過去を忘れて、戦争へ行こう
引揚の歴史-3-
−概要−

引揚の概要
:上安時代(21.2〜21.8)


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引揚は敗戦の直後から、昭和33年の末まで(援護局閉局)続いた。ずいぶんと長い期間なので、便宜上いくつかに区切る。前期の占領軍の指揮監督通りの業務の時期と、後期の講和条約発効後の独立後に分けられる。引用は特にことわりのない限り『舞鶴地方援護局史』による。

 〈 ここに前期というのは、昭和二十一年一月当局が実際的に引揚援護業務を開始してから、平和条約の発効した昭和二十七年まで、進駐軍の監督下に業務を行なった六先余の期間である。  〉 

それでも長いので、前期の最初の時期・「上安時代」(21.2〜21.8)と呼ばれる時期のみをこのページでは取り上げる。敗戦後ほぼ1年後の頃までの歴史となる。

 〈 上安時代の業務実施要領
 昭和二十一年二月から同年八月初頭までの短小な期間で、釜山、上海、葫蘆島引揚を主として処理したが、この業務は将来のための試練となり、尊いものであった。この時期で特に想起することは、倉谷庁舎、 上安寮、 西舞鶴岸壁、平検疫所等、業務の要所が離隔して、業務の実施に非常な不便を感じたことである。昭和二十一年四月、引揚者援護実施要領を定め、同月の上海引揚からこれを実施した。
 この実施要領の要旨は
 (イ)一般邦人は揚陸に先き立ち、落着先方面別に編成換えする。
 (ロ)揚陸地点で通関事務と検疫の一部を行なう。
 (ハ)約二時間間隔の列車(七五○名塔載)により上安寮に送る。
 (ニ)上安寮では逐次残りの検疫業務、援護業務、復員業務を実施する。
 (ホ)翌日朝より送出、帰郷させる。
であって、その細部は第一三表のとおりであって、この時代にはまだ船毎の実施計画は作らなかった。また先きにも述べたとおり、揚陸は入港の翌日、または事情によっては、その以後となるのが通例であったから、事前準備を可能にしたが、上陸後二十四時間処理は、何としても時間不足であった。  〉 
倉谷庁舎

↑倉谷庁舎は、昔の舞鶴工廠倉谷工場で、倉谷車輌工場となり、今はキリン・ビバレッジと健康マヨネーズの工場がある所である。
「昭和20年9月28日引揚港に指定され、11月24日援護局の誕生が公布されたが、局の本庁舎が最終的に東舞鶴中田の平キャンプに落ち着くまでには西舞鶴で引揚者を受け入れた時代もあった。」のキャプションがある。
上は当時の本庁舎表門。


↓は上安寮。
上安寮は、昔の舞鶴工廠の工員寮、今の自動車学校のある一帯。
倉谷庁舎

上安寮

上安寮(舞鶴市上安)
↑↓平成22年になっても「上安寮」が1棟だけ残っている。上の地図で言えば第一か第二ではなかろうか。元々は舞鶴工廠の工員寮だったようで、それが引揚寮として使われ、今は地元の建設会社の所有のようで資材置き場の様子。当時の物は何も残ってはいないので保存されてはいかがか。舞鶴市長殿。
上安寮(舞鶴市上安)

↓天台寮。今老人ホームがある一帯。
天台寮



 〈 宿泊
1、寮の設備と収容力
引揚者の収容施設は窮屈な感を与えないためと抑留の悪夢を想起させないため「収容」という言葉を避け、寮と称していた。上安寮と森寮は旧海軍の工員宿舎であったため、中・小室により構成され畳敷であって宿泊所の形態を備えていたが、集団の行動には掌握、連絡に不便であった。平寮は旧海兵団の兵舎であって、集団起居の大室により構成されハンモック式の板敷であったから、当局の使用に当り畳敷に模様換えを行なったが、冬季冷寒で採暖に苦しんだ。各寮ともに木造二階建であって、別に共同の食堂、洗面洗濯所、浴場、炊事場、便所を附設していた。
 これらのうち、宿泊室として使用したものは第一七表および第五図の通りである。
 寝具は毛布だけであって、敷布、枕等は検疫病院以外は備え付けることができなかった。
 毛布は冬季一人六ないし八枚、その他の時季には、おおむね四枚を貸与し、蚊帳は所要数の不足していたことと構内のDDT消毒により蚊の発生が少なかったことにより使用することはなかった。
 冬季の採暖は、事務室以外では主として大火鉢によっていた。

配宿と宿泊日数
 配宿は一人の占有面積三平方米(一・五畳)を基準とし、引揚者の船内から作っていた編組をなるべく破壊しないよう、棟室を配当したが、平寮においてナホトカ引揚の最盛期には一引揚船の乗船者全部を一棟に収容する必要が生じ、一棟二千名以上を収容したこともあった。森寮は落付先未定者、孤児、無縁故者、沖縄・朝鮮等へ帰るための待機者など長期滞留者を主として収容し、宿泊人員も多くなかったから、世帯別または種別に個室を配当していた。
 宿泊日数は前にも述べたとおり、上安時代においては一泊であったが、この一泊も翌日送出を可能にするため上陸後の諸業務は繁忙を極め、余暇のできたものは就寝するという仮泊状態になることが多かった。
 平時代は、昭和二十一年十二月ナホトカ引揚の六泊、昭和二十二年二月大連引揚の四泊を経て、昭和二十二年四月
ナホトカ引揚以降はしばらく三泊を続けたが、引揚者の動向に基づく業務実施上の必要から昭和二十四年六月ナホトカ引揚以降再び四泊に延長された。
 この宿泊日数は原則であって、業務の必要上一部はこれ以上の滞在となり、また引揚人員の少ない場合は滞泊日数の縮減することを通例とした。特に、昭和二十四年ナホトカ引揚者中には連合国軍の行なう業務未了のため、相当多数のものが滞留し、長いものは二週間にも及ぶものも生じた。
勤務員
 上安、森、平の各寮には寮長を設け、その各棟には寮主任以下の職員を配置し、宿泊者の生活指導、物品の管守、清潔保持等に当らせた。
 各棟勤務員は主任以下上安寮では十四名、平寮では七名を充て、その内の一ないし二名は女子職員であり、主として保母的役割に当ることとした。
寮生活
 前述のとおり業務実施上の必要からは日課時限と業務実施予定を指定したが、その他は引揚者の自治を主義とし、食事の受領分配始未、居室内の掃除、業務場への出退等は引揚梯団組織の自主的活動を求めた。
 この時期には、出迎え家族の局内での面会、外来者の寮内立入り等が認められていなかったから、寮内は比較的閑静であり、引揚者は業務に出場する時間以外は横臥、仮眠をしたり、理髪、通信、身辺の整理などを行なう多少の時間があったようであるが、出迎え家族とさえ面接できないことは、何としても外部との隔絶感を与え、肉親の鶴首待望の情を断ち、ややもすれば抑留の悪夢を追想さすこととなったようで、まことに遺憾であった。
 ここに引揚梯団の組織を例示すれば、次のようである。

入浴
 入浴は上安寮、平寮ともに共同浴場を使用し、上安時代は上陸日一回、平時代は上陸日と送出前日の二回入浴させた。設備は上安寮では一回百人用三カ所、森寮では一回百人用一カ所、平寮では一回三百人用二カ所を持っていた。
給食
 引揚者中の一般邦人は、終戦とともにその生活の根拠を失ったことによって、その多くは飢餓線上を彷徨し、栄養失調の状態にあったことは巻頭に掲げた写真の内の引揚者の姿によっても明らかである。また捕虜となった軍官民の多くは、シベリア等の収容所に抑留され、その国の経済的な逼迫等のため十分な給養を与えられず、かつ激しい労働によりこれまた想像を絶する苦難な食事情にあった。昭和二十四年ごろになって、各方面とも逐次治安と経済が回復にむかい、不十分ながら職を得たり、待遇の改善される等により、その食生活にも安定に向う曙光を見るようになったと聞かされている。このような状態にあった人々の接待であるから、その給食には、特に、意を用いられたのであるが、内地もまた終戦後の数年は物資の不足のときであって、不本意ながら満足すべき状態ではなかった。それでも一般配給量以上の主食を準備し、数次にわたる改善により、昭和二十三年には二千四百カロリー、昭和二十四年には三千カロリー級の給食が可能となり、引揚者から感謝された。これらの給食状態の推移を概述すれば第一九表および第二○表のとおりである。  〉 


援護局の当初の業務は次のようなことであったという。


 〈 援護局の開設後
 昭和二十一年一月に至って援護局の態勢ようやく整い、その業務を開始した。
 当局はソ連軍管理地域の引揚者受入を主任務としたため、ソ連と満洲からの引揚者の処理が主体となり、昭和二十五年函館、佐世保両引揚援護局の閉局以後は、唯一の引揚援護局として残り、全引揚受入を担当したが、時すでに中国を除いて引揚対象となるものが少数となっていたから、その他の地域からのものの受入処理数は多くはなかった。
(イ)昭和二十一年
 この年の業務は、朝鮮人と中国人の送還と南鮮、中国からの引揚者の受入及びはなはだしくおくれていたソ連からの引揚開始に伴う受入であった。朝鮮人の収容は、伊佐津寮の狭隘から、一月、上安寮に変更し、三月さらに平寮に移転した。そして送還は五月四日の間宮丸をもって終止した。五月、中国人の送還を指令され、五月九日から集合を開始し、天台寮に収容して業務を行なったが、予定人員七四四名に対し、わずかに一二一名を上海に向け送還しただけで、五月十六日、海防艦一五八号の出港をもって終了した。南鮮引揚は、朝鮮人送還の帰路に行なわれたものであって、二、三、四月の各月各一隻の入港があった。中国引揚は、四月上海から五隻、六、七月葫蘆島から四十三隻の入港があり、各船二千五百乃至三千名を乗せていたのと、連日入港し、はなはだしいときは一日四隻の入港があり業務は繁忙をきわめた。これらの引揚者は西舞鶴埠頭に揚陸し、鉄道輸送により上安寮に収容し、上陸後二十四時間以内に処理帰郷させた。
 ソ連引揚は、平地区において行なわれた。十二月八日ナホトカから、第一船の大久丸、恵山丸が相ついで入港したから、平に揚陸し、平寮に収容し、六泊七日で処理した。三月十六日連合国軍最高司令部は引揚に関する基本指令を発令して、従来の引揚指令を統合指示し、政府のこれに基づく施策も逐次発令され、業務一般は格段の整頓強化を見るに至った。この年みぎのほか沖縄(石垣島)から二月に六名の引揚者が上陸した。
 以上により年間処理数は受入五四隻一三三、八一三名、送還二九隻一五、三九三名であった。  〉 



(参考)
20.12.1〜21.8.13
この時期の舞鶴地方援護局の年表
不適当かと思われる表現もあるが、そのままです。
年・月・日 主要事項 参考記事
20.12.1 ○舞観海軍復員収容部を舞鶴上陸地連絡所と、山陰上陸地支局を舞鶴上陸地支局と改称
12.6  ○八田次長着任
12.8  ○伊佐津寮を朝鮮人収容寮に変更 ○朝鮮人連盟舞鶴支部、伊佐津寮内に事務所設置
12.12 ○本省において地方引湯援護局次長会議
12.14  ○函館、大竹両引揚援護局設置
12.22 ○鮮人送還について協議会(局内)
○検疫所長に村上哲任命
12.26 ○引揚者受入連絡協議会(局内) ○戦災援護会、引揚者に弔慰金出産見舞金一件五十円と決定
12.29 ○舞鶴引揚援護局分課組織を定める
12.30 ○第二復員部長松原滝三郎任命  ○同胞援護会、引揚者援護金一件百円に決定
21.1.10   ○宇品引揚援護局設置、大竹を出張所とする
1.11  ○総務部長楢原由之任命
1.12 ○軍艦長鯨釜山へ出港(930名)
1.18 ○米船209隻貸与に基く各省協定
1.19 ○引揚者援護用物資調達協議会(局内)
1.21 ○大瑞丸、釜山へ出港(2556名)
1.22 ○伊佐津寮に代へ上安寮使用決定
1.25 ○業務部長打尾忠治任命
1.28 ○海防艦85号釜山へ出港(242名)
1.29 ○人事、食糧、資材、施設について協議会(局内)
2.1 ○軍人恩給廃止勅令
2.4 ○旧軍艦保高、釜山へ出港(275名) ○国共停戦協定妥結
2.5 ○一万名収容調査について社会局長電報
2.7 ○長江丸、釜山へ出港(258名) ○輸送力増強に伴う受入態勢強化決定(次官会議)
2.8 ○第一復員部長西川正行任命
2.9 ○中部復員監来局
2.13 ○開庁式挙行
2.15 ○引揚証明書様式の統一施行
〇長江丸、釜山へ出港(491名)
○鮮人滞寮間の共同炊事開始(上安寮)
○追放令該当者の活動禁止指令
2.18 ○旧軍艦長鯨沖縄より入港(6名)(石垣島)
2.20 ○五十万人受入物資検討会議(局内) ○北鮮人民政府樹立
2.21 ○間宮丸、釜山へ出港(857名) ○田辺、唐津、別府引揚援護局設置
2.22 ○村上検疫所長退任−−上山重煕任命
2.24 ○長江丸、釜山出港(416名) ○国共満洲で再衝突
2.27 ○間宮丸、釜山より入港(8名)
○SS7号釜山出港(518名)
3.2 ○間宮丸、釜山へ出港(866名)
3.5 ○長江丸、同右(457名)
3.6 ○旧駆逐艦樺、同右 (434名)
3.9 ○庁舎平へ移転開始
3.11 ○引揚邦人は西舞鶴、送還朝鮮人は平地区において処理指令
3.13 ○医療課を業務部から検疫所に移す ○厚生省に引揚援護院設置
○非日本人の登録令公布
3.14 ○旧軍艦長鯨、釜山へ出港(700名)
3.15 ○ソ軍奉天撤退
3.16 ○渉外連絡室設置
○間宮丸釜山へ出港(480名)
○引揚に関する基本指令
3.19 ○北鮮本籍鮮人の引揚中止指令
3.20 ○職員腕章及び名票佩用決定
○引揚業務は西舞鶴地区送還業務は平地区において実施方指令(現地派遣軍)
○SS114号、釜山へ出港(333名)
3.21 ○間宮丸、釜山より入港(46名)
3.23 ○西舞鶴駅前休憩所開設
3.24 ○間宮丸、釜山へ出港(767名)
3.26 〇旧駆逐艦槙、釜山へ出航(361名) ○名古屋引揚援護局設置
〇別府引揚援護局廃止
3.27 ○協力団体との協議会(局内)
3.29 ○長江丸、釜山へ出港(500名)
3.30 ○泰北丸、釜山へ出港(446名) ○三月末現在職員921名
4.1 ○倉谷分室設置
○国立舞鶴病院に分室設置
○引揚者帰郷食糧支給基準決定
4.4 ○間宮丸、釜山へ出港(468名) ○総司令部マレー大佐一行視察
4.6 ○上安寮に検疫所分所設置
○引揚業務関係官公署と打合会(局内)
4.8 ○朝輝丸、釜山へ出港(401名)
4.12 ○引揚業務予行演習実施
4.13 ○朝輝丸、釜山より入港(408名)
○引揚者支給物資決定(毛布外九点)
4.14 ○ソ軍長春撤退
4.16 ○V39号、上海より入港(3273名)
○泰北丸、釜山へ出港(613名)
○船舶乗組員配乗の件示達 (一復七四七号)
4.20 ○間宮丸、同右(277名) ○中共軍長春占拠
4.21 ○V97号、上海より入港(3322名)
4.22 ○V100号、上海より入港(3333名) ○幣原内閣辞職
4.24 ○朝輝丸、釜山へ出港(558名)
○長江丸、同右 (490名)
○朝鮮人送還は博多、仙崎処理となる
4.25 ○定着地援護要綱(次官会議決定)
4.27 ○V2号、上海より入港(3802名)
4.28 ○V99号、同右 (3134名)仮痘発生隔離
○旧軍艦占守、釜山へ出港(255名)
4.30 ○現地進駐軍の指令により鮮人収容者を一時的に天台寮に移す
5.1 ○中共、長春に新政府樹立
5.3 ○東京裁判開廷
5.4 ○間宮丸、釜山へ出港(323名)
5.7 ○引揚に関する基本指令第一次修正
5.9 ○送還中国人集結開始(天台寮)
5.10 ○舞鶴引揚援護局業務連絡委員会発足
○引揚者応急援護金支給要項決定(援護院発業二三一号)
○国府米軍間在満邦人送還協定成立
5.14 ○旧駆逐艦樺、上海へ出港(116名) ○葫蘆島引揚開始
5.16 ○海防艦158号、同右 (5名)
5.17 ○本庁舎を倉谷に移す
5.18 ○送出課廃止
5.20 ○米軍フオード少将検疫所視察
5.22 ○吉田内閣成立
5.23 ○国府軍長春占拠
5.24 ○舞鶴市民に対する引揚啓蒙講演旬間開幕
5.26 ○皇后陛下より引揚者への御下賜品伝達式
5.28 ○ソ連引揚について米ソ交渉開始
6.3 ○斉藤引揚援護院長官視察
6.4 ○引揚婦人特殊救護の打合せ会(局内)
6.5 ○V74号、葫蘆島より入港(3474名)
6.6 ○V7号、同右(3492名)
6.7 ○V82号、同右 (3143名)発疹チブス隔離
○留守宅通信取扱い通知
6.15 ○復員庁官制公布
6.20 ○内部機構一部改正(資材、施設、収容の三課廃止食糧課を物資課と改めた)
○V74号、葫蘆島より入港(3545名)
6.22 ○V71号、葫蘆島より入港(2490名)
6.26 ○V53号、同右(2475名)
6.27 ○V57号、同右 (2489名)発疹チブス隔離
6.28 ○V28号、同右(2492名)
○V82号、同右(2425名)
6.29 ○V61号、同右(2499名)
○V92号、同右(2479名)
6.30 ○V69号、同右(2492名)
○機構改正に伴う職員整理(324名)
○新機構人員1072名
7.1 〇V86号、葫蘆島より入港(2503名)
○V45号、同右(2504名)
7.2 ○V100号、同右 (2498名) ○艦船乗組員一般邦人指導の件(一復87号)
7.3 ○V2号、葫蘆島より入港 (2490名)
7.4 ○V74号、同右(2495名)
○V37号、同右(2497名)
○フィリッピン共和国独立宣言
7.5 ○V44号、同右(2496名)
7.6 ○V70号、同右(2506名)
○V24号、同右(2508名)
7.10 ○V28八号、同右(2507名)
7.13 ○V27七号、同右(2534名)
○V17号、同右(2506名)
7.15 ○V76号、同右 (2525名)
○V92号、同右 (2538名)
7.16 ○V53号、同右 (2513名)
7.17 ○V86号、同右 (2559名)
○V69号、葫蘆島より入港(2535名)
○第二回業務連絡委員会(局内)
7.18 ○V82号、葫蘆島より入港(2489名)
○V29号、同右(2529名)
7.21 ○V74号、同右 (2553名)
○V37号、同右(2568名)
○V68号、同右 (2501名)
○V100号、同右 (2515名)
○高松宮殿下視察
7.22 ○V61号、同右 (2458名)
○引揚援護局史編さん要領(発庶五八七号)
7.23 ○V2号、葫蘆島より入港 (2541名)
○V44号、同右(2542名)
○V70号、同右(2514名)
7.24 ○V24号、葫蘆島より入港(2494名)
7.25 ○V八月以降無活動状態に入ると指令(最高司令部)
7.26 ○V57号、葫蘆島より入港(2581名)
7.27 ○V27号、同右(2485名)したれどもコレラ発生中につき28日佐世保に回航
7.29 ○V76号、葫蘆島より入港(2505五名)コレラの疑念ありとして隔離、天台寮に停留二週間
7.31 ○引揚船との通信連絡打合せ会
8.10 ○本院水野物資課長連絡来局
8.13 ○貸与引揚船五十五隻返還決定


この時期までで、民間人はだいたい引揚は終了で、あと、この年の年末からは旧ソ連からの旧陸軍兵士たちの引揚げ(復員)になる。





上安寮の取り壊し

舞鶴のあちこちあった引揚施設の取り壊しは続いて、最後まで唯一残っていた歴史の証人「上安引揚寮」もとうとう取り壊されることとなったという。老朽化はげしくいよいよ解体やむを得ずの状況になった、誠に心苦しいが、ついて最後の姿を見ておいてもらえたらと現地で見学説明会をもち当時を知る人から話も聞く、というので出かけてみた。(所有者の工務店からの知らせが新聞などで報道された。引き揚げのまちと大宣伝する舞鶴市はメールすら送っては来なかった、戦後70年の折り目の年を前に、どちらを向かれておられるのであろうかのぉ、東京の方しか見てないのか、本来ならば「東京の方」がきっちりと保存をしなければならない筋合いの建物である、それれをまったくしない東京などを見ててもよくはならんぞ。口先の宣伝ばかりでなく、しっかり足元を見て、まずはご当人がしっかりされること、そして会社で言えば専務クラストップにしっかりしたのを据えらること、そうでなければどうにもなるまい。平26.12.26)
旧上安寮
残っているのはこの部分だけ↑であるが、本当はこの建物はもっとずっと長いものであったという、写真で言えば左側へ同じくらいの建物が続いていたらしい。それの東側の半分くらいだけが残されたものか、それとも旧寮を模して後に新たに建てられたものか、不明という。後にいろいろいろいろと改築が加えられていて、どれがどの時代の物か、どこがオリジナルなのかもよくわからない状態のようである。
昭和30年頃の様子↓。附近の人の写真という、自動車学校時代のもので、バイクの試験か、そのうしろに見えるのがこの寮のようだが、確かに今よりもずっと長い建物のように見える。(屋根の姿から途中で切れていて繋がっていない2棟の建物ののようにも見える、奥側が今残っている建物と思われる。ワタシがバイクの試験をここで受けた頃(昭41)もこうしたスクーターであった、下は鋪装されていて、今のコースであったと記憶する、こうした建物があったは記憶にない、アレここにも平の引揚援護局のような建物がある、と思ったようにも記憶するが、確かな記憶ではない。)
上安寮旧風景
元々は舞鶴海軍工廠の工員寮で、他県から徴用された二十歳前後の若い工員たちが12畳に12名が詰め込まれていた。食べ物のない時代で、カボチャばかりを食べさせられた、附近の畑から作物をシッケイしたり、休日となれば朝一番に走って真名井通りまで食料買い出しに行った、遅れればすでになかったという。
こうした建物が13棟建てられたが、上の地図で言えば若い番号ほど早く建ち、早い建物ほどデキは良かったという。

いつの時代か不明、上安寮全景が記録されている航空写真↑

その後に民間人の引揚寮として使われたが、有名な「平の桟橋」の平の援護局引揚寮に移るまでの終戦直後から2年もないほどの短い期間であった(昭22.6閉庁)。最初は釜山から後は葫蘆島からの引揚者が多かった。しかし引き揚げてきても行き先のない人達はその後もここに住み続けていたという。着の身着のままで引き揚げてきた人達ばかりであった。ここに住んでいた同級生の部屋に入れてもらうとそこには何もなかった、タンスなど家具一つなかった、石炭箱のようなものを机に友は勉強していた、ただどこも綺麗に掃除されていて、みなが大家族のように仲がよく、強い、温かいという印象だったという。
上安引揚寮
内部。一階は建設資材などが置かれていて当時の様子はほとんどない。↑
上安引揚寮
階段を登る↑これは雰囲気的には当時のものでなかろうか(建物の一番西側)。
ニ階は当時の部屋割を残して、真ん中に廊下、その左右に14畳の畳敷きの部屋が割り付けられていたようだが、後にオフィスになっていたものか、こんな様子。↓(近代オフィスにリフォームされすぎだか。期待した寮時代の様子はとどめていない)

部屋の中↓
上安引揚寮
畳敷きはすでになく、床は南洋材になっているが、所々雨漏りによって天井は腐り大きなアナがあき、それがさらに床を腐らせて階下までアナが開いている。
上安引揚寮
14畳敷の部屋であろうか、ここにだいたい10名が割当られた、上安寮は全体で4000名が収容できた。難民収容所とかは呼ばないで寮と呼ぶことにした、大陸での収容所暮らしを想起させないためという。寝具は毛布だけで、敷布、枕等備え付けることができなかった。毛布は冬季一人6〜8枚、その他の時季には、おおむね4枚を貸与し、蚊帳は所要数の不足していたことと構内のDDT消毒により蚊の発生が少なかったことにより使用することはなかった。冬季の暖房は大火鉢によっていたという。上安寮には千人用の炊事場3箇所あった、一つは地図によればこの寮の東側にあったようなのだが、どう見てもそれだけの大きなスペースがない、ホワイであるが、饑餓線上をさまよってきた栄養失調の衰弱した人達ばかりであったから、給食はずいぶんと気をつかったというが、当時の一般配給量より少しよい程度のものを提供したという、この頃はだいたい米400グラムでのちに米麦73の割合となり若干増える、わらびやぜんまい大根入りの味噌汁、漬物 鰊や鯖くらいで2000カロリーくらい。基礎代謝を少し上回る程度であろうか。誠に申し訳もないが、国内も何もなく皆が飢えていたのである。海軍カレーや肉じゃがでなく、舞鶴はその歴史からこれを復原した方がよかろう。昭和21年の引揚者給食献立が残っている。
朝食 飯    内地米一三三g
    味噌汁 菜四○g、青ねぎ二○g、乾わらび三○g、煮干五g、味噌四○g
    漬物  沢庵四○g
    茶    四g
昼食 飯    内地米一三三g
    油煮   干鰊八○g、大根五○g、人参四○g、午ぼう四○g、乾ぜんまい三○g、油○・○○五リットル、醤油○・○一リットル、塩三g
夕食 飯     内地米一三四g
    煮込   鯖一○○g、大根五○g、人参三○g、玉ねぎ四○g、青ねぎ三○g、醤油○・○一リットル、塩三g
    浸し   ほうれん草四○g、醤油○・○二リットル

大陸から西舞鶴港に着くと船中で一泊、遺骨、遺族、要入院患者、一般邦人、復員者の順で下船。ここでも兵隊さんは一番あとである。全員を埠頭の倉庫に収容し40名ほどの班分けをして、税関検査、服の必要な者の判別と引揚証交付、荷物などDDT消毒、持ち帰り金、証券、証書の申告預託。荷物の託送。その後遺骨・遺骸はトラックで上安寮へ送り、患者はバスで国病に送られ、そのほかは西舞鶴駅より上安まで列車に乗った、1列車無蓋15輌編成750名が乗った。上安寮につくと、検疫(検診−入浴−種痘接種−DDT消毒)、引揚・復員手続きであった。民間邦人の手続きは、引揚証明証をもらい、持帰った金を日本円と兌換、故郷までの乗車券と応急の援護物資、携行食を貰った。兵隊はそれに復員手続きがあった。身上相談や困窮者には金も交付された。上安寮で1泊して翌日は徒歩で西舞鶴駅に向かった(荷物や老弱者は車で送った)、西舞鶴駅には1000名収容の待合室が作られ、湯茶など提供されたという、臨時列車もあったし、普通列車でもよかった。孤児など落ち着き先のない者は森寮へ収容替えをした。一時援護金というのが貰えたという、20年10月からは一人30円、21年1月からは100円になったという(このころはピース10本入りが7円。物価上昇がはげしく時期がすこし違えば価格はずいぶんと違う)。
引揚者は21年だけでもその数は13万余であったという。逆に大陸へ帰って行った人は1万5千という。一日あたり3500名にもなり、それは超大変な業務であったろうと想像できる。
(将来にもこうした「民族大移動」事態が発生するとするなら原発だろう。もし事故の規模が大きければ人数はさらにさらに多く、移動期間はずっと短い。引揚げではなく、日本から日本への移住と、日本から海外への数千万の大移住となるが、そのための中間居住施設が数限りなく多く必要になる。「上安寮」的な建物を数限りなく建てまくって心して備えねばならないが、誰もそうした対策を建てない。大地震大津波などへの備えも数千万避難の計画も立てず、これが原発の泣き所で、大事故の場合は計画すら立たないのだが、それは黙っていて、××陛下バンザイで敗戦を想定しなかった旧軍部政府と同じで関電さんバンザイ、そんな事故なんかあるワケないでしょう、しかし日本は1年に数センチはヒズミを貯め続けていてやがてはバンザイである、そして再稼働などと口走る、超科学的な超無責任な超アホ国家になってしまっている、「上安寮」が何千倍にもなって繰り返される未来へ向けてつき進んでいる。
10〜20%ばかりは、などというエネルギーの「ジャストミックス」論などというあきれたノーテンキドアホ人間のムリして作ったクソリクツなどは原発の安全とは何も関係はなく、はぐらかせ目的のヤシ謀略論である。日本にはジャストミックスは成立しない、3.11が教えたところではないか。まじめな論議ができないなら退場しろ)
上安引揚寮
外から見るのがまだしも当時の様子をしのべるよう。

もう70年も昔のことで、当時二十歳であっても今はもう90歳である、ここの子ども達と同級生(余内小や城北中)だったり、算盤を教えたという当地の人達が当時を語った。その子どもたちと言うのは年齢から考えても、大陸から連れて帰った子(大陸の子)ではない、引き揚げてからのちにここで生まれた子と思われる。いま元気な者にとしてはその時代にまで下ってくることになる。
その後上安寮は地元繊維会社が一部を購入し(たぶん1〜3棟)、工場や事務所など、ワープロ教室もあったという、そうしたものとして使っていたが、その後今の所有者である工務店が購入し資材置場に使って今に至っているという。
工務店の若い専務さんだが、トシに似合わずこの建物の歴史的価値をしっかり理解しておられ、受け継いだ者としてその責任の重さもよく知っておられる様子、舞鶴人とはこうあって欲しいような人で、その倍も生きてきた年寄りが我が身恥ずかしいような、こんな若い人もいるのかと嬉しいようなことであった。取り壊したあとはそうした当地の歴史にふさわしいような住宅地にしたいという。


引揚寮はもともとは舞鶴海軍工廠の工員独身寮であった。工員寮時代の写真が『舞廠造機部の昭和史』に掲載されていたので勝手に引かせてもらう。
どこにあった工員寮なのかは不明だが、上安寮とも似ているのではなかろうか。






『京都新聞』2015.2.24投書欄
苛酷だった徴用工生活  右京区・前田 三郎(無職・90)
 舞鶴の旧海軍工場の宿舎「上安寮」が解体されるという。私が徴用されたのは1941(昭和16)年11月だった。当時、上安宿舎は建築中で、各地からの徴用工は高浜町の民家に千人からが宿泊し、上安宿舎が建つまでは特別列車で舞鶴海軍工廠に通っていた。
 冬の舞鶴は雪が毎日のように降り寒かった。上安の宿舎に移ったのは1942(昭和17)年1月。宿舎の生活は畳1枚に1人の割で、規律は厳しく、朝は5時5分前に海軍式の「総員起し」の笛が廊下に響く。それから1時間で朝食などを済ませ、6時に一団になり歩いて工廠へ向かい、始業は7時だった。当時、バスはなく、行き帰り歩いて50分の通勤だった。
 徴用工の元の職業は店員などで、16歳から18歳の若者だった。宿舎も街も娯楽はなく食べるだけが楽しみだった。食事は一膳飯でおかずはイワシが多かった。いつも空腹でがつがつしていた。工廠の定時は4時45分で、仕事を終え中舞鶴の街の食料品店を横目で見ながら空腹を抱えて宿舎に帰る。7時の夕食はいつも期待外れだった。9時の消灯で京都の思い思いの話も中断し布団を頭までかぶって寝た。部屋に暖房はなかった。
 国民が二度とこのような体験をしないよう、政治を見守る努力をしたい。





手記
この時期の民間引揚者の手記は意外と多く残されている。現在の当市は、口先だけ「温かく迎えました」、実際は彼ら無視しているが、かつてはそうではなかったようである。
市発行の(厳密には実行委発行だが)『私の海外引き揚げ』には、実際紹介できほどに多数の掲載がある。

引揚げの思い出
   京都市山科区…
           …
昭和二十一年七月、中風で寝たきりの主人の父(七十五才ぐらいだったと思ふ)と兄夫婦の三人一組と、私たち夫婦と子供二人、主人の母(八十四才だったと思ふ)の五人一組で引揚げる事になり、中風の父は、兄と主人がタンカにのせて、私は一歳半の男の子を前にくヽりつけ、六才の女の子と母の手を引いて、おむつと食糧が少し入ったリュックサックを背負い、近所の人とならんで駅に行くのです。
その姿を想像して下さい。どんな苦労も出来ると思う。その時は涙もでなかったが、今思いだし書いていると涙が出てとまらない……。みんなかわいそうで、ごほんたいたまヽで、家を釘づけにして出た時のことが何時までも忘れられない。鞍山駅で兄たちと別れた。病人づれは客車で、私らは貨車で、その中へ多ぜいの人間が、われ先にと乗り込む、年より、子供、荷物、ふと気付くと主人の姿が見えない、青くなったのを忘れる事はない。何日かか、つてコロ島についた。
雨もふり、トイレもない。貨車が止った時に下におりて、人が見ていようが見ていまいが、かまっていられない。私は子供に乳のましていたから生理なくてよかったが、生理になった人はどんなに困った事だろう。満人の機関手にみんなで金をやり、貨車を出してもらい、八路軍の兵隊も貨車にお金取りにのり込み金とられたり…。命からがらコロ島につき、満鉄の社宅に入れてもらう。畳もぼろぼろ、足ものばしてねられない。大人も子供も足をちゞめてねた。着のみきのまヽ、船にのるまで食物をどんなにしていたのか、米買ってたいてたべていたのか、生きるのに夢中であまり覚えがない。いよいよ、アメリカのリバティ貨物船にみんなわれ先に乗り込み場所の取り合い。寝たぎりの父はアメリカ軍が病院へつれて行って殺した、船の上から毛布に包んで海へすてたそうである。私らの船でも死んだ人は皆海にすてられた。仕様のない時代でした。
母も動けなくなり、おむつに大小便をとり、甲板に上って洗濯するのです。大きなホースで海水が甲板に引いてあり、食器を洗ふ人、洗濯する人、そんな中でくさい大便を海へすて、母と子供二人分のおむつの洗濯する。おむつをとられて悲しい思いもしました。
いよいよ舞鶴につき喜んでいたらコレラが出てなん日かおりられなくなり、甲板に男も女もおしりを出してうしろ向きになり肛門のけんさです。はづかしいもなにもない人間ぎりぎりの状態……。その時私三十一才でした。いよいよ上陸、又、子供を前にくヽりつけ、女の子の手引いて、母は主人が背負い、桟橋渡って、収容所で頭から消毒され、一人千円お金交替してもらい、それぞれの国へかへるのです。お金持ってない人に千円あづけて交替してもらい、五百円づヽにしてどこの人か知らない…。
四十年も前の事、男も女も苦しく悲しい時代だったが、昨日の事の様にあざやかに思い出す。なつかしく胸つまり、涙一ばい出て。あヽあれから四十年夢のやう。


舞鶴上陸の思い出
   兵庫県西宮市…
            …
上海を出航したLSTは、予定より早く日本に着いたので、湾内で錨を降し、コレラの潜伏期間の過ぎるのを待った。近くを通る舟から「お帰えりなさい」と手を振って迎えて下さる。やっと日本に帰えりついたのだ。
昭和二十一年四月二十五日午後やっと上陸した。上陸を前にして申し渡たされたことは、
一、一切口をきいてはならない。口をきくと銃殺される。
一、自分の荷物は自分で運ぶ。赤帽にたのんでも百円はとられる。他人をみたら盗人と思え。
一、お前達に分ける食糧はない。餓死を覚悟で帰えれ。

私達は帰えって来てよかったのか?でも私達は日本の他に帰える所はないのだから…。
無言で重い荷物を持って広い場所に向うと、腕章をつけた男の人が「荷物を持ちましょう」と言はれるが、だまって歩き出すと、気付かれたのか一緒に持って下さった。検査があるときいていたのに消毒だけ、その間に何かと手つづきの列に加わる。もたもたしている間に回りは知らない人ばかりになっている。どうやら一人残こされた様子、あわててつめ込んだ荷物を持ってうろうろしていると、誰かが 「早く、早く、汽車が出ますよ」とかけて来て荷物を取り上げ貨車まで走って下さった。とにかく間に合わないからと手近の貨車に放り込んで下さる。
見回わすと同じ隊の方の顔があり、やれやれよかった。
貨車を降りると服をきたまヽDDT散布、つゞいて風呂に入るのだという。浴場の入口にはいつの間にか白衣の男の人が立っている。その前を裸でタオルもなしで通らなければならない。夢中で飛び込んだ浴槽は白くにごっている。カルキを入れたお湯、服、身体と順に消毒された訳である。出口に出ると待ちかまえていたように三種混合の予防注射、まるでベルトコンベヤーに乗せられているようなもの。
夕食後、張り出されている都市の戦災地図で、心当りの地図を見るが、何れも赤くぬりつぶされている。さて家族は朝鮮からどこに引揚げているものやら?その夜は何時になく熱を出し、そのまま寝込む。
舞鶴の方々には色々親切にして項いたのに、その時は先入感の強さで、失礼を重ねました。大変申し訳なく思っております。改めて厚く御礼を申上げます。


思い出す紅白のお餅
      鳥取県鳥取市…
             …
旧満洲のコロ島から舞鶴港へ、そして新生の第一歩を踏み出した「舞鶴」は私達一家の第二の故郷です。たくさんの思い出の中から三つ、四つ拾います。
残っていた日本は美しかった= 引揚の貨物船が玄海灘を通る時は、深夜で特に大荒れ、翌朝、船長が「船は転覆限界、もうこれまでと思ったが、皆さん覚悟してとは、どうしても言えなかった」と述懐された程でした。
然し、日本海に入ってからは穏やかで、いか釣り舟の灯が波間にチラチラ浮き沈みする真ん中を縫って急いでいました。やがて東の白むころ「見えた!日本だぞー」との叫び。そして見えた瞬間「あ、日本は美しいまヽ残っていた」と思い、何だか叫びました。これが帰国の第一印象でした。
紅白のお餅=上陸、そして先ず入浴、注射、消毒と終って、日本祖国での初めての食事です。さて食堂に案内され、お膳の上を見た瞬間ハッと胸を突かれました。赤と白のお餅が一つずつご飯の上にのせてありました。涙がどっと出て何も見えない程でした。めったに涙は見せぬ私ですが、今これを書きながらどうしても泣けます。
内地も乏しいでしょうに、こうして祝って下さるお心が嬉しかったのと、やっとここまで辿り着いた、もう鬼も蛇もいない、の安心感が重なって出た涙だったのでしょう。何年過ぎても消えない思い出の紅白のお餅です。
幼ない娘はもう立てなくなっていた=出航したコロ島港では、一才三ケ月の三女は、赤い小さい靴を履いてヨチヨチと歩けましたのに、船中では座ってばかりでした。揺れるからと思って抱いてばかりいましたが、さて上陸して、宿舎の部屋で歩かせようとしても全く立ちません。長旅で忘れたものと安心していましたが、それっきり駄目でした。強度の栄養失調でノミや蚊の跡が皆、膿を持って穴が開き、いちゃい、いちゃいといい続けながら、一ケ月後にあの世へ再び帰って行きました。でも皆様のおかげで、故郷日本の土に入れましただけでも幸いです。皆様有難うございました。
当時の引揚者の異状心理=コロ島港で乗船の際、迎えの船員さんのつぶやきが耳に入りました。「この人達は嬉しそうな顔をしない。南方に行った時はとても喜んでくれたのに」と。舞鶴で宿舎の部屋に案内された時、どの家族も隅っこに集って、借りて来た猪の様、係の方がどうぞ真中へといって回られても駄目でした。内地へ帰ったら畳の上で大の字に寝たい、と言い合っていたのに?敗戦後の長いびくびく、おどおどのじっとがまんの生活は、心で思っても、明るく素直に外に出せない暗い心理状態に変っていたと思われます。お詫びしたいと思い続けて釆ました。
その他= 舞鶴の町中で店頭の真赤なスモモの実を見た妻が、子供に買って食べさせたいと思い、今でもその実を見ると思い出すということ、駅頭で見知らぬお婆さんから、メリケン粉焼の様なものをもらって子供に食べさせたことなど、思い出は尽きません。


ああ、舞鶴
      大阪府東大阪市…
            …
「日本が見えた!」と誰かが叫んだ。甲板にぎっしり立って南へ視線をこらしている沢山の人たちは、こみあげてくるものをこらえて黙っていた。アメリカの貨物船X七号を改造した引揚船は、薄黒い山脈に向かって、同じ速度で近づいていた。舞鶴が近いとみんなは思った。
昨日、この甲板に祭壇をしつらえ、病死者を水葬にふした。その儀式を見つめながら私は、死体になっても祖国に上陸させてやればよいのにと切に思った。船内では、全員が僅かな持物をまとめていた。雑のうと小さいフロシキ包一つに、空の一升瓶を布切れで包んだものが、私の持物の全部であった。なぜ、空瓶を持帰ったのか?どん底生活中に、形ある物がとても価値ある物のような気になり、独身者の身軽さからか、乗船前に拾ったものらしい。
心臓の悪い若い妻君を大切にしている夫君は、夫婦の持物のすべてを己が身につけていた。この婦人は、甲板につくられた便所の所へ行くだけの体力がなく、主人と共用の飯盒を彼女の便器にも使用していた。ここまで来たらこの人の命は助かったと私は思った。
いよいよ内田さんともお別れですね、と初老の男が言った。この人は昨夜、全員が横になって寝ている中で、たった独り立て膝を組み考え込んでいた。便所から戻った私に 「内田さんは何処へ還るのですか」と尋ね、四国の田舎で父が百姓していますのでと、返事をすると「ええですねえ」と、とても羨しそうに言った。この人の一家は北満の佳木斯で暮らしていたのだが、奉天(現瀋陽)まで辿りつき、駅近くの春日小学校に入り、そこに出来た「春日救急団」という難民集団の団長になった人であった。
舞鶴港には爆撃でやられたらしい数隻の艦艇が、さまざまな恰好をしてさびた艦体をさらしていた。梯子を下りた砂浜に二人の男が立っていた。腰に両手をあてた二十歳位の方は警官のようであった。監視的な彼の態度に、体重八貫の私は殴ってやりたい憤りを覚えた。
宿舎へ案内される途中、前方から来る緑色の事務服をはおった若い女性の顔を見つめているうち、話しかけたい衝動が湧き「シベリアから戻んたんじゃ、この人と」と、横にいる元軍属をかえり見て言った。「あっ!」と彼女はびっくりし「誰か!」と援護局の人をさがしつつ、私が入る入口を見届けていた。
葫蘆島をいっしょに出た小さい方の船が見えない。どうも最初の晩のしけで沈没したらしい。われわれは大きい方の船に乗ったので助かった、と世話役の人が言った。
周りの者が黙っていると、彼は声を荒げて「ここまで来て乗った船が海没するなんて悲しくてやりきれん」と繰り返した。
青い畳の広間の食堂であった。丼に白い飯、その上に餅が一つ乗せてあった。すばらしい色の味噌汁、新鮮なオカズ一皿、漬物。「おお、これが日本だ!」「ごちそうだ!」などと嘆声がつづいた。
その夜、援護局男子職員の訪問を受けた。彼の最大の関心事は、幾十万ともしれない日本人をソ連へ運んだソ連のやり方と、日ソ両軍の戦闘詳報であった。ソ連に抑留された日本人のうち、祖国の土を踏んだのは私が最初らしかった。私は、今度はアメリカ軍に捕えられないか、と被に何回も尋ねた。翌日、引揚日昭和二十一年六月十五日などと記入した『引揚証明書』を受領し、各県別に東舞鶴駅へ案内された。
あれから四十年近い歳月が流れたが「舞鶴」という言葉を聞いたり、活字を見るたびに、ひしひしと感じた援護局の人々の気くばりを思い出す。と同時に、難民生活を共にし、いっしょに帰国した人たちが、今日、どこでどうしておられるだろうか、としみじみ思う。



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引揚の概要-1-
引揚の概要2:援護局開設までの時期
引揚の概要3:「上安時代」(このページ)
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舞鶴引揚記念館
舞鶴引揚記念館:設立の趣旨
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引用文献
『舞鶴地方引揚援護局史』



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