくごく限られたプラス面だけをロマンだなぁなどと美化し肥大化させていく、権力がメディアがそうした世論指導層がそんなことに先走るのはたいへんに危険な傾向ではなかろうか。

南京事件について、舞I人が感心を寄せているのは次の時岡氏のものくらいだろうか。
 『舞鶴文化懇話会会報』(61.6)

 〈 昭和十二年十二月南京城で何がおこったのか
時岡 侃

 戦後になりまして私達日本国民に知らされましたることは、昭和十二年十二月に首都南京市で日本軍に依り、中国人の大虐殺が行われたと云うことです。
 十二月十三日より二十日までの一週間程の間に二十萬人とも三萬人とも云う大量の中国人を日本軍が虐殺したと云うのです。真相はどうなのでしょうか。虐殺が有ったのならば、日本軍のどの部隊が行ったのでしょうか。戦後、中国側の発表に依れば虐殺は南京入城式前後の事だと申しております。問題は十七日の入城式の前後の出来事だと考えられますので、話を少し前にもどして考えてみます。
 私の友人が昭和十二年十一月の上海戦、十二月の南京攻略戦に中隊長として参加し、つぶさに戦闘を観察し、自ら激戦を体験しております。そして、十二月十八日には南京城内へ入り城の内外を視察し多くの写真を写しております。それを見ながら当時を思い出し語っております。
 彼は第九師団(9D)に属しておりました。(三田村部隊)・十二月八日には南京城効外の淳化鎮陣地を突破し、十二月十日の夕刻五時頃には一度は光華門上に日章旗を立てておりますが、中国軍も戦意旺盛でしたので、逆襲に会い占領した陣地を奪取され、伊藤大隊長は戦死されております。
 十一日、十二日と幾度も攻撃をかけておりますが全て失敗し、十二日の夜に夜襲をかけ、十三日早朝に再度光華門へ突入して日章旗を立てた。これが南京城一番乗りです。
 友人の話では、光華門の城壁の高さは約十三米ほどで城壁の前には幅約百米、深さ二米程の外濠が在り、門の入口には二重になっておりまして、土嚢が積み重ねてありました。さらに電流を通じた鉄条網が敷設されておりまして、城壁の上、十数箇所には機関銃陣地が点在し、盛んに射って来ましたので容易には近づけなかったと話しております。その城門の東側を我が軍の山砲の射撃に依り一部分を崩して突撃路を作り、十三日早朝に脇坂部隊(36i)の山際少尉が部下とともに突入に成功し、城壁上を確保し旗を立てたのです。
 一方この時には、京都編成の第十六師団(16D)はどこに位置して何をしていたか……ここになぜ第十六師団(16D)を登場させ、その行動を記すかと申しますと、戦後大きな社会問題となった極東国際軍事法廷と南京戦犯裁判軍事法廷で取り上げられた「南京大虐殺」なる事件が有ります。それを行ったとされる軍隊が京都の第十六師団(16D)であり、その時その師団を指揮いたしました師団長が中島今朝吾中将で、どちらも舞鶴に関係が有るからです。
     ★
 虐殺の内容に付いて少し書いておきます。
 極東国際軍事法廷の判決書内に、南京地区で日本帝国主義によって虐殺された中国人民は二十万以上に達するものと確認した…と有ります。
 国民党政府の発表(現在の中華人民共和国ではありません)
 一九四六年(昭和二十一年)二月、国民党首都地方法院首席検察官 陳光虞は、敵浸略者の犯罪行為について調査した報告書の中に敵によって惨殺された者の数は「二十九万五、八八五名」としております。
 一九四六年九月には、政府の各関係部門及び紅卍会等、十四の機関の調査を経て被害者数を「九万六、二六○人」追加、被害死亡者総計は「三十九万二、一四五人」となっております。
 又、中国側の発表に依れば、最も残忍だった部隊は第十六師団だと云っております。集団虐殺を主に行った軍隊は第十六師団であると…。
第十六師団は昭和十二年十二月十四日より十八日までの五日間で南京市内で二十六万四、三九八名を虐殺したと云っております。一日平均五万二、八七九名となります。
 信ずる、信じないは皆様の勝手ですが、中国側国民政府の報告書はその様に成っております。中国側の調査報告書をもっとつづけます。(一部分ですが)
 南京国民政府国防部軍事法廷の調査
 @ 下関煤炭港における大虐殺
 一九三七年十二月十六日(昭和十二年)
 日本軍は難民区の各戸と各収容所から捜索の上捕えてきた数万人の青年を下関煤炭港に連行し、機関銃で惨殺し死体を長江へ投げ入れた。(除嘉禄証言)
 A 魚雷営の大虐殺
 一九三七年十二月十五日
 一般人と武器を捨てた軍人九千余人は日寇の俘虜とされた。海軍魚雷営まで押送され機関銃による集中掃射を受け、全員殺害された。(殷有、法廷で証言)
 B 漢中門外の大虐殺
 一九三七年十二月十五日
 日本軍は司法院難民収容所において、警察官、軍人、民間人二千余人を捜索の上捕え、全員を室外に追い立て四列縦隊に並ぶ様命令し、漠中門外まで押送してのち、機関銃で掃射しさらにガソリンで焼却した。(伍長徳証言)伍長徳は、はっきりと中島部隊であると証言しております。
 C 下関上元門の大虐殺
 一九三七年十二月十七日
 日本軍は各所から捕えてきた軍民三千余人を煤炭港の江辺に拘禁し機関銃で掃射し、一部のものを火をかけて焼き殺した。(陸徳、証言)
 D 下関中山碼大虐殺
 一九三七年十二月十六日
 華橋招待所の難民五千余人は日本軍によって下関中山碼頭まで押送され、歩兵銃と機関銃で射殺され死体は長江に投げ入れられ
た。(梁廷芳、証言)
 E 下関草鞋峡の大虐殺
 一九三七年十二月十八日
 倭寇は入城したのち、すでに退却してきていた国軍と難民の老若男女五万七千人余りを本営の有った山の下四、五ヶ村に包囲拘禁し、飲食を断ち……四列に並べて下関草鞋峡まで追い立て機関銃で掃射しさらに銃剣で突き、石油をかけて焼き、残った人骨をことごとく長江へ投げ入れた。(魯蘇、証言) 他に多くの証言や報告書があります。
 南京占領後、中島中将は南京警備司令官になっております。中島警備司令官の命令で十五日より市内の残敵掃蕩を行っておることも事実です。
 国民党、南京政府の発表に依れば、京都の第十六師団が十三日占領後、十八日までの間の一週間たらずの間に南京市内で二十六万四千人の多数の人員を虐殺したことになっております。国民党、南京政府の発表はまだつづきます。
 『敵軍は、十三日に入城し……大大的に火を放ち致る所をでたらめに焼き、猛烈なる大火と黒煙が日夜全域を覆って一ヶ月の長きに及んだ.……その劫火の下では強盗、掠奪、強姦、輪姦、刺殺、焼殺、その数限りなし……」と。
 然し、十五日と十七日は我が軍が入城式を行った日であります。
 入城式を行いながら毎日五万人の人々を殺せますか。中島日記には、十八日は我が軍の戦死者の慰霊祭が城内の飛行場で行われており、第十六、第九、第三、第六、第十八、第百十四師団とその他砲兵旅団、独立部隊、全員集合の上壮厳に行うと有ります。
 慰霊祭をしながら五万人とわね…。虐殺がほんとうに存在したのでしょうか。そのことを書く前に、第十六師団、長中島今朝吾中将のことを少し書いておきます。
 明治十四年六月十五日生 大分県宇佐都八幡町字下乙女幼年学校。陸軍士官学校(15期)。陸軍大学(25期)卒。
 日露戦役には砲兵少尉にて従軍
 フランス陸軍大学卒
 昭和二年 任砲兵大佐 旭川野戦砲兵第七聯隊長
 昭和四年       陸軍大学教官
 昭和七年四月 任陸軍少将 舞鶴要塞司令官
 昭和八年八月     習志野学校 初代校長
 昭和十一年三月 任陸軍中将 憲兵司令官
 昭和十二年八月二日 補 京都第十六師団長
   〃   〃   兼 中部防衛司令官
 昭和十三年七月 補 第四軍司令官
 昭和十四年八月   参謀本部付
   〃  九月   予備役編入
 昭和二十年十月二十八日 肝硬変、尿毒症の為長野県にて死去
                        (65才)
 
中島今朝吾中将は昭和七年四月より舞鶴要塞司令官として、一年数ヶ月、舞鶴市に居住せられた人であり、第十六師団の構成人員は近畿地方の人々です。
 京都九聯隊(9i) 福知山二十聯隊(20i) 津三十三聯隊(33i) 奈良三十八聯隊(38i)の編成です。特にその内の二十聯隊(20i)は舞鶴や奥丹後の人々が主たる部隊で有ると聞いております。
 再び申します。
 首都南京攻撃の真正面を中央部を進み、紫金山、中山陵を攻略し、十三日朝中山門より城内へ進撃し、城内を怒濤の如く走り、城の反対側の下関まで攻撃した軍の師団長はかっては舞鶴の司令官であり舞鶴に居たことがある人であります。
 
南京占領後、市内の残敵掃蕩を行った部隊は京都の九聯隊と福知山の二十聯隊です。このことは中島師団長の当時の日記にも記して有ります。
 昭和五十九年に中島氏のご子息に依り公表されまして、昭和五十九年十二月二十五日発行「歴史と人物増刊号秘史大平洋戦争」中央公論社刊の中に発表されております。
 昭和十二年八月二日、補第十六師団長の日より昭和十三年八月五日までの間の野戦陣中の出来ごとを誌しておられます。その中の昭和十二年十二月十一日以後の関係部分を抜萃いたしまして掲載をさせていただきます。 註、軍隊用語が有ります。乞判読。
             ★
 十二月十一日 晴天 下麒麟門馬群西側部落
一、 師団主力右翼タル33iノ二大隊ハ紫金山頂△386ヲ占領シ次デ△371高地ニ進出シテ第一峯ニ対スル攻撃準備中。
一、20iノ一大隊ハ魏家鎮西側高地ヲ占領シテ魏化鎮ノ敵ニ対シアリ。
一、夕刻ニ至リ右ハ(33i)ハ第一峯ノ東側
 片桐隊ハ中山陵ノ手前ニ、又20iハ孝陵営北側高地ニ一在リ。
一、 此夜20iハ夜襲ヲ以テ西山(中山門外約二キロノ丘陵)ヲ占領シタルガ敵ハ南京防禦ノ鎖鑰点ヲ占領セラレタル為、四囲ニ亘リ逆襲シ来リタリ。全夜殆ンド絶へマナクMG声ヲ聞ク。
 十二月十二日 晴 但薄靄アリ
一、 早朝前面ノ状況ヲ確メタル概シテ次ノ如シ
 佐々木支隊ハ堯化門を越ヘテ西進中、33iハ第一峯東側安(鞍)部ニ在リ、片桐部隊ハ依然中山陵ノ手前ニ在リ、難ヲ避ケテ易ニツクノ処置ヲ取レリ……。
一、 昨夜西山ヲ取リ本日午後五時三十五分又遂ニ第一峯ヲ占領シ南京東面主支掌点ノ略取ト共ニ敵ハ逐次退却スルニ至ル
一、全ク日没ニ至リテモ、昨夜ニ比シテ極メテ静カニシテ逆襲モナク、又MG射撃モナク恐ラクハ退却力逃避シタルモナラン。
 
十二月十三日 天気晴朗
 早朝20iノ将校斥候ハ中山門ニ入リテ敵兵ナキヲ発見シ、茲ニ南京ハ全ク解放セラリタリト知ル

一、33iハ第一峯ヲ下リテ午前八時天文台ヲ占領シ次デ各隊ハ逐次城壁ニ迫リタリ…万全ヲ期シテ徐々ニ城内ノ清掃ニ任ズベク処置ス。33iニハ速ニ大平門ニ下リタル後、主力ヲ以テ直ニ玄武湖東北側ヲ経テ旅団ニ追及スルヲ命ズ。
一、正午過ギ
20iノ先発ノ大隊ハ城内ニ入リテ掃蕩ヲ開始ス
一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕へ、彼ガ地雷ノ位置ヲ知リタルヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全体ノ地雷布設位置ヲ知ラントセンガ
歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ。兵隊君ニハカナワヌカナワヌ
一、午後三時半佐々木支隊ハ下関ヲ占領ストノ報アリ。
一、本日正午
高山剣士来着ス、時恰モ捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サンム。小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頭二ツヲ見事斬タリ…
註 高山剣士トハ高山政吉氏ノ事デ戦前戦中ニ東舞鶴ノ五条海岸ニ高山道場、西舞鶴ニハ拱辰館道場、中舞鶴ニモ道場在リテ、剣術ヲ教へテイル。
一、後ニ至リテ聞ク処ニ依レバ、南京ノ電燈会社モ十三日朝マデ運行シアリタリト云ウ、捕虜掃蕩。
一、此日城内ノ掃蕩ハ、大体佐々木部隊ヲ以テ作戦地境内ノ城内ヲ監守セシメ、草場部隊ノ二大隊ヲ以テ南京旧市ヨリ下関ニ向ッテ一方的圧迫ヲ以テ掃蕩セシムルコトトセリ。
一、然ルニ城内ニハ殆ンド敵兵ヲ見ズ、唯、第九師団ノ区域内ニ避難所ナルモノアリ、老幼婦女多キモ此内ニ便衣ニナリタル敗残兵多キコトハ相察スルニ難カラズ。
一、斯クジテ敗走スル敵ハ大部分第十六師団ノ作戦地境内ノ致ル処ニ捕虜ヲ見ル。到定其ノ始末二堪へザル程ナリ。
一、 大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付ケルコトトナシタレ共千、五千、一万群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯、彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ、ナカナカ実行ハ敏速ニ出来ズ。斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリン処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノー中隊長ガ処理セシモノ約一三○○、仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七、八千人アリ、尚続々投降シ来ル。
一、比、七、八千人ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ、一案トンテハ百、二百ニ分割シタル後ニ適当ナルカ処ニ誘ヒテ処理スル予定ナリ、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面二多ク従ッテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツツアリ。

 十二月十四日 西山高地野滞在
一、此日尚城内ノ掃盪未完
 加之城外ニ分散シタル部隊ノ集結、
敗残兵ノ処理等大多忙ヲ極ム
一、入城式ノ件 略
 十二月十五日 晴天ニシテ暖 中央飯店
一、既ニ一部掃盪隊ガ入城シアリタルモ、此日新タニ入城式ノ形式ヲ以テ南京占領ノ一段落ヲツクルコトセリ。
 敗残兵掃盪(盪、蕩、討ノ文字使用有)
一、十三日夜ヨリ各方面ヲ掃盪スルノ必要ヲ感ジ軍ヨリ各師団ニ区域ヲ配当ソテ之ヲ行フコトトナレリ。
一、十五日ヨリ直ニ実行スベキモ一ト先入城ノ上各隊ノ宿舎ニ落付かせ其後軽装シテ全員ヲ以テ之ヲ実行スルコトトシ、十五日ハ宿営ノ応急設備トセリ。
一、十六日十七日ノ二日間ヲ以テ掃盪スルコトトン両旅団ニ区域ヲ配当シ各隊ハ各併行路ニ一部隊ヲ進マシメテ溢路ノ出口ニ至リテ一泊シ翌日又同様ニシテ宿営地ニ帰還セシムルコトトス。
 十二月十七日 晴天 寒クナル 中央飯店
一、此日午後一時三十分ヨリ方面軍司令官、各軍司令官ノ中山門ヨリ入城式アリ。
 各師団、其の他ノ部隊ハ代表部隊を堵列セシメ、次デ予メ準備セル式場ダル国民政府ニ至リテ国旗掲揚式。
 大元師陛下ノ萬歳三唱
 次デ祝宴ヲ設ケ式ヲ終ル。海軍側ヨリ司令官長谷川清中将参加ス。当日マデ南京附近ハ殊ノ外暖ナリシガ午後ヨリ寒気頓ニ加ハリ夜ニ入リテ小雪降リタリ。
 十二月十八日 晴天 寒シ 中央飯店
 城内飛行場ヲ慰霊祭場トシ第十六、第九、第三、第六、第十八、第百十四、其の他砲兵旅団外独立部隊全員集合の上壮厳ナル慰霊祭ヲ行フ。
一、予ハ兼ネテヨリ考案シアリタル宿舎ヲ軍官学校内長官宿舎トシテ蒋介石ノ為二建テタル家ニ引移リ。
 十二月十九日 薄曇リ
 此日中央飯店ヨリ軍官学校内校長(蒋介石)官舎ニ移ル。警備ノ為ノ歩兵一小隊アリ。
 別ニ趣味生活ノ相手トンテ天龍寺村上和尚、花岡萬舟、高山剣士、浄土宗黒谷本山派遣白崎軍僧、映画班ノ二名、当番及宮本副官ト共ニス。
一、我々ガ入ルトキハ支那兵ガ既ニ速クヨリ占拠シタル処デアル彼等ニハ遺棄書類ニヨッテ見レバ大体四、五月以降給料ハ払フテナイ。其代リカッパライ御免トイフノデ如何ナル家屋モ徹底的ニ引力キマワシテアルカラ日本軍ノ入ルトキハ何モナク整頓シテハ居ラヌ。

一、ソコニ日本軍ガ又我先キニト侵入シ他ノ区域デアロウトナカロウト御構ヒナシニ強奪シテ往ク。此ハ地方民家屋ニツキテハ真ニ徹底シテ居ル。結局ズウズウシイ奴ガ得トイフノデアル。
 十二月二十五日 晴
一、 小泉軍医中将ヨリ五貫五○○ノ大鯛イタダキ師団司令部デ会食ス。(この会食者の中に高山剣士の名在リ)
一、大晦日ノ夜七時、南京ニ電燈ツク。
 然ルニ努力ノ結果此大晦日ノ夜七時半、宿舎ノ電燈一時ニ点火シタルトキハ天火ノ光照トナリタル思ヒシテ言フ二言イエヌ喜悦ノ感ニ打タレタリ。…

 この同じ秋
 昭和十二年十二月初旬より南京城南東側の光華門附近で、私の友人が第九師団(9D)隷下部隊の中隊長として多数の部下を指揮しつつ南京攻略戦に死闘を繰り返しておりました。第十六師団とはつかず離れず膚接しつつ、目的を一つにして砲火刀槍の下を駆けておりました。
 友人の手記の一部を引用
 十一月十三日頃より、上海地区から南京への追撃がはじまる。
 我が聯隊は上海−南京の鉄路上を急進した。約一粁にわたり敵の部隊が行軍縦隊のまま全滅していた。人馬、砲車が散乱し、誠に百鬼夜行地獄絵の様な悲惨な情景であった。人馬の死骸は、日がたつにつれて黒くなってふくれ悪臭甚しく、日に日に兵器、被服は略奪され後はウジ虫の塊となった。戦場掃除班は一向に到着せず、収拾の方法なく戦争の惨惜たる光景を如実に見た。十一月十七日の光景で、視たことは正確に正直に書いております。
 十二月十三日
 午前五時、日章旗光華門の城壁上に翻る。
 わが中隊は南京東側の候村で待機した。三日間にわたって、(京都)正面の紫金山が燃へつづけた。城門の立ち入は禁止されていた。
 十二月十七日
 入城式があり、中山門において中隊の選抜兵が代表として閲兵をうけた。
 十二月十八日
 南京城内の視察が許可されました。光華門の城壁の突撃路跡を登ってそとより城内に入る。
 光華門の城壁の上には「日の丸」と記念の木柱とが立っていた。
 木柱の前には鉄帽が供えてあった。南京戦以来の戦死者の霊に黙祷した。
 光華門より城内はるか北方に中央軍官学校が見えた。国民政府(建物)や諸官街(建物)が点在していた。市内へ入ると、一般住民の家屋の破損は少なく、入口には大きな板戸が閉められていた。住民は難民区に集められ監視されているので、一般市内は空虚で無住であった。
『註 住民は難民区(国際保護区)に集められており、一般の民家は住民も日本軍人も立入を禁止し憲兵が監視しているのである。乗馬にて市内外を一巡しておりますが、火災は見ておりません。わずかに馬の死骸を見たと云う。又、遠くに煙を認めております』。
 中山門の小門を出て、丘陵地の巨大な石仏や石馬を見ながら紫金山に登った。中腹に白亜の宏大な孫文の霊廟があった。戦闘と諸隊の宿営の為に中は荒れはてていた。墓前の孫文の大理石像の裏に焚火の木炭で誰がしたのか「亡国の父」と落書がしてあった。
恥かしぐなって消した。……。
 南京西側の邑江門を出て下関に行くと、大暴風雨の跡のように荒れはて猛烈なる戦闘のあったことを想わせた。敵の敗残兵多数が6D(熊本師団)に退路を遮断されて機関銃の掃射をうけ揚子江に散ったことを聞いております。
 『註 十八日には下関で死骸は見ていない。唯、6Dが敗残兵を撃ったことを聞いているのみ、戦闘中には彼我の人馬の死骸を見てはいますが、友人は職業軍人で有り戦争の「プロ」ですから戦死か虐殺かの見わけは付きます。又、当時の市内外の写真を多数所持されております。小生調べておりますが、虐殺を想わせる様な写真はありません』
              ★
 中国側軍事法廷の報告と友人の日記や談話とは大分差が有ります。
 極東国際軍事裁判の、一九四八年十一月十二日の松井石根大将に対する判決書は、「一○萬人以上が虐殺され、無数の財産が奪われ焼き払われた」となっている。
 南京国民政府国防部戦犯裁判軍事法廷で、検察官 陳光虞が、「虐殺された数は三十九萬二千一四五人」……と報告し、国民党政府が公布した数は「三○余萬」と有り、極東国際軍事裁判では(松井分とは別に)「二○萬以上」とも有り、公式にも一○萬から四○萬と数も一定致しておりません。
 私の友人が入城式後の十八日に城内に入り、市の内外を方々を自由に視て廻っておりますが、虐殺の現場も虐殺の跡も視ていないし一切気が付いていない。
 中国側の報告では十八日は市内は劫火で焼かれ、天ためにくらく、その空の下では、「南京人民に対して六週間におよぶ人事を絶する悲惨な大虐殺をおこなった。無辜のわが同胞が集団殺戮に会い、死者総数は二○余萬人に達した。日本侵略軍の南京における大虐殺は計画的組織的におこなわれたものである。
 日本軍は入城後、人とみると殺し、女とみると犯し、犯してから殺し、財物とみれば略奪し、家屋、店舗とみれば焼いた。日本軍の殺人の方法は多種多様で首をはねる、頭をかち割る、腹を切りさく、心臓をえぐる、生き埋にする、手足をバラバラにする、生殖器をさく、焼き殺す、女性の生殖器や肛門を突き刺す、水に投げ入れ溺れ殺す、機関銃で掃射するなど狂暴残虐なること、人類史上においてもまれに見るものである。」と、又一書によれば手あたり次第に日本軍兵士たちの強姦が在り輪姦が行われ、略奪が恣いままにされており……と、十四日から十八日までの間は、報告によれば、毎日毎日五萬人以上の人々が虐殺されていたはずですが、十八日市内を歩いて、どこにも見ておりません。虐殺がほんとうにあったのでしょうか。
             ★
 昭和十二年十二月南京で何があったかは詳らかではありません。今日となっては薮の中、国民政府(当時の中国側)法廷での検察官の告発の報告書の一部と、当時の日本軍の最高責任者の一人の陣中日記の一部と私の友人の市内外の視察後の手記の一部を書いておきました。浅学非才の小生ごときには真実を把握する能力はありません。皆様のご指導とご叱責をお待ちいたします。
 米軍が広島、長崎へ落とした原爆、昭和二十二年三月十日東京の下町を灰燼に帰し、無辜の市民、非戦闘員十萬以上を焼殺した行為を何と見たら良いのか。
 昭和二十年五、六月、沖縄南部で逃げまどう一般住民を砲爆撃で日夜攻撃して十数萬人の非戦闘員を殺戮し、その死骸は翌年の春まで野ざらしとし、鳥獣虫草の自由となし、白骨と化して鬼哭啾々としていたと云う事実。
 又、ベトナムで米軍が行った数数のこと…等々々々……これらは虐殺にはならないのでしょうか。
  〉 

赤字は私がつけたもの。原文にはありません。

 16師団長の中島今朝吾中将の「陣中日誌」と言われるものの中には、自説に都合のよいようにわざと加筆、改竄したものもあるというが、時岡氏が引用するのもの↑はそうではない。(1)(4)(7)(12)(24)にも同じ引用がある。(同じ引用がたくさんの文献に引かれる、いちいち示すのもめんどうなので、ここだけ複数をあげる)
大ウソの大本営発表派、2000万とも推計される犠牲者を生み、我が国を亡国へ導いていった、当時の軍幹部やメディア幹部の日誌や証言などはそんなには信用できないかも知れないが、いまだにそれをやって、それだけを信用しているような連中も多い。
しかし中島師団長は正直に書いているのではなかろうか。役にもたたなかった舞I要塞の指令官であった、閑職を歩いてそれでクビのところをリサイクルされたか、この戦線に登場した。オソマツ指令官だったと有名である。
(24)に、

 〈 南京における事態をいっそう深刻にしたのは、上級指揮官の道義的退廃がいちじるしかったことである。これについては、松井石根自身が、巣鴨拘置所で花山信勝教悔師に、「師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して」次のように語っている。松井は敗戦後、南京事件の責任者として東京裁判でA級戦犯となり処刑されたが、これはその処刑直前の述懐である。
 南京事件ではお恥しい限りです。‥…私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシャ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香官もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当り前ですよ』とさえいった(花山信勝『平和の発見』)。

 こうした上級指揮官のなかでも常軌を逸している点で群をぬいているのは、中島今朝吾第一六師団長である。掠奪品に対する彼の異常な執着心についてはすでに述べたが、ここでは中島の非人間的性格についてふれてみたい。
 中島の残虐な個性に関しては、一二月一三日の日記に、「本日正午、高山剣士来着ス。時恰モ捕虜七名アリ。直ニ試斬ヲ為サシム。小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ッヲ見込斬リタリ」(前掲「南京攻略戦『中島第十六師団長日記』」)と平然と記していることからもうかがわれるが、そのほかにも多くの証言や記録がある。たとえば、朝日新聞社の陸軍省詰めの政治記者であった田村真作は、伝聞によるものと思われるが南京攻略戦の際、「中島今朝吾は、部下に対して、『惨虐の限りをつくせ。そうすれば、敵がおじけづいて降伏して来るだろう』というような訓示をした」と書いている(田村真作『愚かなる戦争』)。
 また、一九三八年(昭和一三)四月一八日、中国から帰った佐藤安之助の訪問をうけた政治家の小川平吉は、佐藤の内話の内容を日記に次のように書き残している。
 軍紀の頽廃はやはり予想以上なり、南京にては入城後に耶蘇学校避難の婦人を兵営に拉し来りて暴行を加へ、宣教師並に副領事の婦人同伴兵営訪問、副領事殴打せらるゝ等の件あり、中島師団長は北行に際し松井の注意に対し強姦の戦争中は已むを得ざることなりと平然として述べたるが如きその頽廃可驚云々(小川平吉文書研究会編『小川平吉関係文書1』)。
 松井に対する中島のこの発言は、松井の一九三八年一月二四日の「陣中日誌」に、「第十六師団長北支に転進の為め着滬す。其云ふ所、言動面白からず」とあるものであろう。
 さらに、南京事件当時、外交官補として南京にいた福田篤泰が、「『殺せ、焼け』と言った師団長がいたという話を、中国人や参謀の一人から聞きもした」(前掲『一億人の昭和史日本の戦史3日中戦争1』)と書いているのは、中島のことを指しているのではないかと思われる。
 この中島と彼の指揮する第一六師団の蛮行については、さすがに軍中央でも問題にされたようである。秦郁彦氏によれば阿南惟幾陸軍省人事局長の日記に、一九三七年一二月二三日の陸軍省局長会報の内容として、「中島師団の不軍規は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨よりきたるものにして、言語に絶するものあり」というくだりがあるという(座談会「『南京大虐殺』の核心」)。また、松井中支那方面軍司令官自身も一九三八年一月、南京を訪れた阿南人事局長に「『中島今朝吾一六師団長……の戦闘指導は人道に反する』とて非難し、士道の頽廃を嘆かれた」とされている(額田坦『陸軍省人事局長の回想』)。これは、阿南に随行した額田が阿南自身から聞いた話である。
 さらに、こうした上級指揮官の退廃を示すものに、佐々木到一歩兵第三〇旅団長に関する記録がある。
 満州土木建築業協会の「皇軍慰問団」団長として、一九三八年一月、南京を訪問した榊谷仙次郎の日記がそれである。榊谷は、一月五日の日記に佐々木到一に関して次のように記している。
 佐々木到一部隊長の処に行く。……南京攻略について御奮闘されたお礼を申上げたのであるが、酒癖の悪い少将で満州から態々慰問に来るならば何故女を連れて来なかったか、くだらない者を連れて来るよりも女を連れて来るのが皇軍慰問には何よりである、そこに居る若小僧は何者かと、満鉄の武市氏が加わってゐたので青年として皇軍慰問は生意気であると散々くどく言はれる(『柳谷仙次郎日記』)次の日、「古海少佐」が榊谷に語ったところによれば、佐々木は「昨年末以来一週間お米は一粒も食べず、朝から晩まで酒ばかり呑んでゐる」という(同前)。こうしたすさんだ空気が上級指揮官レベルにまで及んでいる以上、厳正な軍紀の保持はいちじるしく困難であった。  〉 

16師団は師団長も旅団長もこうした人物であった。私は別に彼らの肩を持つものではないが、しかし何も彼らだけが特別に常軌を脱していたのではない。
日本人のすべてが多かれ少なかれ同じ程度に狂っていたのであった。上層が狂っているのは、そんなものを有り難く戴く母集団全体が狂っているのである。
(21)に、会津若松の65連隊の地元の新聞。


 〈 「両角部隊の大武勲敵兵一萬五千を捕虜」の快ニュースが昨十六日朝本社特電によっで報道されるや全県下ははち切れるばかりの爆発的歓喜に包まれ「でかしたでかした」と出征家族の門前には感謝感激の日の丸が躍り出で 町といはず村といはず、この日の丸の下で譬えやうのない喜びの挨拶が交はされ学校では早速教室で教材に取り上げられる、生徒児童の万歳の爆発となり??始め各官衙銀行会社等もこの快ニュースで仕事も手につかない有様「白旗を立てゝ降参するに至れり…」とは痛快だ、思ひ切って一人残らずオウ殺にしてやればよいのに、と老若男女一様に南京没落の祝賀の興奮消えやりぬ胸を再び涌き立たせ、同夜各家庭の晩饗は心から成る祝杯と万歳の声で大賑はひだった  〉 

記者の創作かも知れないが、もし紙面の通りなら、老若男女のすべてが、捕虜は一人残らず殴殺してやればいいといった、これでは全国民がナカジマ・ササキであったことになる、恥ずかしくて日本人はすべて明るい場所は歩けないことになるが、しかしある程度はこれは真実であったと思われる、当時を生きた人は「私もキチガイでした」といっているからである。
朝日ですらこんなことであった。なお新聞や郵便などの通信、こうした情報系は戦争になると儲かる、ゼニもうけのために世論を煽ることがある。さて、現在のあなたはどうですか?

 大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付ケルコトトナシタレ共千、五千、一万群集トナレバ…
よく取り上げられる部分で、「捕虜はせぬ方針」とは「武器を取り上げて釈放せい」ということ(南京事件については最もよく知り得たといわれる軍参謀の証言)ではなくて、もう少し日誌を読めば、その意味がよく書かれている、

七、八千人ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ、一案トンテハ百、二百ニ分割シタル後ニ適当ナルカ処ニ誘ヒテ処理スル予定ナリ、

捕虜を釈放するのに「相当大なる壕」を要するだろうか。当時の師団長がこう書いていた。この方針は16師団の方針なのか、それとももっと上層の方針なのだろうか−、もちろん一師団長ではなくもっともっと上層の方針と思われる。

南京の捕虜の中には釈放された者もあったという(7)。「お前らは百姓だ、釈放する家へ帰れ」と白旗を持たせて全員釈放した正気の日本部隊も中には希にあった、ごくごく限られた部隊のようで地獄で仏の唯一の部隊だったかも知れないが、中国兵の証言だし、本多氏が書かれているから本当のことと思われる。
ここでは釈放されたのだが、しかしである、先には別の日本部隊が待っていた、今度は全員虐殺された、傷が浅く何とか逃れるなどしてまさに九死に一生の何度かを経て奇跡的に生き延びて証言している。命が5つくらいあっても生き延びられそうにないあらゆる部隊による殲滅戦だった。


 16師団は2つの歩兵旅団(十九旅団(福知山二十連隊と伏見九連隊)・三十旅団(津三十三連隊と奈良三十八連隊))に分けられていた。前出のその佐々木三十旅団長の日記、彼は「満州国」にいて、すでに満州「匪賊」捕虜などを徹底的に殺戮する指導をしてきた前歴をもった人物である、16師団が南京虐殺の大立役者になっていくのも偶然ではなかったといわれるが、(12)より

 
 〈 中島師団長配下の歩兵第三十旅団長佐々木到一少将は、陸軍きっての中国通で、南京攻略にあたっては、歩兵第三十八聯隊と、歩兵第三十三聯隊第一大隊などを指揮して佐々木支隊となり、南京城の北側にせまって下関にむかい退路遮断にあたった。かれの著書『ある軍人の自伝』(増補新版、勁勤草書房、一九六八年)におさめられている「南京攻略」時の日記の一二月一三日の項には、
つぎのような記述がある。
  「この日、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千にのぼり、その外、装甲車が江上に撃滅したもの並びに各部隊の俘虜を合算すれば、我支隊のみにて二万以上の敵は解決されているはずである。
 午後二時ごろ概して掃蕩をおわって背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進、和平門にいたる。
 その後、伴虜ぞくぞく投降し来り数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨をかえりみれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」といいたくなる」
 佐々木旅団長配下の歩兵第三十三聯隊の「南京附近戦闘詳報」ては、「自昭和十二年十二月十日至昭和十二年十二月十四日歩兵第三十三聯隊鹵獲表」に、「俘虜将校一四、准士官下士官兵三○八二」とし「俘虜は処断す」となっている。また「敵の遺棄死体(概数)」の項では、「十二月十日二二○、十一日三七○、十二日七四○、十三日五五○○、以上四日計六八三○」として、
「備考、十二日十三日の分は処決せし敗残兵を含む」とある。
 翌一二月一四日、佐々木旅団は南京城内外の掃討を担当した。同旅団の歩兵第三十八聯隊の「昭和十二年十二月十四日南京城内戦闘詳報第十二号」によると、一二月一四日午前四時五○分の「歩兵第三十旅団命令」で、「旅団は本十四日南京北部城内及城外を徹底的に掃蕩せんとす」とし、さらに「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」と命じている。この戦闘詳報第十二号の付表には、「停虜(将校七○、下士官兵七一三○)」とあり、備考に「俘虜七二○○名は第十中隊尭化門附近を守備すべき命を受け同地にありしが、十四日午前八時三十分頃数千名の敵白旗を掲げて前進し来り、午後一時武装を解除し、南京に護送せしものを示す」と書かれている。各隊は捕虜を受けつけてはいけないという命令にもかかわらず、第十中隊は七二○○名というあまりにも大量の捕虜だったので、これを南京に連行したものと解される記述である。  〉 


 (7)に、
 〈 徳川義親の自伝『最後の殿様』(講談社・一九七三年)には、この大群衆に機関銃掃射を命じた参謀のことが次のように描かれている。

 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田(勇)くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。(中略)
 長中佐は藤田くんにこう語ったという。
 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたはかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。  〉 
尾張の殿様で、治安維持法には貴族院では唯一反対票を投じたという。




 師団長や旅団長、殿様の日誌などがこうして公開されているのだから、その配下の一上等兵くらいが同じように日誌を公開したとても何も問題ないはずだが、「国賊、東史郎!」と右翼街宣車が氏の自宅に横付けで一日がなり立てた、その時は私は裁判でいませんで、バアさん一人が留守番でしたがもうオロオロ、あんなことは丹後の歴史始まって以来ですやろ、戦友会も除名されました(氏におききした話)。
上には何も言わず、下っ端にはこれである。
さてその元20連隊上等兵の(3)、12月13日の日記には、上を裏付けるような記事がみえる。

 〈 私たちが郡馬鎮の警備についている間に捕虜たちは各中隊へ二、三百人ずつあて、割りあてられて殺されたという。
 彼らの中にいた唯一の将校軍医は、支那軍の糧秣隠匿所を知っているからそれで養ってくれと言ったとか。
 なぜこの多数の捕虜が殺されたのか、私たちにはわからない。しかし何となく非人道的であり、悲惨なことに思えてならない。私には何となく割り切れない不当なことのように思える。七千の生命が一度に消えさせられたということは信じられないような事実である。  〉 

 事実をよくよく承知してるのに、承知していればこそ、都合悪ければ参謀のような上層人は普通の人間なら決してしないような、とぼけた話を平気でするので、かなり注意が必要である。(すべてがそうと言うのではないが−)
(12)によれば、

 〈 外務省東亜局長(石射猪太郎)の回顧録
 国民には知らせなかったが、政府や軍当局者、報道関係者は事件を知っていた。事件当時、外務省東亜局長だった石射猪太郎は、当時の日記をもとにした回顧録『外交官の一生』(読売新聞社、一九五〇年)に「南京アトロシティーズ」の一項を設けてつぎのようにしるしている。

「南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追って、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の報告である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。
制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。

○上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。鳴呼これが皇軍か。日本国民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ」
石射は、三省事務局長会議(陸海軍省の軍務局長と外務省東亜局長で構成)でたびたび陸軍側に警告し、広田弘毅外相からも陸相に「軍紀の粛正を要望した」としている。さらに同書では、つぎのように書き、この事件を「南京アトロシティーズ」と呼んだとしている。

「これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。
 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直に千里を走って海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼讃するのみであった」  〉 

 南京には外国人が当時22人滞在していた、彼らからのニュースが全世界に流れた。海外ではよく知られていた。知らぬは日本国民だけであった。
喰う物すら持たない急進撃であった、正規の編成ではない7万もの日本軍兵士が南京に入ったが、憲兵などはいるはずもなかった、(1)(20)によればその時南京城内には憲兵は17人しかいなかったという。正確には17日の入場式時に松井指令官に随行したのが17名で、それ以前は0であった(24)。NATO軍がよくいう市民の保護のための軍事行動などの理念は初めから念頭にない。
 何のためにちょっと調べれば、すぐにバレるような大ウソを平気でつくのかわからないが、ボンボン育ちで精神的に幼稚な人なのかも、臭い物に蓋がいいのか、後世のために語らなければならないかという思索のある人でまったくなく、口先だけの対応している様子で、それを単に参謀という肩書きだけで信用する人もあるようである。

上層がダメなら、応召兵はどうか。ここなら真相を語ってくれるのでは…
しかし語ってくれる人も語ってくれぬ人もあるよう。
南京の虐殺事件のことは…わしも…思い出すまいとしても…忘れられん。おっそろしゅうて…人様の前では…とても話なんか…でけんことや

いかに…上官の命令とはいえ…むごいことをしたもんだと…わしの罪を中国の人たちに…ざんげする気持ちでいます。

−(4)・丹後町宇川の元上等兵−

次にそれらを見てみよう。
彼ら父や祖父たちを何もいまさらに責めようとして、取り上げるのではない、彼らは、どちらかと言えば、戦争の被害者といってよい、好きこのんで戦争に行った者は一人もいない。虐殺の責任を彼ら兵士に押しつけようとするのではない、本当の加害者は彼らではない。
東氏は中国へ行き、行ったところでは、本当にすまないことをしたと謝罪して廻られたそうだが、いやいや別にあなたが悪いのてはない、あなたの勇気ある姿には頭が下がります、中国人はそう言ったそう。死去に際しては中国から哀悼の意が示されたという。
加害者側がそれに甘えるのもどうかとも思われるが、氏のような真摯な反省が、本当の加害者にこそ求められるのではなかろうか。




参考資料
『福知山・綾部の歴史』(1998)より

 〈 栄光と悲惨の軌跡 ●歩兵第二〇連隊

 日清戦争に備えて歩兵連隊が倍増された際、明治二〇年(一八八七)に大阪で誕生した第二〇連隊は大阪第四師団に属した。日清戦争では、最新式装備を誇る近衛師団と第四師団は最後まで内地に温存され、講和会議後、はじめて第四師団は占領地の保障占領に、近衛師団は台湾鎮定に出動するにとどまった。
 日清戦争直後から日露の開戦を予測した政府は、陸海軍の大拡張に着手すると共に、連隊の地方分散も進めた。三丹(丹波・丹後・但馬)・若狭の健児たちで構成されていた第二〇連隊の誘致に福知山町が懸命の努力を傾けたのは当然である。その甲斐あって明治三一年八月二七日、徒歩で大阪を出発した将兵は三田、篠山、竹田に各一泊して、九月三日朝、沿道を埋める郷土の人びとの歓呼の声に迎えられ、歩武堂々新築の兵舎に到着した。
以来第二〇連隊は、郷土の青年たちの錬成の場となり、青春の思い出、心の故郷であり続けた。20連隊旗
 明治三七年二月三日、日露開戦と同時に第一軍は鴨緑江を渡り、第二軍は遼東半島に上陸、東西に分かれて遼陽を目指して進撃を開始した。当時二〇連隊の所属する姫路第一〇師団は、両軍の間隙を補強するため中間の大孤山に上陸、所在の敵を蹴散らしつつ同じく遼陽に向った。近代工学の粋を尽くして構築された難攻不落の遼陽城に、ロシア軍は二三万の大軍を結集させ、この地で日本軍を一挙に全滅させようと自信満々と待構えていた。この遼陽城の正面攻撃を担当したのが第二軍と第四軍(第一〇師団、第五師団その他)である。日露両軍合わせて四〇万を超えるこの大会戦は、規模やその苛烈さにおいて世界戦史上有数であり、世界の注目を集めた。百雷一時に落ちるかと思われる砲撃戦下の戦闘は八月二九日に始まり、死傷者が続出し壮烈悲惨言語に絶した。第二〇連隊も連隊長はじめ将校下士次々と倒され、某中隊などは、上等兵が中隊の指揮をとって城内に突入したという。兵力を半分失ないながらも遼陽城に先頭切って突入した第二〇連隊の勇名は広く世界に伝えられ、以後は名誉連隊と呼ばれるようになった。下って昭和六年(一九三一)の満州事変の前後二回四年間、第二〇連隊は満州警備の任に就き、実戦による猛訓練を重ねて精強無比の部隊に仕上げられた。日中戦争では上海上陸以来の苦戦に耐え、またもや南京城中山門一番乗りを果たした。同一四年に一時凱旋、同一六年にフィリピン攻略に参加しマニラを占領したが、参謀部の認識不足による無謀拙劣な作戦の犠牲となり、バターン半島で壊滅した。その後補充によって再生し、フィリピンの警備に当たっていたが、昭和二〇年、またもや補給も援助もないレイテ島で敵の大軍に包囲され、勇戦敢闘の効もなく、ついに軍旗も焼却した上、永遠に姿を消したと伝えられる。
 今日福知山市南郊の平和墓地に静かに眠る一万八、六六八柱の郷土の英霊は、歩兵第二〇連隊の栄光と悲惨をいかにかえりみ、この国の将来をいかに案じているのであろうか。(根本惟明)


市民とともに歩む部隊 ●警察予備隊から自衛隊へ

 昭和二五年(一九五〇)六月に勃発した朝鮮戦争で、たちまち苦戦に陥った韓国軍救援のため在日米軍が出払った後、日本の治安維持に不安を覚えた連合軍総司令官マッカーサーが出した許可という名目の指令によって、警察予備隊が誕生した。名は警察でも実は四箇師団の歩兵部隊であったため、左翼過激分子や一部在日外国人の非難妨害を受けたにもかかわらず、応募者は定員の五倍を超えた。しかも厳選された七万五、〇〇〇人の隊員の半数以上は歴戦の復員軍人であり、集合した若者たちには憂国の気概が見られたという。
 警察予備隊の発足とともに、旧国軍の駐屯地では全国的にその誘致運動が起こり、歩兵第二〇連隊を郷土の誇りとしてきた福知山でも熱心な誘致運動が行なわれたのは自然の成り行きである。そうした努力が実り、昭和二五年一二月五・六日の両日、遠く仙台米軍キャンプに仮集合していた各種の技術部隊一、八七四名が、福知山市民の歓呼の声に迎えられ、続々と旧第二〇連隊兵舎に到着した。当時の警察予備隊の編成・配置・訓練などには一貫性がなく、部隊の出入りも激しく、一応の安定を見るには約一年を要したといわれる。
 ようやく体制の整った昭和二六年五月一日、岡山県水島町に連隊本部と第一大隊からなる第七普通科連隊主力が誕生して、猛烈な訓練が開始された。旧陸軍の正規将校の参加も始まり、連隊は筋金入りの精鋭部隊に成長していった。福知山がこの第七普通科連隊の永久駐屯地に選定されたため、昭和二七年一月一九日、連隊主力は福知山へ移駐した。同年一〇月一五日には、日本の独立回復を機会に予備隊は保安隊と改称された。冷戦の激化する情勢下、部隊の装備も隊員の気構えも大きく変化したが、何よりも国内の治安維持を主目的とする点では、警察予備隊とさほど変わるところはなかった。
 面目を一新したのは、昭和二七年七月の陸上・海上・航空自衛隊の発足である。その任務も「直接間接侵略に対し、わが国を防衛するとと」を主目的と明示され、従来の管区隊も師団と改められ、名実ともに国防軍の地位を確立した。以来自衛隊の充実発展は目覚ましく、今日世界の一流国防軍に伍してひけを取らないように思われる。
一方、自衛隊は当初から地方民との一体感を育てるため営々と努力を重ねてきている。昭和二七年以来五〇数回を超える災害救助出動をはじめ、福知山では市民まつりへの積極的参加や民間の文化・社会活動へのきめ細やかな奉仕など、その効果は大きく、今日自衛隊は国民大半の高い評価と信頼を受けている。
 また「伝統は力なり」を合言葉に、旧第二〇連隊の遺風を顕彰するとともに、福知山地方の郷土の歴史を語る資料も蒐集展示するため、昭和四一年に営内史料館が開設された。年々充実整備され、内外見学者に感銘を与えている。
 優秀・有能な国防軍の存在は国民一般の願いである。(根本惟明)  〉 

戦争に対する根本批判を欠き、南京事件などには何も触れない、ええとこどりの時代物精神で、新しい時代などは来そうにもないが、簡潔で兵達を愛する気もありそう、なので引かせてもらった。写真も同書による。





(1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997)
(2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999)
(3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987)
(4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987)
(5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988)
(6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981)
(7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989)
(8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50)
(9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36)
(10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991)
(11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット)
(12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット)
(13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984)
(14)『蘆溝橋事件』(江口圭一・岩波ブックレット)
(15)『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会・つむぎ出版・2010)
(16)『言葉の力』(ヴァィツゼッカー・岩波書店・2009)
(17)『土と兵隊・麦と兵隊』(火野葦平・新潮文庫)
(18)『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子・岩波新書)
(19)『国防婦人会』(藤井忠俊・岩波新書・1985)
(20)『南京事件の日々』(ミニー・ヴォーリトン・大月書店・1999)
(21)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二他・大月書店・1996)
(22)『銃後の社会史』(一ノ瀬俊也・吉川弘文館・2005)
(23)『草の根のファシズム』(吉見義明・東大出版部・1987)
(24)『天皇の軍隊と南京事件』(吉田裕・青木書店・1986)





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 福知山二十連隊と南京事件
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東史郎氏の「北支戡定戦日誌」
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京− 』舞I公演


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