過去は忘れて 戦争でも始めよう!
誰が敵だかわからない
帝國の四面はすべて敵

福知山20連隊と南京事件

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 生きている遺骨


 南京事件は国民には知らされていなかった。はじめて知ったのは事件から9年も経た東京裁判であった。当時の政府や軍もメディアも伝えなかった。事件がなかったのではなく、実はあったから、知られては都合悪かったから伝えなかったよう−

『生きている兵隊』文庫本カバー
↑ 『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫)カバー絵
一部引かせてもらえば…↓

 〈  こういう迫撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。
最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも気骨が折れてならない。「捕虜は捕えたらその場で殺せ」それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された。
 笠原伍長はこういう場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。彼は数珠つなぎにした十三人を片ぱしから順々に斬って行った。
 彼等は正規兵の服装をつけていたが跣足であった。焼米を入れた細長い袋を背負い、青い木綿で造った綿入れの長い外套を着ていた。下士官らしく服装もやや整い靴をはいたのが二人あった。
 飛行場のはずれにある小川の岸にこの十三人は連れて行かれ並ばせられた。そして笠原は刃こぼれのして斬れなくなった刀を引き抜くや否や第一の男の肩先きを深く斬り下げた。するとあとの十二人は忽ち土に跪いて一斉にわめき涎を垂らして拝みはじめた。殊に下士官らしい二人が一番みじめに慄えあがっていた。しかも笠原は時間をおかずに第二第三番目の兵を斬ってすてた。
 そのとき彼は不思議な現象を見た。泣きわめく声が急に止んだのである。残った者はぴたりと平たく土の上に坐り両手を膝にのせ、絶望に蒼ざめた顔をして眼を閉じ顎を垂れて黙然としてしまったのである。それはむしろ立派な態度であった。
 こうなると笠原はかえって手の力が鈍る気がした。彼はさらに意地を張って今一人を斬ったが、すぐふり向いて戦友たちに言った。
「あと、誰か斬れ
 さすがに斬る者はなかった。彼等は二十歩ばかり後へさがって銃をかまえ、漸くこの難物を処分した。  〉 


 『生きている兵隊』は南京攻略戦の16師団を主に描いたといわれる。たぶんそうだろう、当時の兵士たちの証言と驚くほど似ている、しっかり現地取材して書いたものと思われる。戦線のいたるところでこんな光景が見られたと思われる、戦争目的を失い、生きている意味を失い、16師団兵士は次第に「生きている骸骨」化して、「一億火の玉」となって南京になだれ込んでいった、誠に恐るべし。
この作品はしかし狭い意味の南京大虐殺は下関付近だけでそのほかはほとんど描いてはいないし、これは戦闘行為だったと言えなくもないかも知れない(言えないだろうが)、さらに伏せ字だらけ(緑字部分)だった、昭和13年『中央公論』三月号発表されたが、即、発売禁止、禁固4ヶ月執行猶予三年となり、当時の国民の目に触れることはなかった。

↓(2)につけられた半藤一利氏の解説より

 〈 昭和十四年二月に作成された陸軍省秘密文書第四〇四号「事変地ヨリ帰還ノ軍隊、軍人ノ状況」の一部をここに引用したい(原文は片かな)。
「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬ振りをするから、思う存分掠奪するものもあった」
「ある中隊長は『余り問題が起らぬように金をやるか、又は用をすましたら後は分からぬように殺しておくようにしろ』と暗に強姦を教えていた」
「戦争に参加した軍人をいちいち調べたら、皆殺人強盗強姦の犯罪者ばかりだろう」
中国戦線にある日本軍の軍紀のゆるみは、個人のレベルではなく、すでに集団になっていることを、これらの言葉は示している。  〉 


 〈 石川は「私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようとするつもりであった」
「国民は出征兵士を神様の様に思い、我が軍が占領した土地にはたちまちにして楽土が建設され、支那民衆もこれに協力しているが如く考えているが、戦争とは左様な長閑なものではなく、戦争というものの真実を国民に知らせることが、真に国民をして非常時を認識せしめ、この時局に対して確乎たる態度を採らしむる為に本当に必要だと信じておりました。殊に南京陥落の際は提灯行列をやりお祭り騒ぎをしていたので、憤慨に堪えませんでした」  〉 


 戦後の東京裁判や南京裁判の報道で国民ははじめておぼろげに知ることとなった。それまではつんぼ桟敷におかれていた。ラジオも新聞もメティアは軍部のちょうちん持ちばかりで一方的なウソ報道だけが流された、帰還兵士たちはめったなことはしゃべるなと教えられ、喋れば刑法にふれた。真実を語ることはタブーであった、うっかり語れば非国民であり重犯罪者になる。
政府や大メディアとかそうした少数に情報を握らせるとどれくらい危険かがわかる。「原発は安全」のような大本営発表的なもの。正確で迅速な情報などは権力次第の報道だけではきわめて危険である、小さな独立の情報発信元が無数に国境の内外にあることが市民にとっても一国にとってもいかに大切かがわかる、なかにはデマも不確かなものも、あるいは本当に有害なものもあろうが、しかしそれら情報を権力が取り締まるなどはとんでもない話である。取り締まってやろうなどと愚かにも、ここまで思い上がる権力はそのほうがきわめて危険であろう。
(24)に、

 〈 このような厳盛な言論・報道統制のもとでも中国戦線における日本軍の蛮行の一端は、風説などの形をとって口伝えに日本国内にも伝えられた。しかし、それにも、戦時または事変に際し「造言飛語」(デマ)をなした者は三年以下の禁錮に処するとした陸軍刑法第九九条、海軍刑法第一〇〇条が適用され、その取締りが励行されたのである。たとえば「戦地デハ日本ノ兵隊ガ三四人宛一緒ニ支那人ノ家ニ豚ヤ鶏ヲ掠奪ニ行キ或ハ支那ノ女ヲ強姦シテ居ル。捕虜ヲ五六人宛並べテ置イテ銃剣デ突殺シタコトモアル」と語った意村伊一、「日本軍モ中々乱暴ナコトヲスル。此ノ間支那カラ帰ッタ兵隊ノ話ヲ聞ケバ日本ノ兵隊ハ人ヲ殺シタコトガナイカラ殺シテ見ヨウト云ッテ支那ノ兵隊ハ固ヨリ土民等ヲ大変殺シテ廻ルソウダ」と語った田中清、「日本ノ新開紙上デハ支那ノ良民ヲ日本軍ガ可愛ガッテ居ル様ニ発表シテ居ルガソレハ陸軍報道部御手ノモノノ宣伝デアル」という講演をした西尾清三郎など、いずれも禁錮刑に処せられている。なお、禁錮刑に処せられたこれらの「造言飛語」事件のなかには南京事件に関する伝聞ではないかと思われるものがある。「上海附近ノ戦争ニ於テ我軍ハ支那兵的二万ヲ捕虜トシタルガ之ヲ全部機関銃ニテ射殺シ死体ハ揚子江ニ流シタ」と語った小林末造の事件、「日本兵ハ糧食ノ輸送ガ間ニ合ハズ数日引続キ食事ヲ取ラズ突撃シ又ハ生芋ヲ噛リテ戦闘ヲ続ケ其為アル時ノ如キハ揚子江岸ニテ捕虜一万二千名ニ対シ食糧ヲ供給スルコト能ハズシテ殴殺シタル由ナリ」と語った住徳蔵の事件がそれである(西ケ谷徹検事、『支那事変に関する造言飛語に就いて』)。
以上のように、当局による厳しい取締りの結果大多数の民衆は、中国戦線における日本軍の残虐行為の全体像を知りうる術を持たなかったのである。  〉 

国民は比較的美しい面だけに操作されたプロパカンダを見てそれが真実だと勘違いしていた。
そうしたウソの軍国日本をしのび当時の建物をみて「ロマンチックだなあ、ノスタルジーだなあ、郷土の誇りだなあ」などとトンチンカンを言う者も、どこかの町あたりではけっこういまだに多いとか。
現在でもそんなことだから、当時はさらにさらにひどいものであったと想像できる。
こんな話を書くといつも思い出すのが吉村昭氏の『戦艦武蔵』である。次のようにある。

 〈 小さな船で長崎の港口近くにある島の老いた漁師をたずねた。その漁師は、憲兵や警戒隊員の眼をぬすんで夜明け近い頃ひそかに雨戸のすき間から、巨大な鉄の建造物が海上を音もなく動いて行くのを目にしていた。日時から推定すると、それは、儀装も終った武蔵が呉へ回航するため長崎港を出港する折のことにちがいなかった。
話し終ってから、ふとその老人は、
「今の話は、だれにも言わないでくれ」
と、顔をこわばらせて言った。
私は、一瞬、その意味が分らなかったが、
「おれが話したなんて言うことがわかると、まずいから……」
と、重ねて言う老人のおびえた眼の光に、私は、漸く老人の言葉の意味が理解できた。
「でも、戦争は二十年前に終りましたし、別にどうということもありませんよ」
私は、苦笑しながら言った。
「いや、まずい、まずいよ」
漁師は、私に話をしたことを後悔するようにしきりと手をふった。  〉 
戦後20年も過ぎても、一般の人間にとっては当時の軍機にふれる話をすることは強い恐怖だったのである。見たことをそのまま話すことはマズイことであった。

(4)によれば、昭和62年に当時の日誌類を公表した東史郎氏など元20連隊兵士たちに対して電話や手紙が殺到したという。すさまじい↓

 〈 「おんどれら、軍人恩給もろてるやろ。国に伽をなすようなことを、しくさって……恩給を国に返せ!」。
「お前らみたいな兵隊ばっかしやから、日本は負けたんや……このアホめが」。
「あんた方は日本人ですか、それとも支那人(中共人)ですか……寝言をいっては極楽へ行ケマセンヨ。あんた方、日本人を売る売国奴の犬ですよ」。
「としの70歳にもなって、もっと考えて死にぎわを迎えよ!! バカヤロウ!!それでもお前は日本人か!!……日本中の笑い者で、死にやがれ!!」
「英霊を冒漬した罪は万死にあたいする。死ね!」
「お前の家に放火してやる」
「見知らぬ者が近寄れば注意肝要、家族も皆同じ」  〉 
いやがらせの手紙類写真(4)より。
おお、おそろしい、こんな脅迫・いやがらせの手紙・ハガキは50通を越したという→
東氏は丁寧に一枚一枚に返事を書いて送ったがすべて返ってきた。すべて匿名で住所もデタラメであった。

そんなことで私は手製の手投げ弾を隠し持ってます、警察の許可があります。見たいですか、ここにあります。と私に語った。私のロシア語の恩師はソ連の回し者だと首を切りつけられた。
世界遺産級と自賛する平和憲法の看板の下で、実際には今もこんなことが繰り返される超美しい国、文化的で先進的、人権が守られているといわれている国としては、世界でもごくごく希なご立派なハナシなのでは−
憲法が希求する世界平和の構築など夢のまた夢か


 「戦争に行く者は貧乏人ばかりだ。然るに戦争に行かない連中例えば三井、三菱、住友の様な資本家は軍需品を製造してどんどん儲けて居る」と授業中に、当然の真実を語った大阪・府立中学校の教師が、陸軍刑法違反で禁固四カ月の罪に問われる時代がはじまっていた。(5)は記している、昭和13年1月のことというが…
死ぬのは貧乏人、儲けるのは金持ち、これが昔も今も変わらぬ戦争の真実である。歴史の真相が言えなくなれば亡国がもうそこに近づいている。
いつの世もそうだが、まず貧乏人から犠牲にされる。

 原発でもそう、金持ちや会社トップなどは海外まで最初に避難する自分さえよければいいのである、貧乏人は安いカネで汚染現場で命がけの危険作業をし、危険がわかっていても人道的立場にたって避難もできずに危険区域で命をかけて仕事をする。
安全とウソ宣伝し危険なものを人家の近くに建設してきて事故対策をまともに立ててもいなかった国や産業界のトップクラスについてはせめて避難を禁じるべきではなかろうか、こんなものの避難までは公費でめんどうみることはなかろう。
若狭の原発労働者はいう、安全、安全言うてますけど、ホンマはまあ、あんなもんですわ、ああいうことですわ、人間がやることですからな。国から何か命令が出て、ワシらも福島へ行かんならんようになるんとちゃいますか、たぶんそうなりますな。
市民はいう、原発はすべて廃炉にせんとあきません、火力にせんと、それから電気を使わんようにせんと、夜でも昼間みたいにガンガンやってますやろ、ああいうことがアカンです。
人間のおごりは完璧に打ち砕かれた。食中毒でも何日か営業停止である、そんなことで少なくとも東電や経産省の解体は避けられまいが、真剣になってに今後の電源方針を根本的に立て直すべきであろう、安全無視で儲けたがマヤカシの「繁栄」はいつまでも続かない、破綻がきた。一朝事あれば、原発がいかに高くつくものかが理解できよう。東電で補償できるか、国民のゼーキンで尻を拭いてやることになるのでは…。安全で安価、大ウソであった。
原発は安全です、それかはじいて放射能が大量に漏れ始めた、そしてこのごろは放射能は安全です、まったく影響はないと言う。ええかげんな説明が多いが、食べ物の放射能は十分すぎるほど注意が必要、食べてすぐに体内から排出されるものもあれば、体内に取り込まれてからだの一部になるものもある。こうなるとからだの一部になってしまうわけで、放射性物質は何年にもわたって体内にあって放射線を出し続け、周囲の細胞を破壊する、これは極めて危険である。生物は放射能があるのかないのかは選別できない、体内に入ってきたものは、それとよく似た安全な元素と思い、あなたの筋肉や骨や何かになる。こうなれば体外へ排出されるのは何年も先になる。こうしたことも知らないような説明をする安全安全の連中の言う話など信用できるのか。政府や報道の確かな情報を聞いてどうかレーセーな対応を、だと、何をいまさらぬかしくさる、オマエらが信用できるのか、愚かにも信用していたからこうなったのだぞ、あまりにウソばかり言ってると、そのうちに国民の誰一人として国も電力会社もメディアも信用しなくなり、言うことをまったく聞かなくなることだろう。ええかげんにしとくがよいだろう。まだまだええかげんなモンが多すぎる。事態の深刻さわからないクソは事故原発に連れていきそこで作業させるといいだろう。
私らが小学生の頃はよく大気圏内の核実験が行われていた。放射能が飛んでくる、黒い雨が降るから決してそうした雨には当たらないようにと学校で注意され恐る恐る下校したことを思い出した。ラジオはこの核実験でまき散らされた放射性物質のために今後世界中でガンのため死亡する人は何万人になるだろうとか放送していた、まだラジオの時代だったが、何か大変な数字だった、正確には覚えていないが南京どころではなかったよう。500回を越えた核実験の放射線降下物は福島とは比べものにもならない量。ウソとマヤカシの平和と繁栄を象徴するような話である。
ヨウ素131の半減期は8日、ヨウ素133は20時間で早く消滅するが、セシウムやストロンチウムは30年ばかりある。体内に入れば筋肉や骨になる、ごく微量でもヤバイ。もう50年の昔の話であるが、あの頃の恐怖が甦ってくるような話である。3号炉のプロトニウムが漏れればその半減期は2万年以上になる。

 戦争に最初に行かされるだけではない、タマは貧乏人めがけて当たる、といわれた。(24)は、

 〈 戦争になると貧乏人から死んでいくという説は、私も信じることができる。敗戦間近、根こそぎ動員された時こそ、貧富も学歴も関係なく若者は死んでいった。だが、この十五年戦争の前半は、どうみても貧困な家庭ほど多く死ぬ傾向にあったことは否めない。…
貧乏人が先に死ぬ話は、正確にいえば、弾丸が貧しい者を選んで命中するのではなく、徴兵では貧困層からの徴集率が高いこと、それがそのまま前線に出るので、戦死者にも貧困家庭のものが多いという因果関係なのである。  〉 
満州事変、というか日中戦争の最初の戦死者は(24)によれば、


 〈 父は腎臓を患い、母は眼病で働けない。子供は一二歳の女の子を頭に幼児六人。大黒柱の長男新太郎が正月に徴兵にとられてからは、二年先の除隊を待ちわびながら救護を受けてやっとの暮しをしている有様だった。息子の戦死を知らされた母親は「枠や、なぜ死んでくれた。国のためでもあんまり早すぎた」と泣きくずれ、村人もただただ貰い泣きしているという。  〉 
戦争は社会格差を拡大再生産していく、ビンボーはよりビンボーに、金持ちはより金持ちに、である。ビンボー人の犠牲で戦争は行われる。もしビンボーな方がお読みならばご注意を!

 昭和60年「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」の大統領演説には60.000通の賛同の手紙が寄せられたという西ドイツと較べてみれば、われらの国は60年前に亡びた低国の亡霊がすむ不気味なありがたい神国。イメージ操作された歴史像の権力の総力あげた大昔のプロパカンダを無批判に受け入れそのままを信じて疑わない、科学技術が高度に発達した先進国国民と勝手に思い上がった迷惑千万な国だけはある。これでは何も反省がない国民と見られても仕方がない。アジアでうまくやっていくことなどはムリと思われるし、ましてアジア世界のリーダーなどには決してなれまいし、長く生き延びていくのすら難しい、明日の日本は真っ暗である。

「忘れることを欲するならば捕囚はながびく
救いの秘密は心に刻むことにこそ」

と、ユダヤの格言を同大統領は引いて説く。どこかの国の政治屋どもとは格がだんぜんに違っていて、まことに恥ずかしいワ。
真面目に誠実に努力してきた国と、ぜにもうけに呆け、ええかげんだった政治腐敗の国との、同じ40年間の結果の差。
ガンと頭を殴られたような、月とすっぽんにがくぜんとさせられ、エッ!と口を開いたまま二の句が継げない、カルチャー・ショックでも最大級のものか。
問題は大統領の格の差だけではあるまいということであろう、私も含めての一般市民や政治・行政マンの一般的な人間精神のあり方の彼我の落差がそのまま現れていると思われる。私にしても75年の昔の兵士たちととどれほどの進歩があるのだろうかと深く反省させられた。過去の話ではなく今の私の問題ではないのか。
このままではますます差を広げられ、当然にもわれらは三流以下となっていくことだろう、健全な精神なしに健全な国はありえず、人間の尊厳が尊重されない一流国はありえない、ゼニがあるというだけではどうにもなるまい(それすら怪しいが)。今後の40年以上の懸命の努力があれば何とか彼に追いつけるかの大差である。



 一般に日本人は戦争被害者なのだと考えていて、自分たちが加害者だったとは意識してはいなかった。そんなことは思い出したくもなかった、考えたくなかった。日本人は東洋鬼と呼ばれ、日本兵は日本鬼子と呼ばれていたことなどはスッカリ忘れた。被害と都合よいことだけを記憶に残して、悪いことはすっかり忘れ二度と思い出すこともない、勝手なものであった。喋る同胞は国賊、非国民、ワルモノでみんなで村八分にした。戦後でも警官が定期的に見回りにきた。権力あげてそうしたことであった。


無言の帰国
無言の帰国。日中戦争が始まって2年。大陸から主要都市「陥落」のニュースが飛び込むたび、列島各地で戦勝を祝うちょうちん行列が行われた。一方ではまた、戦死の知らせが相次いだ。「不安の時代」であった。いつ召集令状が来るか、いつ戦死の公報が舞い込むか。人々は内心不安におののきながら、「お国の為」に明るく振る舞った。北海道・江部乙(えべおつ)駅の駅頭で、父親の遺影を抱いて挨拶に立つ少年の胸の内はどんなだっただろうか。泣くことも許されない時代である。しばし写真の発する無言のメッセージに耳を傾けたい。(『朝日クロニクル20世紀』より)

↓(5)より。20連隊兵士もこんな姿で帰還。
福知山20連隊遺骨の帰還




軍国主義教育
軍国主義教育。(昭14)6月22日から3日間、大阪全市の小学校校長90人が奥津部隊の兵舎で第1回隊務実習講習を受講、重機関銃の射撃演習など、軍隊教育を身をもって体験した60歳を過ぎた校長もいたが、さすがに落伍者はいなかった(『朝日クロニクル20世紀』より)

1分あたり600発を発射するともいう九二式重機関銃(450発が公式らしい)。重機とかMGと呼ばれる。秒間10〜7.5発、最新カメラの連写速度以上、すごい性能。自衛隊でも使おうという話もあったとかの名銃。南京大虐殺の主役で、MG中隊は部隊の中でも「虐殺」中隊とささやかれていたとか(5)。小学校校長先生もこの銃で実戦訓練したという。熱心な狂育者らしく嬉しそう、楽しそう、ご本人は知らんととぼけて、戦後には教育関係の偉いさんとなられたのではなかろうか。
××市教委ならありがたいこととソンケーされるかも、日の丸掲げ、君が代歌い、軍事訓練を受けたいと願う校長が案外に多いかも−−

 しかしそれでもまったくなかったわけではない。元兵士たちは周囲の若者たちに自己の加害体験を語って聞かせた。偉そうに吹いている私などはよく捕まえられた、頼みもしないのに彼らは語った。
兵士同士の戦争の話ではなくたいていは住民虐殺のある日のシーンであった。あっちのおっちゃんもこっちのおっちゃんも語った。オマエらだけでも伝えておかねばならぬ、とでも考えたのかも知れない。
ちょっとだけで、どの戦線のことかはわからなかったが、わかるようにまとめると次のような話であったと思われる。

(10)より

 〈 歩兵第二十聯隊の移転

 一八九八(明治三十一)年八月三十日、それまで大阪城内におかれていた陸軍歩兵第二十聯隊が京都府福知山町(当時)に移転されました。その日の様子を『日出新聞』(現在の『京都新聞』の前身)は次のように報道しています。
   大坂より福知山新兵営へ移転の歩兵二十聯隊は既報のごとく…(略)…午前七時五十分福知山の   新営舎に着したり…(略)……沿道の村落各戸は何れも国旗球燈を吊し町村界には緑門(アーチの   こと:引用者注)を設け軍隊の到着を合図に…(略)…祝砲及煙火の打揚等あり…
 このような歓迎ぶりの背景には、軍隊の移転による地域「活性化」への期待がありました。
武将明智光秀によって開かれた城下町として栄えた歴史を持ちながらも、明治維新による廃藩置県で活気を失っていた福知山の住民は、陸軍の大部隊の移転による人口増加と経済効果を望んだのです。事実、その後二十年で、福知山の人口は二倍になりました。その意味で、舞鶴同様、福知山も軍と町の発展が不可分に結び付いた町といえます。

南京虐殺に参加した第二十聯隊

 当時の歩兵二十聯隊は陸軍第四師団に所属していましたが、一九二四(大正十四)年、京都伏見に司令部のあった陸軍第十六師団の管轄下に入りました。兵営には乙訓郡を含めた京都市より北の府下各地方から徴兵された多くの青年が集められ、戦場に送られていきました。一九三七(昭和十二)年には、歩兵第二十聯隊の兵士は南京攻略戦に参加、悪名高い南京大虐殺を引き起こします。
第三中隊の兵士として南京作戦に従軍していた兵士が陣中でメモした手帳にはその様子が赤裸々に記されています。
   …午前八時三十分隊は整列して城内の難民区のそうとう(掃討:引用者注)を行ったが、…(略)…約はい残兵らしきもの五百名ばかりより出した。中には連長とか、相当な支那の将校も居た。一ヵ小隊をもってはとても殺す事が出来ないので、第一機関銃より、機関銃二門をたのみ、なほ中隊の経(ママ)機六銃で、小銃兵全て集まり遠くの城へきの山ぎわに、はい残兵を全部集めて、経(ママ)機、重機の一声(ママ)射撃により全部射ち殺した、…  〉 


「敗残兵らしき者」ということであるが、この中には一般市民も多く含まれていた、それもかなりの割合で含まれていたようで無差別殺戮に近いものであったといわれる。



 戦犯たちの舞I声明

 一方「舞I声明」と呼ばれるものもあった。舞Iとも意外と関係の深い中国での侵略戦争の実相の証言であった。
何も南京だけに限られた話ではなかった。福知山20連隊だけの話でもなかったのである、至る所であった。一生懸命になって今も中国をこき下ろす者どもの下心が理解できるというもの、あれらの言うことなど信用できるかと予防線を張りたいのかもー

興安丸の前で声明を読む戦犯たち
↑ (11)より。

昭和31年7月3日。舞Iに入港した引揚船「興安丸」で、元BC級戦犯の第一陣、335名が中国から帰国した。
この時彼らが読み上げた帰国声明があった。
それは(11)によれば、


 〈 「愛する祖国日本と、なつかしい同胞の皆様」と題された約二三〇〇字の声明文には、元戦犯たちの過去への反省と被害者への謝罪とともに、日本国民へのメッセージがこめられている。

「私達は、心身一切を尽くして戦争をやり、その結果、日本戦争犯罪者としてソ同盟・中国を通じて一一年間拘留を受け、このたび、中華人民共和国政府の寛大政策により釈放され、只今帰ってまいりました。
 私達は今、ひとときだって忘れたことのなかった愛する祖国日本となつかしい同胞の皆さまの前に立っています。私たちは、今日のこの日をどんなに夢を描き、心待ちに待ちこがれたことでしょう!」
「私達は既に、取り返しのつかない罪行を犯しました。私達がこの手でやった戦争の結果は、中国の人々のみならず、日本国民の皆様の身の上にも、あのような戦火の苦痛と悲しみを与えました。私達は、人として生れ落ちたにも拘わらず、人として最も恥ずべき道を歩み、本当に前半生を踏み誤ってしまいました」
「今度こそ私達は真に祖国日本に忠誠を尽くし、真に親に孝行し、真に国民の皆様と共に信義を厚くし、皆様の教えを受け、平和と幸福のために、そして日中友好のために一生懸命働き、少しでも皆様のお役に立つよう後半生を捧げたいと思っております。
 しかし、何といっても私達は社会生活の経験もありません。一一年間拘留の私達の心情をお汲み取りくださって、何かにつけ何卒宜しくご指導、ご援助くださらんことをお願いして、帰国の挨拶といたします。」  〉 


この時のものと思われるが(9)には、


 〈 第十三次(昭31)引揚者(戦犯釈放者)の要求

 私たち三三五名の者は、戦争犯罪人として中国において拘留されておりましたが、今回寛大な赦免をうけて祖国日本に帰って参りました。もともと私たちは戦前においてそれぞれ工場や畠や海において、また或る者はペンを持って仕事をし、その日その日を平和に暮していました。日本は一九三一年九月十八日中国に対する戦争をはじめ、多くの国民が戦場に送られました。
 私たちもそれ以後の期間において、次々と政府の動員をうけ、日本の統帥者であった天皇の命によって、国のため、なつかしい親兄弟を残して職を捨て、学業を離れ、銃をもって中国に渡ったのであります。
 私たちは軍の命令を忠実に実行し、生命をかけて戦争を逐行し、中国人民に大きな災難をかけました。一部の者はまた現地において日本政府の命令と軍の命令をうけ、非国民にならないために戦争に協力し、直接間接この戦争を実行したのであります。一九四五年八月十五日私たちは天皇と軍の命令をうけ、停戦し耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶことを余儀なくされました。
 この時以来私たちは、中国とソ同盟に拘留され、一九五○年七月以降は、さらに全員が中国に拘留をうけることになりました。
 こうして私たちは皆数年間の惨酷な戦争の苦しみをなめ、またさらに十一年に及ぶ監禁生活を送らねばなりませんでした。戦争と監禁生活は私たちの青春を奪い、心と身体をいためつけました。私たちは長い間、親兄弟と会うことができず、肉親の悲しみを見てやることもできず、故郷の地で楽しく生活することもできませんでした。これは一人の人間にとってどんなに悲惨なことでしょう。これは皆戦争のもたらした結果であります。
 日本の政府は私たちを命令によって戦争に送りました。戦争はあくまで日本政府の責任であり、その結果の一切もまた当然日本の政府が責任を負うべきものであります。
 私たちは今日、懐しい祖・国へ帰って参りましたが、明日からどうして生活して行けばよいのかわかりません。何故なら大部分の人々は正当な仕事につく技術もなく、社会の経験もありませんし、その上私たちを頼りにしている家族を見てやらねばならないのです。こうした理由によって私たちは以下の項目を日本政府に提出し、速やかに実現されることを心から要求するものであります。
 一、特別要求
1 戦犯帰還者全員に対し、終戦時より帰還日までの特別戦犯帰還手当を一律支給して下さい。
2 全員に対して恩給を支給して下さい。
二、一般要求
3 全員に対し就職を保証し、それまでの生活費を支給して下さい。
4 戦争中及び拘留中における傷病に対して手当を支給すると共に、治るまでの治療、医療費を国家で負担して下さい。
5 各人に対して帰還手当を一律に支給して下さい。
6 帰郷旅費、乗車券、弁当代を無料で支給して下さい。
7 住宅の保証及び当面必要な生活必需品、応急家財等を無料で支給して下さい。
8 戦犯帰還者に対して三年間の無料診療を保証して下さい。
 私たちは日本の政府が戦争の責任を感じ、私たちのこの要求を当然受け入れて下されることと思います。 以上
  厚生省引揚援護局長  田辺繁雄殿
  舞I地方引揚援護局長 宇野末次郎殿
         昭和三十一年七月四日
       戦争犯罪人として中国において拘留をうけ今回赦免された帰還者一同
                   代  表 署  名  〉 



 元戦犯にしても元20連隊の兵士達にしても師団長にしても旅団長にしても、何も中国に洗脳されて、ありもしなかったデタラメを喋っているわけではない。超無責任な超腐敗した超非人間的アニマルどもの大勢によって実際に侵略戦争が行われ、無抵抗な住民に対する殺人、掠奪、強姦、等々の犯罪行為が無数にあった。
過去の犯罪を決して語りたがらないのであったが、彼らはそうした中からいち早く真人間に立ち返ったのである。どうした機会からそうした心境変化が生まれたのであろうか。
多くの人々が感心を寄せている。このまま黙っていたら、この国はヤバイのでは、…一般には特にそうしたものに押されてのことのように思われる。


 彼らの帰国直後の昭和32年2月加害の証言集『三光』が出版された。二十日間で初版5万部を売り尽くしたという。何度も増刷されたといい、私もそのカッパブックを高校生くらいの時だったと思うが本屋で立ち読みしたか、学校の図書館にあったか、何か目を通した記憶はある。
これには写真も多く載っていて「ギャー」と思った。「これか、ヒソヒソとウワサで聞いていたのは…」と。
もうムチャクチャである、いやしくも人間が人間に対してできることではなかった。何のため誰のため、天皇のためか、国のためか、ウソつけ、これは戦争行為ではない、目的が見えてないのはみえみえ、ヤケクソだ、負けているのだ、勝てそうにもないのだ。
本来戦争とは残虐なものであろう、だからこそ厳しい上にも厳しくそうならないように取り締まられなくとはなるまい、それが出来ないのなら戦争する能力すらないということであろう。
右翼などの妨害で絶版となるが、今は晩聲社から『完全版三光』として出版されている。
あまりのことにここに引くのも躊躇してしまう、もし読みたいのなら、古本で500円くらいからあるので、買って読んで下さい。(右欄にアマゾンのサーチボックスがあります)
(11)より

 〈 『三光』の出版
そのとき、彼らのその後の活動を決定づけたといっていい出来事が起きた。「日本人の中国における戦争犯罪の告白」と副題のつけられた証言集『三光』の出版である。一九五七年二月のことだ。「三光」とは中国語で「殺光(殺しつくす)・槍光(奪いつくす)・焼光(焼きつくす)」を表した言葉で、日本軍が展開した非人道的な作戦(「三光作戦」と呼ばれる)のことである。
 『三光』出版は、元戦犯たちが企画したものではない。戦犯管理所で彼らが書いた手記が、訪中した出版人、光文社社長の神吉晴夫の手に渡ったのが発端である。これらの手記を手に入れ、初めて読んだ時の神吉の感想が『三光』の前書きに出ている。恐らく、この本を読んだ読者に共通する思いであろう。
 「私は読みすすむうちに、あまりにも残虐です、無残です、なんど原稿を閉じてしまいたくなったか分かりません。いままでに私もいくらかは、戦争の無虐さについて話を聞いていました。しかし、ここに告白されているものの中には、想像を絶するものがあります。いくら戦争といっても、私たちの同胞が、こんなことまで、はたしてできるのだろうか。しかし残念ながら、これが事実なのです。私は「これが戦争なんだ!」と思いました。
日本にいるときは、平和な家庭にあっては、尊敬する父であり、優しい夫であり、仲のよい兄、たのもしい息子であったのです。それが、ひとたび戦争のルツボの中に放りこまれると、まるで別の人のようになって、虐殺、略奪、暴行、放火、毒ガス弾の使用など、ありとあらゆる悪業のかぎりを平然とやってのけている。(中略)
 −そのような非道なことを戦場でした男でも、また日本に帰り、平和な環境におかれると、いつのまにか知性と優しさを取りもどすのです。ここにいたって、私は戦争の恐ろしさをあらためて考え直したのです」
 それまで、東京裁判で南京事件が裁かれた際などに日本軍の戦争犯罪が問われたことはあったが、中国の個々の戦場で個々の将兵が行った戦争犯罪の事実が、それも加害の当事者によって告白されたのは、これが初めてのことだったといえよう。二〇日間で初版五万部を売りつくして増刷を重ねるなど、出版への反響は大きかった。市民が『三光』をテキストにして学習会を開くなどの取り組みもあった。  〉 



 南京事件について、東京裁判や南京裁判だけではなく、意外と早くから、わずかながら、その真相の一部が漏れていた、のではあった。
しかしいまだにこうした証言を抹殺しようとする美しき動きもあるという。→『季刊中帰連』






−参考資料−
渡辺夫婦にもらった資料『朝日新聞』(2008.5.23)

 〈 兵役拒否の心 独青年語る
「日本人、加害者意識見えぬ」
長崎の学生と交流
  〉 

 〈 
 徴兵制のあるドイツで「軍隊に入って人を苦しめるのはイヤ」と良心的兵役拒否を選び、代わりに長崎市で奉仕活動をしているロマン・バラバスさん(21)が22日、諌早市栄田町の長崎ウエスレヤン大学を訪れた。昨年9月に来日して初めて学生たちの前で思いを語り、交流を深めた。
 ドイツでは満18歳の男性に9カ月の兵役義務がある。だが、宗教や思想信条を理由に拒否、福祉施設や医療機関での奉仕活動に振り替えることが認められている。ロマーンさんも、長崎市西坂町の岡まさはる記念長崎平和資料館で受付や案内業務をしている。
 この日は「ドイツと日本で考える平和」と題し、ロマンさんが内村公義教授(68)と語り合う形式で、学生ら23人を前に特別講義を進めた。
 ロマンさんは、ドイツは戦争の加害責任を明確に認めで戦時中の強制収容所などの跡地を残し、教育でも受け継いでいると紹介。一方、日本では、原爆の被害者の声を地元でよく聞くが、中国の南京大虐殺などアジアの国々に対する加害責任を認めない人がまだ少なくないと来日後に知った。「日本人は被害者としていったいどう思っているのかが分からない」と話した。
 「原爆は絶対によくないと思う。でも、恨まれて、落とされるような何かを日本人がしたことはなかったのか。歴史を振り返り、事実を掘り起こすべきだ」と指摘した。
 自らの兵役拒否については「かつてドイツと敵対したロシア人を母、ドイツ人を父に待つ身としては『ドイツ人』としての愛国心より『人間』であるという思いが強い。戦争を知る祖母ら、家族のだれもが私の判断に反対しなかった」と語った。「欧州は統合を遂げた。兵役が安全を守るためのものなら、続ける必要はない」と言い切った。
 一方、「日本は毎年3万人が自殺し、市長が銃で撃たれた。子どもは虐待され、ホームレスも増えて格差は広がるばかり。これで平和だと言えますか」と、ロマンさんが学生たちに問いかける場面もあった。
 講義を聴いた国際交流学科2年の西口晶子さん(19)は「兵役を拒否するなんて特別な人かと思ったら、スケボー好きの普通の青年。私も彼の立場だったら兵役拒否するでしょうね」。同2年の川野幸司さん(19)は「戦争当時の日本のアジアへの加害責任については昨年の授業で学んだが、(戦後処理で異なる道を歩んだ)ドイツの人にはっきりと指摘されてびっくりした」と話していた。(加藤勝利)  〉 

『朝日新聞』(2009.12.24)


 〈 南京「大虐殺」で一致
死者数は今後の課題
日中共同研究報告書


 日中両政府が進めてきた有識者による初の日中歴史共同研究の報告書の内容が明らかになった。1937年の南京大虐殺は「大規模な虐殺行為」との認識では一致したが、犠牲者数は今後の研究課題とした。一方、日本の途上国援助(ODA)が中国の発展に貢献したと評価。共同研究の日中両座長は「相互理解を促進する第一歩」と位置づけている。
 報告書は「古代・中近世史」「近現代史」の2部構成で、同じテーマに関す各日中双方の論文を収録している。
 近現代史の「総論」によると、日中全面戦争の発端となった37年の蘆溝橋事件について、日本側は事件の「偶然性」を、中国側は事件発生の「必然性と計画性」を重視。毒ガス兵器の使用や市民への無差別爆撃など、日本軍の中国での侵略の傷跡が今も残っているとの考えで一致した。
 南京大虐殺については「大規模な虐殺行為であることを認めこれを討論した」と明記。ただ、規模、原因、背景などについては「深く追究する必要がある」とした。
 虐殺の規模をめぐっては、中国の大虐殺記念館が「30万人」と表示。日本の研究者の間では「数万〜20万人」などの諸説があり、虐殺そのものを否定する研究者もいる。
 日本政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」としつつも、犠牲者数について「諸説あり、政府として正しい数を認定することは困難」との見解を示している。
 戦後の歴史については、日中双方が、日本が新憲法のもとで平和国家として歩んだことを肯定的に評価。靖国神社参拝問題や日本の歴史教科書問題などについては、今後研究する必要があるとした。
 共同研究は、小泉純一郎首相(当時)が靖国神社を参拝し、日中関係が悪化したことを踏まえ、2006年10月に故錦涛国家主席と合意。日中それぞれ10人の有識者による委員会が設けられ、座長は日本側が北岡伸一・東大教授、中国側が歩平・社会科学院近代史研究所長が務めた。両政府は研究を継続することで合意している。(東岡徹)  〉 




(1)『南京事件』(笠原十九司・岩波新書・1997)
(2)『生きている兵隊』(石川達三・中公文庫・1999)
(3)『わが南京プラトーン』(東史郎・青木書店・1987)
(4)『隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1987)
(5)『続・隠された連隊史』(下里正樹・青木書店・1988)
(6)『中国の旅』(本多勝一・朝日文庫・1981)
(7)『南京への道』(本多勝一・朝日文庫・1989)
(8)『福知山連隊史』(編纂委員会・昭和50)
(9)『舞I地方引揚援護局史』(厚生省・昭和36)
(10)『京都の戦争遺跡をめぐる』(戦争展実行委・1991)
(11)『なぜ加害を語るのか』(熊谷伸一郎・岩波ブックレット)
(12)『新版南京大虐殺』(藤原彰・岩波ブックレット)
(13)『完全版 三光』(中帰連・晩聲社・1984)
(14)『蘆溝橋事件』(江口圭一・岩波ブックレット)
(15)『語りつぐ京都の戦争と平和』(戦争遺跡に平和を学ぶ京都の会・つむぎ出版・2010)
(16)『言葉の力』(ヴァィツゼッカー・岩波書店・2009)
(17)『土と兵隊・麦と兵隊』(火野葦平・新潮文庫)
(18)『満州事変から日中戦争へ』(加藤陽子・岩波新書)
(19)『国防婦人会』(藤井忠俊・岩波新書・1985)
(20)『南京事件の日々』(ミニー・ヴォーリトン・大月書店・1999)
(21)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二他・大月書店・1996)
(22)『銃後の社会史』(一ノ瀬俊也・吉川弘文館・2005)
(23)『草の根のファシズム』(吉見義明・東大出版部・1987)
(24)『天皇の軍隊と南京事件』(吉田裕・青木書店・1986)




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 福知山二十連隊と南京事件
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東史郎氏の「北支戡定戦日誌」
『地獄のDECEMBER-哀しみの南京− 』舞I公演



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