丹後の伝説
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その十一

丹後の伝説:11

金剛院、松尾寺、普甲寺、大江山、他

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金剛院(舞鶴市鹿原)

『舞鶴文化懇話会会報28』(90.6.17)に、
金剛院稗史
    時岡 侃 狐狸の棲家の境内の現在

… 金剛院は戦後一時期、凄む人とて無く、檀家の人にも、なかなか人手が廻りかね、荒廃が酷く床下には狐狸の類が巣くい、萱葺の屋根の処々は崩れ落ちんとし、緑ごけの群生が見られ、・ペン・ペン草も繁茂し、おちこちには宵待草が黄色の花をしぼませて、時時興る風に、吹かるるままに、東に西にと揺れておりました。
 その中を、善知鳥にはあらずして、二羽の鶺鴒がけたたましく、かん高い声をはり上げて鳴きながら、長い尾羽を上下させて飛びかっておりました。檀家の人が見廻りには来るのでしょうが。…

金剛院にまつわる話

 金剛院関係者、舞鶴の人には心地の良い響として耳に入り難いと想い、水らく胸底に潜めて秘めておりましたが、私もようやく馬齢を重ね、鬢も髪も青葉山の頂に降り積る雪よりも白くなり、来迎の近きを考え、禿筆を咬み、手に息を吹きかけながら、筆を走らせる次第。不快の響と聞こえましたら、耳を洗われたし。
 昭和三十五年頃、友人某、我が陋屋に来りて告げるには、若狭の佐分利村の山奥に川上と称する部落在り。その在所の一番奥の農家のF家に、平安・鎌倉期の仏像が多数存するとのこと故、一度拝見に出むかんとのこと。日を定めて訪問することと決し、某日出かけました。金剛院

 F家に至り、門を叩く。
 九○才程の年で腰が弓の如き老躯と、七○歳程の老婦の二人が在宅されており、我達二人遠方より来り、貴家に伝わる仏像を拝見致したき旨申しますと、遠き処からようこそと、家へ招じ入れられる。
 一歩屋内に入り廻りを見ますれど、昔の山奥の農家のこと故、昼でも屋内は暗い。ようやく暗さに目がなれたころ、縁側の雨戸を一枚くる、さっと射込む陽光で屋内の仏像が浮かび上がる。
 淡いあかりを受け、あまり大きくもない古い仏像が一○体程、薄明の針光の中でかすかに微笑むが如くにして鎮座なされてましまする。正しく平安・鎌倉仏、室町仏もまじってござる。
 私は凝然として佇立するのみ。
 今もこの文を書いておりますと、あの時の戦慄が蘇ります。礼を失した云い方ですが、山奥の農家にこの様なものが存在するとは夢想だにしませんでした。
 拝し終り、囲炉り端で山茶を喫しながら、この家に伝わる謂われと申しますか、故事来歴と申すものを、九○才の嫗が、歯の抜けおちた口で赤い歯茎をもぐもぐとさせながら、七○歳の老婦の助けをかりて、訛の強い若狭弁で訥々として語る話を拝聴させて戴きました。
 三○年後の今、我が耳底に残るその時の言葉を多少標準語に置き替へまして誌しておきます。

嫗の話

 「うらが(九○嫗が)子供の頃より、お爺さんから時々聞かされた話では、この山の奥の方に谷が開けて平になった処が在ります。そこには千年の昔から寺が在りました。七堂伽藍が並び建ち真中には高い高い天までとどく七重の塔が聳へておりました。
 私達の家はその寺の前に住んでおり、代々寺に壮へておりました。途中の頃から(室町時代か)寺がだんだんと衰微いたしました。江戸時代の末頃になって寺は荒廃し、維持が困難になりました。金剛院
 私達の先祖も寺が無くなれば身過ぎ世過ぎが出来なくなりますので、山を降りることとなり、明治の始め頃に山麓に土地を求めて家を建て、そこで暮らしをする様になりました。……が、
 寺に在る仏さんと、仏具・寺道具・寺の書き付けを、そのままにしておいては罰が当ると云うので、何体かの仏さんと諸道具・諸教典は本家が預ることとなり、分家の我が家には小さな仏さんを何体か預ることとなりました。そして、寺の大きな仏さんは在家に置くものでは無いと云うことで、皆の衆は協議の上で、鹿原に在る金剛院さんへ納めることと相なりました。
 農閑期の暇が出来ました時に、うらの(九○嫗の)爺さんが連尺に背たら負うて、山を越へて金剛院さんへ納めましたと、聞いております…。
 本家に預りました仏像・仏具・書き付けその他一切のものは、その後家中のものが山仕事に出ている間に、家から火が出て家が丸焼となり、一物も残さず灰となりました。
 分家の我が家に預かった小さな仏さんの内のわずかばかりが、今、家に伝わっておりますこの仏さんです…。」と
 長い話を聞き終り、一息ついて、ふと縁側を見上げますと、一枚くった雨戸の向うに、木の皮の様なものが軒先に簾の如く多数干してあるのが目に入る。
 聞けば藤の皮とのこと。このあたりでは、これにて一布を織り野良着や、カルサンを作ると云う。珍しきもの故織り上げし節一反割愛下さるべく申してその家を辞す。
 三年後の昭和三十八年、再訪し約束の藤布一反戴く。
 明治の初め、村人達に抱かれて山麓へ降りた仏像の一部は農家の家奥に、今もひそと残り、古代の藤布は我が掌中に存り。
 嫗の父親に連尺で背負われ、村人達に見おくられて鹿原の金剛院へ旅立った仏像、深州大将と執金剛像は、今も金剛院に鎮座して衆生に慈悲を施す。二仏共にアン阿禰陀の墨書銘在り。鎌倉時代快慶の初期作として国の重要文化財に措置されております。
 江戸末期の『丹後国伽佐郡志楽庄鹿原山金剛院霊宝記』には、深州、執金剛二仏の記載を見ず。然し、明治以後の金剛院宝物帳には二仏が揚げられております。このこと、何と解釈致しましたら良いのでしょうか。
 あなたの考えをお聞きしたい。
   平成二年一月十四日  寒けれど雪なし


 註 若狭の農家では自分のつれあい(主人)を呼ぶ場合、中年ならば「お父さん」と呼び、老年ならば「お爺さん」と呼ぶ。嫗の話の「お爺さん」 は祖父でもなくつれ合でもなし。この場合は自分の父親のこと。嫗は明治三、四年の生れ、父親は当時三十才前後か。二嫗共に旅立つ。

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松尾寺(西国二十九番霊所)の縁起

『若狭高浜むかしばなし』(平4・町教委)に、


観音岩
 今から千年ほど昔のことである。神野浦の漁師であった叟太夫(春日為光)は、舟に乗って沖釣りを楽しんでいた。すると、さっきまで晴れわたっていた青い空がにわかにかき曇り、大嵐となってしまった。神野浦(高浜町)より青葉山を望む
 叟太夫は必死になって乗り舟にしがみついたが、荒れ狂う波のすさまじいこと。とうとう乗り舟を波にさらわれてしまい、叟太夫は生死の境にあった。しかし、幸いにしてようやく嵐もおさまり、叟太夫は見知らぬ島に打ちあげられた。
「ここはいったい、どこなのだろう」
やっと意識を取り一戻した叟太夫は、あたりをきょろきょろと見まわした。すると、遠くの方から鬼のような者がこちらに近づいてくるではないか。
「こんなところにいては、殺されてしまう」
叟太夫は、あわてて砂浜を駆け出した。疲れきった足は、砂のなかで何度ももつれた。
「ああ、もうだめかもしれない」
その時である。波打ち際に大木が浮かんでいるのを見つけた。
「なんて大きな木なのだろう」
叟太夫が近づいていくと、不思議なことにその大木がこう言ったのである。
「叟太夫よ、わしの背に乗れ。神野浦の浜まで連れて帰ってやる」
大木が口をきいたのには驚かされたが、そのありがたい申し出に狂喜して、叟太夫はさっそく大木にまたがった。すると、大木が見る見る美しい白馬となり、海の上をすべるように駆け出した。
「神野浦の浜まで、何とか無事に帰れますように」
叟太夫が一心にお祈りしている間に、白馬は何千何百里をあっという間に駆けぬけて、神野浦の浜に到着した。そして、近くにあった大岩へと駆けのぼった。岩に馬の蹄のあとが二つ残されたのは、その時である。
「おかげで命が助かりました。何とお礼を言ったらいいのでしょう」
叟太夫がそう言って馬から降りるやいなや、白馬はまたもとの大木に戻ったのであった。
 神野浦の海岸には、今も観音岩と称して馬の蹄のあとを残す巨石がある。

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叟太夫神野浦(青葉山頂より)(中央の入江)

 今から千年ほど前のことである。神野浦の漁夫叟太夫は沖合で突然の嵐にあった。しかし、幸いにも白馬に助けられ、無事神野浦(志ッ見)の浜にたどり着くとこができた。
 その白馬は観音岩の上で、もとの大木の姿となり、叟太夫の前に横たわっていた。
「この大木は白馬の化身だ。わたしを救ってくれた観音様だ」
叟太夫はお礼をしないではいられなかった。そしてついに、その重い大木を背負い、お参りする場所を求めて歩きだした。
 どのくらい歩いただろうか。やっと叟太夫はある丘の上で立ち止まった。
「ここは流れ尾だ。ここに観音様をおまつりするとしよう」
叟太夫がつぶやくと、どこからか声が聞こえてきた。
「なに、流れ尾だと? そんな流れるような場所は困る。もっと上の方がよい」
その声はなんと、里太夫が背負っている大木からだった。里太夫は心の中で思った。
「流れ尾はよいところなのに、もったいないなあ」
しかし、精一杯こう考えた。
「はい、かしこまりました」
 それから、どんどん青葉山を登っていくと、きれいな清水の湧いているところへ出た。
「今度こそは、気に入ってもらえるにちがいない」
そう思いつつ、おそるおそる大木にたずねた。
「白馬さま、ここは“強生水”と言いますが、いかがでございましょう」
「強生水? それはいかん。もっと上の方がよい」
叟太夫はがっかりして、さらに山を登っていくのだった。
 とうとう松尾までやって来た。そこには小さなほこらがあり、叟太夫がひと休みしていると、背負っている大木から声がした。
「叟太夫よ、ここがよい」
「さようでございますか」
叟太夫はほっとして、背から白馬の化身を降ろし、ほこらに安置した。叟太夫の額には快い汗が吹き出していた。こうしてやっと、観音様をおまつりする場所が決まったのである。
 叟太夫は、この白馬の化身の大木で馬頭観音像を二体刻んだ。そして一体は松尾寺のほこらに、もう一体は神野浦へおまつりした。
 松尾寺は、その馬頭観音が御本尊様だと伝えられている。また、叟太夫は、その後光心という名に改め、御本尊様に奉仕したと言われている。

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『舞鶴の民話4』に、

松尾寺山門(舞鶴市松尾)惣太夫

 西国二十九番の松尾寺は、青葉山の中腹にあり大がらんがあった。文武天皇の慶雲元年(一三○○年前)中国の威光上人が仏法を広めるため、対馬海流に乗って、苦労の末日本へ渡来した。各地の名山霊地を回っているうちに、丹後の国へたどり着き、空高くそびえている青葉山をながめていると、何か中国の馬耳山に似ているので、霊峰であると、供と共に草木をわけ頂上めざして登った。その中腹に平地があり、その中央に松の大木が生えていた。上人はその下に座を構え、供のものと法華経を読誦していること久しきに及んだ。すると不思議なことに天人が持ってきたように、金色まばゆい馬頭観世音像がいつのまにか、上人の手に渡されたのである。上人はここぞ仏法を修める最適の地と庵を結びこの尊像を安置した。これが松尾寺の縁起であり、境内にある千年の松の大樹は、山号青葉山も、寺号松尾寺もこの松の瑞相による。
 又、若狭の神勝浦の古老の話によると、この地はむかし七戸の部落であった。この浦での舟の主は為光惣太夫といわれていた。村の若者と共に漁に出た。海はないでいるが、少しも魚がとれない。それで沖へ沖へとろをこぎ進んでいった。空をみあげると西の空がどんより曇り、生暖かい風が吹いてきた。柴紺だった海の色も黒緑にかわり、波が強くなってきた。それに雨がぽつんぽつんと降ってきた。突然に栓を抜いたように大雨がどっと降り、風が強くなり、船は木の葉のようにゆれ、まさに難破の危機にあった。風は益々きつく、雨が甲板をたたきつけた。船員たちは、船にはいる水を手や、船板でかいだしていた。しかしその効なく、船は上り、下り、船は傾きひっくり返ってしまった。乗組員は四散し、海に浮かんでいたが、いつのまにか一人又一人と海に沈んでいってしまった。惣太夫も一生懸命泳いだ。波はようしやなく彼をあっちこっちへと流した。突然一片の丸太が流れてきた。彼は必死にそれをつかみ、波に身をまかせた。波はやがて彼を無人の島に運んだ。岩にしがみつき全身の力をふりしぼってはい上がった。島に上がった彼は、足をひきずりながら、岩穴を見つけ、そこにはいった。ここだと雨風がしのげる。彼はそこに横たわった。疲れが一度に出たのであろう。夢の中にひきこまれた。松尾寺本堂
「惣太夫、ここは鬼蛇の住む島なるぞ。ここにいるとそれのエジキになってしまうぞよ」はつと目がさめた。彼は立ちあがると、浜に向かって歩きはじめた。野には小さい蛇がじっと彼を見つめている。浜につくとそこにさきほどの丸太がころがっといる。どうにでもなれ、彼は丸太に乗り海に乗り出した。丸太は真白い馬と化し、波をけり、暫時のあいだに故郷の浜の岩についた。馬は岩にヒヅメのあとを残して、砂地に立った途端に、もとの丸太になり海の方へ波と共に浮いている。惣太夫は両手をあわせてお礼をいった。家にかえると、家の人はびっくりした。死人だと思っていた惣太夫が家の前に立っている。かけつけた親族は、荒海から帰ってきた彼、姿変わりばてた彼をみてよろこび、あやしんだ。しかし白馬の話をきき、お通夜はよろこびの大酒宴に変わった。惣太夫は「わたしを助けてくれた丸太にお礼をせねば気がすまい」と急ぎ、もとの浜べに引きかえした。丸太は浜辺に人まちげであった。惣太夫は「よっこらしよ」と背おって、高見の畑にやってきて、「見晴らしがよいでここにおまつりしよう」と、あとからついてきた親族たちと相談した。すると丸太が「ここは流れみちじゃ、流されて又海にいかんなん、心配じゃ、ここはいやじゃ」 山の坂道を丸太をかついで進み、鳥越のところにきた。ここがいいだろう、と下ろすと「見はらしのよい所じゃが、このすぐ近くにコワショウの清水がある。こんなコワイところはいやじゃ」
とおっしゃる。さらに坂道をくねりながら行く。丸太は気持ちよさそうにだかれている。松尾の里にきた。寺にもうて、丸太を下ろした。丸太は、
「ここじゃ、ここじゃ」
と大声でさけぶ。丸太はいつのまにやら、岩の上にあがり白馬となったという。

世界樹と白馬と観音と松尾寺が一つのものと理解されていたのであろうか。

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十倉長者(船井郡園部町小山西町)

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、(イラストも)

十倉長者
  船井郡園部町小山西町

 昔、私市(きさいち)(いまの園部町小山西町)というところに、十倉左エ門という大変なお金持ちが住んでいた。大きなお屋敷に土蔵が十もあったので、村の人たちは十倉長者と呼び、尊敬していた。十倉長者
 そのころ、園部町の小麦山のふもとに荒れ果てたお宮があり、信心深い十倉長者は、そのお宮の周りに池を掘り、島を築いて社殿を再興、近江の国・竹生島から弁財天の像をお迎えして安置したが、このためますます栄えた。それは承和十二年(八四五)ごろで、千百三十年も昔のこと。この弁財天が、いまの生身天満宮境内にある厳島神社と伝えられている。
 あるとき、十倉長者は大勢の供をつれ、丹後の国は舞鶴の松尾寺の浜で盛大な舟遊びをした。何隻もの美しく飾った舟を海に浮かべ、新鮮な魚に舌づつみをうち、ときのたつのも忘れて楽しんでいたが、にわかに空がかき曇り、アラシになった。「早く舟を岸につけろ!」と漁師は必死になって艫をこいだが、大波はようしゃなく襲い、舟は木の葉のように揺れて、長者はいつしか舟の中で一人ぼっちになっていた。そして何日か海を漂流するうち、とうとう鬼界ヶ島に流れついた。
 途方にくれる長者。そこへ馬のいななく声が聞こえ、振り返ってみると、一頭の白馬が近づいてきた。「神様のお助けだ」と長者は勇躍その馬にまたがり、海を渡り、野山を越えて無事園部へ帰ることができた。
 私市にたどり着いた長者は、白馬を村はずれの木につないで屋敷に帰り、再び村はずれにきてみると、白馬は一本の古い木になっていた。長者は「やはり神仏のお使いだったのか」と、その木を切って仏を刻み、守り本尊とした。この仏が、いまも園部町美園町の南陽寺に伝わる馬頭観音といわれている。また、一説には、この馬頭観音は田んぼから発掘されたともいう。
 しかし十倉長者は、晩年、ぜいたくをしたので、時の政府からおとがめをうけ追放された。園部を離れるとき、それまでたくわえてきたたくさんの黄金をある山中の谷に埋めた。その場所が二本松峠の鍋ヶ谷で、地元の子守歌に「泣く子は鍋ヶ谷においでオシャンシャの木の下へ」というのがある。旧園部藩の蔵の中に、このいい伝えを記した古い文書が一枚残っており、一万両埋めてあるとかかれている。その後、宝探しをする人が多かったというが、いまだに掘り当てた人はいない。(カット・井上浩美さん=園部町園部校)

〔しるべ〕府立淇陽学校の校地一帯と、その正面に当たる私市一帯が十倉長者の私有地だったといわれ、淇陽学校の加茂寮付近がその屋敷跡。二本松は国鉄園部駅から園部町栄町に抜ける峠にある。

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埴生のおきた・ねむた地蔵

『京都丹波・丹後の伝説』(京都新聞社・昭52)に、


埴生のおきた・ねむた地蔵
   船井郡園部町埴生

 園部町の西南端に、埴生(はぶ)というところがある。百四十戸ほどの山村だが、昔は宿場町として栄えた。家並みを東西に貫く篠山街道は篠山から亀山(亀岡)を経て、京へ通じるメーンコースであった。
 この埴生の東のはずれ、篠山街道と幸助の谷の交わるところに、地蔵が二つ並んで立っていた。一つをおきた地蔵もう一つをねむた地蔵といった。いまも、昔の場所から五メートルと離れていない丘の上り口に移され、近所の人によってていねいにまつられている。風雪に打たれ、顔かたちははっきりしないが、この二つの地蔵には、エピソードが残されている。
 ころは徳川時代。いろんな旅人が往来した。小間物屋、乾物屋、青物屋、にわとり屋、古着屋、糸屋などの行商人たち。能勢妙見参りの団体連れ。大道芸人。牛追い……。
「あすは早立ちして次の宿場へ。早く目がさめてくれるように」と願う旅人はおきた地蔵へ向かって石を投げると、早く目がさめた。「ワシは床が変わるとなかなか寝つかれない。グッスリやすんでおかないと、あしたの旅路がこたえる。安眠できますように」と願う旅人はねむた地蔵に石を投げてお願いした。
 村人のなかにも、日ごろから寝坊のものはおきた地蔵に、寝つきの悪いものはねむた地蔵に石を投げ、不思議と効き目があったというから、重宝な目ざまし時計だったわけだ。
 当時は、十軒以上の宿屋があったらしい。「本陣」「米利」「竹屋」「丸屋」「枡屋」「椛屋」などで、「本陣」「米利」「竹屋」は、鳥取や篠山方面の大名が参勤交代の際、泊まった。牛の宿というのもあった。どの宿も一日に十人から二十人ぐらいの旅人があり、女中も四、五人はいて、なかなか忙しかったという。いまは「椛屋」しか残っていない。
 初夏のある日、埴生を訪ねた。いまは府道となっている旧篠山街道からキンポウゲの咲く野道を少しはいっていくと、二つの地蔵が暖かい日ざしを浴びて立っていた。「ぐっすり眠れて、しかもパッチリまぶたがあきますように」と、サラリーマン諸氏を代表する気持ちで欲ばって両方に石を投げた。地蔵は、かすかにニコリと笑ったようだった。向かいの田んぼで田植えをしていた農家のおばさんが「いい地蔵でしょ」といった。

〔しるべ〕 埴生は園部町中心部から西南へ約七キロ。車で約二十分。京都交通バス植生下車。徒歩約五分。近くに府立自然公園るり渓がある。

近くに野々口城趾がある。古代の野口駅はこのあたり言われる。

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北の高野山・普甲寺(宮津市小田寺屋敷)

『宮津市史』(平成8)に、

(普甲寺)
延喜年中(九○一〜九二三)、僧美世、普甲寺を建立する

[伊呂波字類抄] 七 不 諸寺 大日本史料
普甲寺、延喜年中建立
普光寺を伝える弁天堂(宮津市小田寺屋敷)
[拾芥抄]下本 諸寺部九 諸寺   大日本史料

普甲 普賢、本願美世上人、

[沙石集] 巻第十 本    日本古典文学大系

   迎講事
丹後国鳧鴨ト云所ニ、(美世)上人有ケリ、極楽ノ往生ヲ願テ、万事ヲ捨テ臨終正念ノ事ヲ思ヒ、聖衆来迎ノ儀ヲゾ願ヒケル、セメテモ志ヲ休ントテ、世間ノ人ハ正月ノ初ハ、思願フ事、イワヒ事ニスル習ナレバ、我モイワヒ事セント思テ、大晦日ノ夜、一人ツカフ小法師ニ状ヲ書テトラセケリ、「此状ヲモテ、明朝元日ニ門ヲ叩キテ、「物申サン」トイヘ、「ヰヅクヨリ」ト間バ、「極楽ヨリ阿弥陀仏ノ御使也、御文候」トテ、此状ヲ我ニ与へヨ」ト云テ、外ヘヤリヌ、上人ノ教ノ如ニ云テ、門ヲ叩キテ、約束ノ如ク問答ス、此状ヲ、イソギアハテサワギ、ハダシニテ出デ、請取、頂戴シテヨミケリ、「裟婆世界ハ衆苦充満ノ国也、早厭離シテ、念仏修善勤行シテ我国ニ来ルベシ、我聖衆ト共ニ来迎スベシ」トヨミツ、サメホロト泣泣スル事、毎年ニ不怠、其国ノ国司下リテ、人々国ノ事物語ケルツイデニ、斯ル上人アルヨシ人申ケルヲ国司聞テ、随喜シツゝ、上人ニ対面シテ、「何事ニテモ仰ヲ承リテ結縁可申」ト、被レ申ケレドモ、「遁世ノ身ニテ侍リ、別ノ所望ナシ」ト、返事セラレケレドモ、「事コソカハレドモ、人ノ身ニハ必要アル事ナリ」卜、シヰテ被申ケレバ、「迎講卜名テ、聖衆ノ来迎ノヨソヲヰシテ、心ヲモナグサメ、臨終ノナラシニモセバヤト思事侍リ」ト被レ申ケレハ、仏菩薩ノ装束等、上人ノ所望ニ随テ調ジテゾ被レ送ケル、サテ聖衆来迎ノ儀式ノ臨終ノ作法ナムト年久ナラシテ、思ノ如ク臨終ノ時モ来迎ノ儀ニテ、終リ目出カリケリ、コレヲ迎講ノ始卜云へり、アマノハシダテニテ始メタリトモ云、又恵心僧都ノ脇足ノ上ニテ、箸ヲヲリテ、仏ノ来迎トテ、ヒキヨセヒキヨセシテ、案ジ始給タリト云侍リ、実ニ物ニスキ、其道ヲ始ム人ハ、寝寐モ其事ニ心ヲソムベシ、「習サキヨリアラズハ、懐念イヅクンゾ存セン」トイヘリ、ヨクヨクナラスベキハ、臨終正念ノ大事也、然二世ノ人往生ヲ願フヤウナレドモ、朝夕シナラヒ、思ナス事ハ、流転生死ノ妄業ナリ、正念現尊ノ儀シタウベキヲヤ、このあたりに残された石仏を集めたものだろうか


[古事談]第三 憎行
  古典文庫

 丹後ノ国ノ僧、大般若虚読ノ罰ヲ受クル事

丹後国普甲卜云山寺ノ住僧、大般若虚読ヲ好而為業、已経年序畢、或時手披経巻虚読之間、後頭ヲツヨク被殴トオボユルホドニ、両眼抜テ付経巻之面云々、件眼ヒツキタル経ハ于今在彼寺云々、
(参考)
[宮津府志] 五 古跡之部 
      大日本史科

普甲山 府城南二里、属与謝郡、千歳嶺の石碑(現在の普甲峠の頂上付近)
貝原氏諸川巡に、北向嶺と記す、拠あるにや、又延喜式神名帳に、当国与謝郡に布甲神社と云を載たり、此社今さたかならす、若此辺に在て、山の名によりて社を名付しにや、神名によりて山を呼しか、又当山に古へ普甲寺とて大刹有り、それゆへ山をも普甲と名付しと云説もみへたり京極公入国の砌、不幸の音を諱て、千歳嶺と改へしと令ありしとかや、坂路険岨にして要害堅固なり、府橋立記曰、此山は大山といふ名所なり、帝都より山南の麓、内宮迄二十四里、それより嶺まて二里、此間に二瀬川あり、左の方に千丈か獄、鬼か窟あり、山嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あり、是普賢の道場にして、開山は棄(美カ)世上人といふ、今辻堂のやうなる普賢堂あり、荊棘生ひて路も絶へ、尋る人もまれなり、凡山間に三所茶屋有、京極安知公、旅客の為に置所なり、ふもとの左に、宮津より一里の碑あり、是まて山路嶮岨なり、

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『丹後の宮津』(橋立観光協会・昭33・岩崎英精)に、(図も)

歴史の大江山

 この大江山は、なんといっても大丹波時代はもちろん、丹後の国ができてからも、奈良や京都からの難所であった。そこで「あまのはしだて」のほとり、府中の国府へ通ずる公の国道は、赤石ヶ嶽と千丈ヶ獄との中間鞍部を山河へ、そして大江山の加悦谷がわ山すそを桑飼・石川の村々をへて、堂谷から石田へ、石田から板列の弓木・岩滝・男山を府中へといそいだものであった。だが、そうした大むかしでも、公の国道ばかりでなく、近くて通りやすく、それが便利であるなら、やはり準国道といった道も早くからひらけた。それは大江山の東、普甲山と大山といわれた杉山との鞍部を越す道、すなわち現に「元普甲」といわれる道がひらかれたのであった。
  待人は行きとまりつゝあぢきなく年のみ渡る与佐の大山
      和泉式部
 ところがそうした上代では、道がひらかれることは、当時としては同時に古代仏教がひろまることであった。いまは跡かたもないが山河の根本寺、普甲山の普甲寺などがそれであり、それより以前にはすでに府中に天平の国分寺があり、また成相寺や文殊智恩寺もひらかれたであろう。そこで、山河の根本寺のことはほとんど不明であるが、菩甲寺についてはなお盛んであった往時を想像させる資料もあり、ことにその創建が平安の初期、延暦年間の開山だという寺伝は、多少の相違があっても、大きなズレはないであろうから、大江山の歴史からいえば、その関係はもっとも早かったといえる。こうした実状にそえて、普甲山には旧式内・布甲神社があったことが明かであるから、普甲山道の重要性も考えてよい。もっとも山河から下へおりた加悦谷には、大虫・小虫神社をはじめ、物部神社・矢田部神社などのあることも、また国道筋の当然なすがたであろう。

普甲寺址にたつ普賢堂と礎石

 以上のようなことを頭にえがきつゝ、バスで普甲峠へ、その道々、右左の窓に送迎する宮津谷のながめは、頂上にちかづくほどすばらしい。やがて峠の頂点でバスをおり、とりあえず目の前の大江山スキー場へ足をむける。スキー時はもちろんであるが、春から秋へかけてのここからのながめは、まことに雄大である。ことに宮津湾の方よりも、遠く丹波の山々をはじめ、京都の愛宕山までを一望のうちにおさめることは、まったくここならではの景観であるし、もし十月の末から十一月にかけての季節であれば、四囲の山々が、それぞれに紅葉して、まことに目のさめる思いがする。スキー場から寺屋敷への道を約六百メートル、そこにいま見る堂宇はわずかに普賢堂と弁財天堂がさびしく建つにすぎないが、しかし現に本堂という地名のあたりから、その前庭の草むらの中には、そのむかしの礎石がいまもならび、盛んであった往時を回顧するに十分である。この寺屋敷には現在八戸の民家があって、かっての寺々のあとを水田に畑に、苦しい生活がつずけられているが、その田畑からは時に思いもそめぬ古仏像や仏具が出土し、いまも京都博物館や個人の手に保存されている。ここが現在のように荒廃したのは、すでに四百年のむかしからで、それはあの信長が比叡山を焼いた元亀二年九月(一五七一)、 山僧の一部が岩倉の善峯寺と、丹後の普甲寺へにげこんだときゝ、たちまち兵を派遣して善峯寺を焼き、またここ普甲寺も焼いてしまった。その後、善峯寺は復興されたが、普甲寺はふたたび元の姿にはもどらず、今日まで普賢道場の跡として、一般に寺屋敷といわれてきたのである。さらにこの山の歴史をみると、足利の時代に丹後守護の一色氏は、但馬の山名、若狭の武田などから再三攻撃され、その最後はいつもこの普甲寺山に拠って敵をようやく喰い止めたのであった。その攻防の戦いに死んだ多くの武将たちが、山中のそこここに葬られたものか、いまもスキー場附近の「五輪ヶ尾」という山には、文明(一四六九)から永正(一五二○)にかけての五輪の墓石が散乱し、そのたたかいのはげしさをしのばせている。あの俳人一茶が「おらが春」の巻頭に「普甲寺の上人」という物語を書いてもいるが、その盛時には一山六十ヶ寺といゝ、寺領も丹後・丹波はもとより、関東にさえあったと伝えるここ普甲寺址にたって、いまなお残る多くの遣蹟を思うとき、歴史の流れのきびしさを、かぎりなく味わうことができるのである。

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『上宮津村史』(昭51・岩崎英精)に、

大江山および布甲山の歴史と伝説
普甲寺

 伝えるところでは平安時代の初めごろ、加佐郡医王山多祢寺の中興開山として、すでに朝廷にも知られたという寄世上人が、奥丹後路から平安京への交通上の要衝難関である布甲山に一寺を建てて、これを普甲寺としたことはすでに記した通りである。この寺が当初どれほどの規模であり、伽藍であったかは一切明かでないが、古老たちの伝承では一山六十余ヶ寺といい、あるいは百ヶ寺ともいい、中世は南の紀州高野山に対して北の高野山とまで喧伝されたともいわれた盛時があったというのである。事実はともかくとして、こうした伝承を幾分か裏書する資料としては、成相寺所蔵重要文化財「注進丹後国諸庄郷保惣田数帳目録」の加佐郡分に−
 一、普 甲 寺  十四町九段三百四歩内
同じく与謝郡分に
  一、石 河 圧
     二町九段         普甲寺御免
     一町四段         同寺内御免
さらに丹波郡(中郡)にも
  一、末 次 保
     一町七段二十五歩     普 甲 寺
  一、久 延 保
     一町三段百四十六歩    普 甲 寺
  一、光 武 保
     八段七十四歩      普 甲 寺
また別に与謝郡分に
    八町一段二百四十五歩(五ヵ所)普甲寺
などがあり、伝えるところでは関東方面にも寺領があったともいうから、これが鎌倉期から室町中期ごろまでの実状と仮定して、当地方では狭谷山成相寺にも匹敵する大寺であったといえよう。
 そこでこの奇世上人がいかなる人物であったか、現在では前記の加佐郡医王山多祢寺に伝えられる寺伝「縁起」によるほかないが、即ちこの「縁起」には−
 丹後州加佐郡白久荘医王山多禰寺者密教嗣統之霊場而本朝人皇三十一代用明天皇即位二年王子麻呂子創草之地也−云々
といい、麻呂子王子は鬼賊が与謝郡(加佐郡)河守荘三上之山に拠って庶民を害するので、勅命により討伐に下ったのであるが、これが神仏の霊力によって勝利をえたので、王子の報謝のために七仏薬師を鋳て、これを丹州七ヶ所に勧請、その一がここ多祢寺であるというのである。その以後の約二百年間、多祢寺は荒廃にすぎ、当時塔頭寂静院の僧寄世はこの有様をいたく嘆いていたのであった。時あたかも延暦元年(七八二)にあたり、そこで前記「縁起」は続けて−
 然後当于桓武天皇之御寓歴百九十六年而有奇世上人住此山僧中之肉麟也襄密法之玄奥住于寂静院嘆及殿宇朽廃消居諸于時延暦元 年壬戊五月天皇聖体有悩焉此時撰効験之明師於四海而皇詔遥降奇世上人也抽丹襄符薬師之神咒而奉三密之香水則叡襟忽快失於是 上人之雄名震雲上故得帝力之余祐而山中再復旧観無是以為当山之中興也−云々
と記し、これ以上に寄世上人の何者であり、いかなる素性の僧であるかにふれない。麻呂子王子と丹後の鬼賊退治のことは他に諸説があり、多祢寺が果して王子麻呂子の創草であるかどうかは別として、ここに中興開山という寄世上人こそ、今日の多祢寺の開山であり、この僧がまた布甲山普甲寺創建のため、当時の朝廷の余力をえたことも、想像しうるところである。
 ところが多祢寺に一山の鎮守として勧請する熊野権現社が、実は中尊権現として象に乗る普賢菩薩であって、普甲寺の本尊がまた元来普賢菩薩として、世に「普賢の道場」と喧伝され、同じ布甲山に祀られたと伝える延喜式内社「布甲神社」が、その普賢菩薩と神徳を同じくする「天之吹男命」、 もしくは「大直毘之命」といって、いずれも福徳を司る神であると伝え、いわゆる仏家の本地垂跡説によったのではないかとも考えられ、ここに布甲神社と普甲寺の密接なる関係が想像される。
 かくて普甲寺一山は、中世幾度か守護一色氏と若狭武田氏との丹後争奪の戦場と化し、さらにその後は織田信長の手によって元亀二年九月(一五七一)には、叡山焼き打ちの余勢をかり、西岩倉の善峰寺と共に、その運命をともにしたもので、善峰寺はその後において復興したが、普甲寺はついに旧観を復することができず、従ってそれまでの寺観がいかなる状況であったかは全く不明であるが、しかし現に寺屋敷としての寺域は想像するにたり、本堂といわれる地域に残る礎石、その前の広場にもみられる門柱礎ともおぼしき礎石、あるいは塔坦とも考えられる土坦など、これらを中央にして周囲を囲む一山の僧坊などを思うとき、その伽藍の規模は決して小さいものではない。
 以上のような普甲寺への道がどうあったか、いまはすでに明かでないが、伝えられる二王門跡、加悦谷からの参道であった「車道」、 または「吹男越え」といわれた大江山中腹に残る廃道、さらには現在の「元普甲」の道を辿るかぎり、一旦辛皮谷へおり、それから二王門を通って布甲山へ登ったものであろうか。一山の相好は雄大であり、まさに数十ヶ寺を擁しうる山容である。この山が後に詳しく記すように中世幾度か丹後争奪の戦場と化し、血腥い風に多くの将士がその屍を曝したもので、加えて一山の僧徒もまた世々この山に骨を埋めたであろうことは、今日なお残る多くの板碑や五輪塔などに、充分その実状を知ることができる。そして道はさらに逆戻りして辛皮谷を下へ出て、毛原谷へ山越えするのが当時の道順らしく、それより現大江町の元伊勢を経て国道へつづくのであった。その昔、平安期に編まれたであろう有名な「今昔物語」中、「始丹後国迎講聖人往生語」にみる普甲寺の姿、さらには鎌倉期に著された「沙石集」中の「迎講の事」、 あるいは近世末の小林一茶による「おらが春」中の「普甲寺の上人」などなど、いずれもありし日の普甲寺を回顧し、想像するにたり、盛大であった往時の寺観はいまも幻のように、布甲山にいらかをかがやかせているのである。  

頼光と酒呑童子

 寺屋敷をあとに、もとの普甲峠へでて、バスその他の車があればさいわい、ときには徒歩のたのしみも味わって、大江町の方へおりて行く。やがて峠の下に七八戸の民家があるが、これは中の茶屋といってまだ宮津市のうちである。むかし、この峠は交通がはげしく、宮津藩は公営の茶屋を設けていたが、それとともに個人の家業茶屋もあり、ここ中の茶屋はその名残りの一部でもある。さてここからさらに二キロ、俗に鬼茶屋といわれるところに一軒の茶屋があって、ここには昔から酒呑童子と頼光にちなむ器物を保存し、たのめば家人はこれを見せてくれるが、それを一見して道をもとへ四五百メートル引きかえすと、左へ川にそってはいる谷があり、二瀬川といって、普甲峠からの流れと、千丈ヶ原からの流れの合流点であるが、この左への川ぞいの道が千丈ケ原へのコースで、酒呑童子遺蹟はおおかたこの道の方である。たとえば童子屋敷というのは四五十間四方もある屋敷跡で、礎石らしきものもあり、とにかく大きい建物があったことが知られる。またその近くに千丈ヶ滝といって巾三間、高さ三十間ばかりの断崖をつたわる流れで、滝の下に不動堂があり、むかし源頼光の一行がここを通るとき、一婦人が血染の衣を洗っていたという話のあるところである。それより五入道の池という細長い沼があり、いろいろの怪談めいた物語りをもつ池である。この附近に民家七八軒があるところ、すなわち千丈ヶ原部落で、ここから千丈ケ獄への道、また鬼獄稲荷神社への道がつずくのである。なににしてもこの二瀬川筋のおよそ六キロの間、大江町は何か山岳公園としての施設などを実現する用意がないものか、実に大江山観光の主要な地域であることを注意しておきたい。そこで酒呑童子のことであるが、伝えられる時代は正暦元年三月(九九○)といい、寛仁元年三月(一○一七)といわれるが、そのいずれにしても平安期藤原氏はなやかな時代の出来事であった。酒呑童子の生れは越後の国というのが通説で、それが何か神通力をえて山に入り、一党をくんで時の政治に反抗し、山陰から京師への道を阻んで、貢物などを横奪するといったことがつずいたものであろう。このため朝廷は源頼光に命じてこれを討たせたという資料が、近衛家文書のなかにあったという古人の記録など、面白いものと思われる。要するに、当時の社会状体からみて、このような反藤原の一党が、全国所々にたむろしていたことは明かで、酒呑童子のごときがその一ツの証拠であって、なんら不思議とすべきでない存在であったと思われる。それを、赤鬼青鬼の刷絵がそのまゝ話のたれとなり、相当な知識人でさえが、外人が潜入してきたものとか、いろいろの奇怪な想像を加えることが、おいおいと真実を失わせるもととなったものであろう。一方また鬼の岩穴へは二瀬川にそうて少し谷へはいってから、右へのぼる山道があり、それを約四キロ余りのぼったところ、七三七メートルの頂点よりやや西へさがった山肌にポッカリと穴をあけた岩窟、これはいかなる時代でもとうてい人間の住まった跡とは思われない。ただこうした岩穴が、たまたま昔話の材料として取り入れられたにすぎないといっていい。かくて「むかし丹波の大江山、鬼ども多く住み」、ときの政治に抗し、社会に害悪を流した賊徒として、それは「鬼」の字に価する存在であったのにちがいない。もとよりそれは、反朝廷・反権力の徒であったとしても、また人民の敵であったかどうか、にわかに断じがたい。今日となってわれわれの興味は、この愛すべき郷土の大江山に、かくも民族の心にふかく喰いこんだ話が、いまなお人々の注意をひくところに、いぜんとして歴史的なつながりをおぼえるもので、なおいろいろの点から調査研究の余地があると考えておきたいのである。

 自然の大江山 

 すでにふれたように、大江山は主峯八三二メートルの千丈ケ岳を中心に、その西へは七三六メートルの赤石岳へ、東へは六六九メートルの赤岩山へつずく四○六メートルの普甲峠までが、普通大江山といわれる連峯である。そしてこの山々へのぼる道はいたるところにあって、バスで普甲峠まで行けば、この峠から鬼の岩穴へらくらくとのぼれるし、加悦谷からなれば山河からと、温江からなどの道が一般的である。しかしせっかくのぼるものにとって、興味ふかいのはやはりさきにみた二瀬川にそって千丈ケ原にはいり、それより千丈ケ岳への道がもっともたのしいコースであろう。だからまず主峯千丈ヶ岳をきわめ、それから東へ鳩ケ峰・鍋塚をへて鬼の岩穴への尾通り縦走コース、この道は実に変化にとみ、日本海を眼下に、とおく能登半島から伯耆の大山までを一望にする景観は、ただただ茫然としてとう酔するばかりである。もし伝えられるように、この尾通りを中心として種々の施設が実現するとき、おそらく世屋の高原とともに、たちまち都会人の天国として、いまわれわれの想像をゆるさぬ山上世界が現出するであろうことを期待して、も少しふかくこの山々をさぐってみたい。…

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普甲峠(与謝郡・加佐郡)

『おおみやの民話』(町教委・91)に、

普甲峠の通い嫁

     延利  由村 金光今普甲道(宮津市小田岩戸付近)

 普甲(ふこう)峠(宮津市)をこえて、大川(おおかわ)さん(舞鶴市にある大川神社)の方の村に通う、通い嫁さんがおっただそうな。あの長い峠を、夜の夜半にどうして通うだろう思ったら、なんでも頭に五徳(ごとく)さんをのせて、五徳の足に三本のローソクを立て火をつけて、胸には鏡をぶら下げ、手には鉄の火ばしの輪のようなもんをぶら下げ、じゃらじゃら音をさせて、化けものみたいにして、峠を越えては通っとった。
 峠を下りたところに小さい池があって、そこまでくるとその女は、五徳をとり、池の水を鏡にして服そうをなおし、姿をようして、男の所へ通っとった。男は夜半に峠を越してくるのが不思議に思い、男はその女の帰る後をつけてみたら、そうだったんで、女の所に行って、
「お前は今日かぎり家へくるな」というたら、三日後にその池に死んだ女の死体があったと。

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布甲神社・冨久能神社(宮津市小田)

『上宮津村史』(昭51・岩崎英精)に、

布甲神社

布甲神社が醍醐の延喜元年(九○一)に藤原時平らが上った「延喜格」の「与謝郡二十座(大三座、小十七座)」中の小十七座に含まれていることは明かで、それを布甲山の何処に祭祀したのか、古来さまざまにいわれて、いまもなお明かでない。しかし少なくとも平安初期には立派に祀られてあったことは否定できない。そこで明治十七年五月に調査された「小田村進達係社寺取調」の京都府へ提出した文書によると−冨久能神社(宮津市小田)

 村社  冨久能神社
丹後国与謝都小田村字宮ノ下二七五・二七六番地
一、祭   神    不詳(天吹男之命カ)
一、由緒
    勧請年記不詳、明治六年二月十日旧豊岡県ヨリ村社被列
    式内布甲神社ト古老ノロ碑ニ云伝フ
一、境内       三千三十六坪
一、境内一社
    日吉神社
     一、祭神     大山咋神(命)
     二、由緒     不詳
   一、 氏子戸数     五十八戸
     明治十七年五月十二日
神主  牧 正就
総代  宮本宇平治                 宮本安左衛門
    沖上多七
戸長  粉川市右衛門
                 
一、参考
抑、布甲トハ如何ナル意義力卜云フニ、布甲神社ノ祭神ハ「天吹男命」卜称スル神ニシテ「吹男」ヲ「布甲」卜訓ミテ社名トナシ、社名ハ即チ山名卜ナレルモノナリ。而シテ天吹男命ハ如何ナル神ニ座スカト云へハ、本名ハ「大直毘命」卜申シ、此ハ福ヲ直サント欲スル御霊ニヨリテ成座シ、天照大神ノ和御霊神ナリト神代系ニ見ヱタリ。此神社ヲ中古仏教ノ盛大ニ他ニ移シ、之ニ代フルニ普賢菩薩ヲ安置シ、普賢徳卜大直毘神ノ神徳トハ符合セル所アルヲ以テ大直毘神即チ普賢菩薩ナリト唱へシモノゝ如シト云フ。暫ク記シテ参考トス。

とあり、この調査は冨久能神社に関するものであるが、実際は不明の「布甲神社」について記した文書である。では官庁の調査はどうであったか、いま明治初年の豊岡県および京都府が調査した「丹後国式内神社取調書」によると−

  布甲神社
  一、田数帳「普甲寺卜云見ヱタリ」
  二、丹後・但馬神社道志流倍(但馬朝来郡宮本池臣ノ考輯)「未考、布甲峠ハ与謝郡加佐郡ノ間ニアル高山ナリ、沙石集ニ布甲寺ノ僧ノ事ミヱタリ、考フベシ、担今宮津ノ奥ニ宮村八幡卜云アリ、二丁バカリ山ニ上リテ社アリ式社ノアリサマナリ。」
  三、丹後国式内神社考(籠ノ神社権禰宜大原美能里)「普甲峠ノ中間ニ普甲寺ノ跡アリ、夫レヨリ少シ隔リテ鳥居アリ、普甲神社ナルコト疑イナシ。サレド寺ハ廃絶シ、分散セルトキ神社モ何地へ力遷セシナリ、今之ヲ考フルニ小田村ノ内字冨久卜云地ノ神社是ナルベシ。或書ニ布甲神社ハ天之吹男命、今云温江峠ヲ吹尾越亦吹尾峠ト云、又旧記ニ岩窟内有風気云々、俗謂風穴云々トアルヲ考フルニ吹尾峠ハ布甲峠ノ旧名ナルヲフカウト呼ナラン、布甲ト書ルナラン。冨久ノ地ニアル社中古来妙見宮ト称シテ太シキ古社ナリ」
  四、神社覈録「布甲山ニマス」
  五、明細(式内神社明細帳カ)「小田村祭神迦具土命、祭日七月廿四日」
  六、豊岡県式内社未定考案記「同村冨久能神社最モ古社ニシテ氏子モ多シ是ナランカ」

と結び、「二、丹後・但馬神社道志流倍」が宮津町宮村八幡宮をあげているほか、大体いずれも小田村冨久能神社が布甲神社であろうというのである。
 さらに地方郷土史家として、とくに地方の式社考証に尽力した故永浜宇平氏が、昭和一五年五月発表した「式社史料拾遺」中、布甲神社については−
冨久能神社より与謝の大山をのぞむ
布甲神社
一、丹後細 見録
 布甲神社、普甲山、延喜式並小社、祭神、冨久能大明神・天吹男命

二、大日本史国郡誌
    宮津(郷)、後日宮津荘、有宮津川宮津城、有寵多由・布甲社延喜式
三、丹哥府志
    「布甲神社」延喜式
  布甲神社は今ある処を詳にせず、或云布甲神社は元亀二年普甲寺と同じく廃すという。又云今の内宮は村の名にあらず、
内宮あるを以て遂に内宮村と称す。元晋甲村と称す。蓋一郷の惣名なり、よって布甲神社は今の内宮なりという。二説、未だ孰が是なるを知らず。
四、橋立新聞(大正十四年八月十五日紙上)
    富久能神社
      −延喜式内布甲神社か−
 村役場に立寄って布甲神社の所在を聞いて徒うこと僅かで宮津御城下一里塚に達し亜で小田に入ると金山というがある。昔金鉱が出た処だとかで、ツイ近年も採掘を試みたものがあったとの話、村外れに老樹欝蒼神々とした鎮守の森があり、社頭の華表に富久能神社と扁額が懸っている。延喜式布甲神社蓋し是れではないか、抑も与謝郡内延喜式内社で今所在の判明せぬもの吾野神社、阿知江神社、布甲神社の三つある。其他にも疑わしいものは二三ないでもないが、如上の三社は先ず所在不明と謂って差支ない。丹哥府志、丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録、みな普甲山にありと見えて居れども、広い普甲山の何処の辺に祭ったかが分らぬ。
    所が栗田博士の神祇志料に「布甲神社小田村富久にあり、富久能神社と云う。即ち是也」と見えている。何は兎もあれ、鼻を掠めて崎だつ急峻な石段を攀じ登って神前に額いた。醍醐天皇延喜以来一千有余年祭祀に渝りのない神社であるか何うか。遽かに分られが、宮殿の階上に安置してある石獅子一対優に鎌倉時代か遅くも南北朝は降るまい。恭しく内陣を拝するに槙木の御神像、これ又同時代と見るべきか、世にも有難い御姿と拝察せられた。
    足利時代幾回となく戦乱の為めに踏み荒された此の土地に於て猶斯かる貴き御姿を汚さずに保存することを得たのは神慮のまします処であろうが、実際涙ぐましき迄に崇厳の気に打たれた。郡内でも最近多由神社の公認された実例もあれば、
 当社式内社として公認せらるる可能性を帯びて居ることも、全然否定すべきものでない。今の社殿は天保十二年四月再建の由であるが、向拝の竜の彫刻と象頭獅首(釈迦三尊の徴象)は何うしても当時のものと見えね。恐らく戦国以前の遺物であろう。境域の森厳と相俟って床しく感じた。

などと記し、その他大正四年上宮津小学校で編集された「上宮津村誌」中にも−

 二、神社
    冨久能神社
    東西五間四尺 南北二十間 百十三坪
    本村ノ南  祭神 不詳ナリ
    然ルニ本郡籠神社宮司海部武富氏ノ著「籠神社誌」ニ拠レバ宮津町南方上宮津村ヲ過ギテ加佐郡内宮村ニ達スル峠アリ此嶺ヲ布甲山卜云フ、此ニ布甲神社アリ山名ハ社名ヨリ出ヅ此社ハ延喜式神名帳ニ載セラレタル官社ナリ年代隔タリ今ハ何処ニ鎮座スルカ定ナラス、氏カ実地踏査ニヨリバ布甲山布甲神社ノ古址ハ今ハ普賢堂トナリテ普賢寺ノ旧跡トナレリ中古普賢堂ヲ建立セシ際、布甲神社ヲ布甲ノ麓ニ移シ後慶長五年京極高知入国ノ砌千歳嶺ト改メ、此際布甲神社ノ社名モ今ノ富久能神社ト書キ改メタルガ故ニ後世不明トナルト
ともあって、その他古来多くの文人墨客なども、或は記行に所感に、普甲寺や布甲神社について書いているが、いずれも大同小異で、事実は不明というばかりであるが、そのいずれにしても現在小田小字富久に鎮座する「富久能神社」を布甲神社の元地から移したものと考証することに一致しており、恐らく足利末期から徳川初期の間に普甲寺と共にその宮居を移されるか、荒廃しつくしたものと断ずるのほかなく、しかもこの布甲神社が上宮津村発祥の根元に多大の関係あることは、否みえぬことであろう。

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普甲峠

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、

普甲峠

     待つ 人は行きとまり つつあじきなく
        年のみ越ゆる与謝の大山

 後一条天皇の治安二年(一○二二)国司として丹後板列(いたなみ)の国府へ赴任する藤原保昌に従っていた妻の和泉式部は、普甲峠に立ってこのように歌った。
 式部の父は大江雅致(まさむね)といい、母は越前守平保衡(やすひら)の娘で昌子内親王の乳母をつとめた人である。当初和泉守道貞の妻となったので和泉式部といい、小式部内侍を生んだ。

     大江山いく野の道の遠ければ
        まだふみも見ず天の僑立   小式部内侍

 のち上東門院に仕えて弁内侍(べんのないじ)といった。情熱の歌人として知られ、冷泉天皇の皇子為尊親王と恋愛し、その次は武人藤原保昌の腕の中にとびこんではるばる丹後まで従って来た。丹後へ来たのは四○才の頃らしい。保昌が京へ去ったのちは藤原兼房の下に通っている。生涯を情熱に生きた人であったので丹後には心情あふれる歌を数多く残している。
 昔この辺は普甲村といい、丹後へ入る関門であった。寺屋敷の上に普甲寺の跡はあるが記録に残る式内社普甲神社の位置ははっきりしない。戦乱で普甲寺と共に焼失して金山の富久能神社へうつされたのではないか。
 京極高知は丹後入国の時この峠に立ち、普甲峠は不孝に通じるので「千歳嶺」に改めることとしたが、いつの間か再び元の名に戻ってしまった。
 平安以来の本街道は毛原−栃葉−辛皮−寺屋敷を経て普甲峠の鞍部を越えて上宮津の金山へ降りたもので、いまも寺屋敷から峠にかけて石畳が残っている。室町の頃、若狭の武田が度々攻めこんだのもこの道である。京極高広の時代に鬼茶屋−中の茶屋−岩戸へと新しい道が開かれ、その後の参勤交代にはこの道が使われた。普甲峠のいまの道の少し上に並行して当時の石畳の道が残っている。寺屋敷に普賢堂が残っているが、これが普甲寺の跡で、延暦二年(七八二)棄世上人が開基し、かっては寺領が関東にもまたがって二千石あったといい、この辺一帯七堂伽藍を有した大寺であった。
 小林一茶の徒然草のおらが春の中に「普甲寺の上人」という一文がある。
 両丹国境の天険要害の地にあるために、守護一色氏はここを丹後の第一関門として、普甲寺に常時多数の僧兵を置いて固めた。文和元年(一三五二)より開始された若狭の武田氏の侵略にあい、幾度か援兵を送って守り抜いたものの、明応七年(一四九八)五月二九日武田元信は大軍をもって普甲寺へ攻めこみ、普賢堂に火をかけ国守一色義秀は一門十三人とともに自刃し、勢いに乗じて峰山の吉原城まで攻めこまれたがかろうじて撃退している。
 その後もここが丹後の護りの第一関門である事には変わりなかったが兵火にかかった伽藍は修復できずに次第に手薄となってきたため度々破られて侵入を許している。一色氏が細川氏に破れて滅亡するまで二四七年間のうち一四○年間というものは防戦に明け暮れ、しかもその主戦場のほとんどがこの普甲峠であったのである。
 「夏草やつわものどもか夢のあと」この古戦場であるスキー場附近の五輪ヶ尾には、応永の頃討死した一色・武田の戦死者の墓が散在している。
 普甲寺は昔の面影はなく、本堂の礎石、弁財天、再建された普賢党のみが残り、宝篋印塔らしい物が僅かに形をとどめているが、田圃の中から仏像や器が出たこともある。普賢堂には美しい普賢菩薩が納められている。一見に価する。
 丹後第一の関門らしく、辛皮を見下すその眺望はすばらしく、ほととぎすの名所として知られている。

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真名井原・丹後国府・官道

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)に、

速石の里・真名井原
 籠神社のあたりを真名井原とよぶが、中郡の五箇にも比治真名井原があり、舞鶴、河守にもその名がある。真名井原の名のあるところ必ず豊受大神の伝説があり五穀をひろめた話が伝わっている。
 速石の里は拝師ともいい、和銅六年(七一三)丹後が丹波より分立してから中郡丹波の里から国府が移されたもので、初代の国司小野馬養(おののうまかい)は養老三年(七一九)七月よりの両丹の国司を兼ねていたが、三年後の養老六年(七二二)八月、はじめて奈良の都からはるばると着任している。
 国府は当初加佐の真名井原におかれていたというが真偽の程はわからない。
 府中におかれた国府は小松であったがその位置はどうもはっきりしない。田数帳の中にある印鑑社というのは国司の正印を納めた倉の守護神で、これは中野にある飯役明神と思われるのでそのあたりか、妙立寺の鬼子母神の附近ではないかといわれている。
 国府は寛喜元年(一二二九)正月に国司藤原公基によって大垣にうつされているが、真名井神社か籠神社の附近がそれではないかと推定される。国分尼寺についてはあったのかどうかもはっきりしていない。
 風土記逸文に「郡家東北偶有速石里」とあるので、郡家(ぐうけ)もこの附近にあったと思われる。
 丹後の国府の健児(兵士)は三十人ときめられており、印鑑宮(国司の印鑑を納める所)、国府八幡、法華道場跡が残っている。
 籠神社の北に真名井神社があるが、これか吉佐宮の跡ではないかといわれている。伝説によれば豊受大神は天照大神が吉佐宮へうつった年に小見比沼真名井原に降ったといい、また阿蘇海を渡って吉佐宮へ通ったという。真名井なる名は中郡よりうつしたものであろう。
 吉佐官については多くの説があり、このほか舞鶴市の紺屋町の神明山であるども、府中難波野の藤岡山であるとももいわれている。とにかく吉佐宮と真名井原と豊受大神と海部の名はどの場所であろうと切り離すことができないようである。
 奈良時代に丹後の国府に通じるには、大江山の双峰の鞍部を越え、駅について休憩をして服装をあらため、新しい馬に乗りかえて各辻堂を通過して国府へ到着したもので、そのコースは次のようである。
 天田花(前)浪里(駅)−大江山麓の山郷(さんご・駅)−加悦町与謝の宇豆責(うすぎ)−平林−小倉山−今江−土山−桑飼の檜谷−堂の岡−入谷−石川の谷田−平田−表地−由里−堂谷−石田の堂ヶ瀬−板列−国分寺−国府このあたりから岩滝へかけては板列の里(いたなみ)とよばれた。

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沓島と出口ナヲ

『舞鶴文化懇話会会報』(59.7.8)に、(図も)

 (舞鶴市文化財保護委員)清水厳三郎

沓島

沓島…冠島は一島ですが、沓島は二つの島からできています。北の方を釣鐘島といい、南を棒島と称して、共に80m余の高さで周囲は300m余りの島です。冠島は老人島神社の鳥居あたりから南方にかけて上陸可能な平地がありますが、沓島は周囲がすべて険しい絶壁で、砂浜や平地などは1ケ所もありません。樹木も冠島がダブノキ・モチノキ・スダジイなどの原生林におおわれているのに対して、沓島はツバキの低木や草本生植物が頂上附近に少々生えているだけで、島の大部分は裸岩で、非常に厳しい雰囲気が漂っている島です。…

 ところで、沓島の南側で入りくんだ絶壁の岩上に、一つの人工の石碑が立てられています。石は自然石で、高さは50cm位の小さなものですが、そこに石文(いしぶみ)が刻まれています。その文字は「大本開祖修行の地」と彫られています。この沓島は、綾部で発祥しました大本教の開祖出口ナヲの修業の島でもあったのです。 明治38年5月15日から25日までの11日間、当時68才であった出口ナヲは、2人の青年信徒を供につれて、「沓島ごもり」という大荒行を、この島で実修されています。ナヲは毎日、海水で禊(みそぎ)をしては沓島の岩膚に神名を刻み、岩窟のくぼみに燈明をあげて、一心に祈願をしつつ、「お筆先(ふでさき)」といわれている御神書を記されたのです。
 沓島は大浦半島の三浜・小橋・野原の共有財産です。私は出口ナヲの修行について、当時の3ケ村の管理者はどのように思われていたのか、古老を訪ね歩いたことがあります。その頃の村のうわさ話によりますと、漁師たちが沓島周辺へ新しいワカメやサザエ、アワビを採りに行って、はじめて沓島のナヲの人影を発見した時の驚きは大変なものであったそうです。ナヲの修行は島の管理をしている3カ村に何の連絡もなしにおこなわれていたのでしょう。女人禁制の島に、老婆が上陸しているはずはないと感じた漁師たちは、バルチック艦隊が日本海へ近づいてくるという騒然とした世界情勢でもあったので、白髪を長くのばしたナヲの姿を、ロシア人のスパイと見誤って、村の駐在所に知らせるやら、舞鶴の海兵団に報告するやらで一時は村中が大騒ぎしたそうです。
 大本開祖の出口ナヲ一行が漁師の舟で沓島を引きあげ、西舞鶴の新橋たもとの大丹生屋へ帰着したのは、明治38年の5月25日でありました。その2日後の27日に日露戦争における日本海大海戦があったのです。
 大本の信仰者の人々は、今でも沓島を霊場として大切にまつっておられます。開祖出修の記念日には沓島へ全国から参拝団が船で来られますが、上陸をされるのは祭員の人々と厳選された数人の代表者だけと聞いています。しかも、上陸を許された信者さんは、1ケ月前から肉食類は禁じて、ひたすら身心を清めたものだけが沓島参拝をされているということです。大本の信者さんは、「雌島さん」と称して沓島そのものを信仰の対象として拝んでおられるのです。…

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冠島と山本文顕

『舞鶴文化懇話会会報20』(60.7.21)に、

「冠島」  清水 厳三郎

…丹後半島の古老− 伊根町新井崎の故佐藤清次郎翁(明治二十一年生れ)は「合わせ火」という言葉を教えてくれました。現代のように発動機をつけた漁船なら沖あいで時化(しけ)に出合っても、すぐ港へひきかえせますが、一本の櫓や一枚の帆がたよりの小舟時代には、突然の荒天に遭遇した時、冠島に避難したものです。
 明治二十八年一月八日のこと、家の戸もふき飛ぶような大風になった。その日、新井の漁師が一人乗りの小さな舟でジイラ釣りに沖あいへ出漁していた。西北の大風で海は荒れ、村の人々は帰らぬ小舟を心配して海に面した丘に集まっていた。夕方になって風もおだやかになると、村人は高台にワラや枯木を積み、それに火をつけて烽火(のろし)をあげた。そうして冠島の方を祈るような気持ちで見守っている。やがて冠島の方からも火をたく炎が夜空に見えると、村の人々は安心したという物語です。
 「合わせ火」というのは、丹後の海で出漁中に遭難した時、冠島に避難しているか否かを陸と確かめ合う方法なのです。はじめに陸側から島へ向けて火を焚く。その火のことを「送り火」とか「迎え火」という。これを見た島の避難漁師は陸へ向けて火を焚く。それを「受け火」と言い、陸と島とが確認しあった火のことを「合わせ火」と称したのです。
 このような言葉が丹後の地に残っていることでわかりますように冠島は古来より海上で荒天にあい遭難した時の避難場所として位置づけられていたのです。
 大陥没地震の時、海上に残ったといわれる絶海の弧島に、沿岸の住民は深い神秘性を抱き、神社を建て、丹後の海の聖地として昔からこの島の樹木には刃物を入れなかった。それに数万羽も棲息しているオオミズナギドリの鳥糞が良い肥料となって、島全体が自然の原生林でおおわれ、その島影がまた魚付林としての役目もはたし、漁師さんたちは信仰の上からも漁労上からも冠島を大切にしてこられたのです。
 昭和の時代になって日本が戦争をはじめようとしていた世相に、この冠島をめぐって舞鶴の郷土史家である一市民と軍港司令部との間に雄島事件といわれる大騒動が勃発しました。一市民とは今は亡き山本文顕さんという薬局を営んでいる人でした。事件の内容は、軍港司令部が昭和八年八月に次のような布令を発表したことから始まりました。
−冠島南端平地は海軍用地につき、海軍軍人軍属のほか乱りに本用地に立入るを禁ず。学術研究その他やむを得ず立入りを要する場合は、事前に当部の許可を受くべし−
 昔から三浜・小橋・野原の三カ村によって管理されてきた神聖な島に対して、司令部は冠島の山頂に軍港舞鶴を防衛する施設を築き、上陸を禁止する布令を出したのです。今まで沿岸一帯の漁民が心のよりどころとして信仰してきた老人島神社参拝の自由が奪われます。また丹後の海で出漁中、荒天に遭遇したとき「事前に」申し出て「許可を受くべし」では緊急に避難することもできなくなります。
 そこで郷土史家の山本文顕氏は、沿岸漁民の苦悩を代弁して、名前が「文顕」のごとく得意のペンでもって敢然と司令部に対して布令を取りさげるよう迫ったのです。当時、海軍が最も威力を発揮していた舞鶴において、当地方紙「新舞鶴時報」に −没義道な海軍当局の上陸禁止令−と題した長文の寄書を十六回にわたって連載されます。その内容は冠島の地籍・地誌・植物をはじめ、島に関する神秘・伝説・風習・祭事を郷土史家としての豊富な資料をもとに克明に書きあらわしたものです。
 それに対して海軍側は、法令を発布した目的は天然記念物のオオミズナギドリや冠島を保護するためであると弁明しますが、山本氏は「神より人より鳥が大事か」という見出しの公開質問状で応戦します。そして辛辣な批評で布令の廃止を要望しました。事件が広まるにつれて海軍側は、信念に燃えて迫ってくる文顕氏のペンの攻撃に対して侮辱罪で告訴しました。告訴された山本氏は堂々と法的に応戦したのですが、舞鶴区裁判所は「被告人ヲ科料拾円ニ処ス」と有罪の判決をくだしました。
 この判決に不満な各漁村では漁民大会を開いて当局に陳情し、また京都府会も海軍の法令を廃止する要望書を採決可決しています。山本氏自身も京都地方裁判所、さらに大審院まで控訴したのですが、軍部が指導権を握っていた当時の日本の情勢からは「科料拾円ニ処ス」の判決以外には何の答えも返ってきませんでした。
 その後、海軍は冠島の頂上付近に兵舎を建て無人島で自然のままであった原生林を伐採して大きな水槽をつくったりしています。警備兵の往来によりオオミズナギドリの巣穴も踏みつぶされたことでしょう。古来より老人島神社をまつり、神聖な冠島は、日本が昭和二十年の敗戦をむかえるまでへ海軍の権力によって支配されていたのです。
 冠島がオオミズナギドリの繁殖地として、国の天然記念物に指定されたのは大正十三年十二月九日です。日本海の近辺では島根県隠岐の星神島も指定されていますが、それは昭和十三年です。冠島が日本で最初にオオミズナギドリの繁殖地として指定された背景には何があったのでしょうか。明治四十二年六月二十二日には、京都府告示第三十九号で、この島を禁猟区としています。
 綾部の大本教祖、出口王仁三郎箸「霊界物語」第三十八巻には「冠島」「沓島」「禁猟区」という章があります。発表されたのは大正十一年十一月ですが、そのなかで鳥の密猟のことが出てきます。横浜や神戸あたりからも団体でやってきて、何万羽の鯖鳥(さばどり)を密猟したとか、神聖な島にわら小屋を建て、日夜鳥網を張りめぐらし、棍棒を携帯して信天翁(あほうどり)を捕獲していたとあります。当時の丹後地方では、オオミズナギドリを「サバドリ」とか「アホウドリ」と呼んでいたのです。冠島に棲息するオオミズナギドリを捕獲し、その羽毛を羽蒲団の材料にしていたのです。もちろん鳥や卵を食糧にもしたでしょうし、なかには多量の鳥糞を肥料として売る商売もやっていたようです。…

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大江山はどの山

『舞鶴文化懇話会会報19』(59.7.8)に、

私の大江山    二条左近

 大江山について考えてみると、もっとも素朴な疑問にぶっつかる。それは大江山とは一体どの範囲を言うのだろうか。どこからどこまでを大江山というのだろうか、ということである。大江山の範囲というのは府で決めているわけでもなく、関係市町村が寄って決めたというわけでもない。どんな約束があるわけでもない。大江山にかかわることに関しては、宮津市・福知山市・大江町・加悦町の四市町が寄り寄り協議など行われているようである。大江山の地籍がこの四市町に股がっているからである。私が持っている大江山に関する案内や研究の著書の中で大江山の範囲を示したものは次の3つしかなかった。すなわち「京都北部の山々」創元社刊、「丹後の宮津」天橋立観光協会刊、そして「大江山の伝説」自衛隊福知山駐とん地(七普連)刊である。このうち「京都北部の山々」「丹後の宮津」の2冊はいずれも西は与謝峠から東は普甲峠までとしている。「大江山の伝説」は、「千丈ケ岳(833米)を主峰に鳩ケ峰、鍋塚、洞窟の山、普甲山(赤岩山)を総称して大江山という。」というように書いている。前者の2つについては常識的であるが、後者の「大江山の伝説」は少し心もとない書きかたである。東の端の赤岩山が含まれているのは私も賛成だが、西の端の赤石岳が除かれているのは心外だが、これの著者は自衛隊福知山駐とん地の人で土地の人でないため地理に充分明るくないための結果と思われる。大江山というのは大江山連峰の主峰をなす千丈ケ岳を大江山とも呼んでいるが、普通大江山という場合はやはり連峰の総称であるべきであろう。大江山スキー場というのは普甲峠の西側の斜面である。即ち杉山(697米)の西斜面である。とすれば明らかにこれは大江山と一連の山である。杉山の東は更に赤石山(669米)が連なり、その東の端は舞鶴市の長の室、宮津市の奥山に裾を引いている。赤石山、杉山は遠くから眺めても明らかに大江山と一連をなす山嶺であってこれを大江山から外すのはすこぶる不自然である。私の意見としては、大江山というのは西の赤石岳(736米)から千丈ケ岳(833米)、鳩ケ峰(746米)、鍋塚(763米)、鬼の岩屋(686米)、大笠山(738米)、杉山(697米)、赤岩山(669米)に至るこれだけの連峰を大江山と考えたい。私は今後この範囲を大江山と呼ぶことはする。前述したとおり大江山にかかわる市町は宮津、福知山、大江、加悦の四市町となっているが、私の説によると舞鶴も加担することになる。即ち西方寺平は赤岩山の中腹に在るし長の室は赤石山の裾に在るからである。舞鶴市民の中にも大江山に親しみ関心の深い人たちがずい分多い。折があればそれらの人々との交歓の機会を持って、いろいろと話し合ってみたいとも思っている。…


素朴な疑問が意外と核心をつく場合がある。私めの意見としては大江山伝説の伝わる山々が大江山だと考える。自然的な山塊というよりも伝説的な意味合いの強い命名であろうと思う。東西の赤岩山は一続きの連山の一部だが伝説が伝わらず加えてもらえそうにもない。普甲峠より与謝峠まででいいと思う。

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『京都府の地名』に、

大江山

 丹後・丹波の境、加佐郡大江町、与謝郡加悦町と福知山市の境に位置し、地形上モナドノック(残丘)をなすといわれる。三角点は加悦町と大江町との境にある。丹後山地の中央を占め標高八三二・五メートル、千丈ケ嶽ともいう。山頂からの展望はよく、能登半島・伯耆大山まで見えることがある。加悦町・大江町から登山路がある。
 大江山一帯は古生代後期に形成されたと考えられる変質古生層地帯で、内宮から仏性寺にかけては塩基性の火山灰が固まった輝緑凝灰岩や角岩などが母岩であるが、はとんどが変成してきわめて固い頁岩状の岩になっている。しかし鬼ヶ茶屋以北は緑色がかった橄欖石がほとんどで、大部分が蛇紋岩に変質し、大江山蛇紋岩地帯といわれる。橄欖岩の隙間に板状に含銅硫化鉄鉱床(黄銅鉱・磁硫鉄鉱など)が存在する。昭和初期から採鉱が続けられたが、昭和四三年(一九六八)閉山した。また加悦谷側ではニッケル鉱を採掘していた。
 大江山には二つの鬼退治伝説がある。一つは用明天皇第三皇子麻呂子親王の鬼賊退治伝説で、近世の地誌「田辺府志」の「京極高知訓誨庶臣事」に
  それより丹後与謝郡河守庄鬼賊棲家尋いり給ひしに、彼鬼窟に英胡、軽足、土雲或説土車三鬼なにごゝろなく居ませしに、無二無三に切籠給ひ三鬼のうちたやすく二賊を討留られしに土熊一鬼討漏し給へば逃去て竹野郡にかくれいりしを四臣を先魁としてまた彼所にいたり見絵ふに岩音にふかく竄れて見えざりし程に、路にて白犬奉し宝鏡を松枝に懸給へば鬼形明らかに照し露せし程に力を労し給はず生捕らる、其時其松を鏡懸松となづけける、此時より国中安穏におさまりたり、
とあり、これはみな神仏の擁護によるとして、七仏薬師を本尊とする七寺、施薬(せやく)寺(現与謝郡加悦町)・清園寺(現大江町)・元(願)興寺(跡地は現竹野郡丹後町)・神宮寺(現丹後町)・等楽寺(現竹野郡弥栄町)・成願(じょうがん)寺(現丹後町に現存するほか、現宮津市にも同様の伝えをもつ寺があった)・多禰寺(現舞鶴市)を建立し、その後天照大神の宝殿を営建して勧請し、熊野郡の少女を斎女に奉ったと記す。このほか皇大神社(現大江町)をはじめとして丹波国天田郡から丹後国にかけて、麻呂子親王に関係する伝承をもつ社寺が多い。
 一つは中世のお伽草子「酒呑童子」、謡曲「羅生門」「大江山」などで知られる源頼光鬼退治伝説である。しかしこの伝説の舞台といわれる大江山はもう一ヵ所ある。山城と丹波の境、現京都市西京区大枝沓掛町と現亀岡市との間にある老ノ板付近の大技山がそれである。
 「羅生門」に「これは源頼光とは我が事なり、さても丹州大江山の鬼神を従へしより此方、貞光季武綱公時、此人々と朝暮参会仕り候」という。お伽草子「酒呑童子」には、
 丹波国大江山には鬼神のすみて日暮るれば、近国他国の者迄も、数をも知らずとりて行く。(中略)程もなく、丹波国に聞えたる、大江山にぞ著き給ふ。柴苅人に行逢て、頼光仰せけるやうは、いかに山人此国の千丈嶽はいづくぞや、鬼の岩屋を懇に教てたべとぞ仰せける。
とあり大江山を千丈ケ嶽とする。一方謡曲の「大江山」には「秋風の、音にたぐへて西川や、雲も行くなり、大江山」とあり、「西川」とは桂川をさすと考えられ、これは老ノ坂の大枝山をさすといわれる。
 近世に流布した鬼退治伝説は大江山を千丈ケ嶽とするものが多いが、大技山とするもの、また老ノ坂を千丈ケ嶽の鬼窟の支城とするものなど様々である。千丈ケ嶽をめぐつては、頼光主従が血染の衣を洗っている姫に会ったという二瀬川(宮川)付近の衣掛松・洗濯岩、一行が休息した鬼ケ茶屋、そのほか童子屋敷跡・頼光腰掛け岩・鬼の足跡などがある。
 また「中右記」永久二年(一一一四)九月三日条に「夜強盗同類一両人搦取候了、令問之処、丹波、但馬、因幡、美作等国人卅人許同意所為也、入大江山取分臓物、各帰本国了、件交名秦覧之、仰云、早可尋沙汰」とみえ、延応元年(一二三九)の関東御教書(新編追加)には
  鈴鹿山并大江山悪賊事、為近辺地頭之沙汰、可令相鎮也、若難停止者、改補其仁、可有静謐計也、以此趣、相触便宜地頭等、可被申散状者、依仰執達如件、
   延応元年七月廿六日  前武蔵守泰時判
              修理権大夫時房判
   相模守殿
   越後守断
と大江山がみえる。これらの大江山がいずれかは確定しがたいが、先述の鬼退治伝説を想起させて興味深い。
 大江山は修験道の霊山であったとの説もある。千丈ケ嶽の「せんじょう」は、行場であるような高山の頂上を意味する修験道関孫の「禅定」という言葉であり、「役行者本記」に役行者の踏破した山の一つとして丹波大江山があげられていること、鷺流狂言「蟹山伏」 の冒頭に「これは丹波の国大江山より出でたる駆け出の山伏です」とあること、あるいは同種の伊吹童子伝説で知られる伊吹山(現滋賀県坂田郡伊吹町)も修験霊場であったことなどからの説である。
 なお大江山は、古くは「万葉集」巻一二に
 丹波道の大江の山のさね葛絶えむの心我が思はなくに
と詠まれる。しかし「丹波道」は丹波の国に行く道という意味なので、この「大江の山」は山城から丹波に至る峠、老ノ坂すなわち大技山をさすとする説が有力である。また歌枕として、歌学書「五代集歌枕」「和歌初学抄」「和歌色葉」「八雲御抄」などにいずれも丹波として記されている。証歌は先引の「万葉集」であるが、ほかに次のような歌がある。
 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立
           小式部内侍(金葉集)
 大江山こえていく野の末遠み道ある世にもあひにける哉
           刑部卿範兼(新古今集)
 草枕夜半のあはれはおほえ山いくのゝ月にさをしかの声
               (後鳥羽浣築)
 夕すゞみ大江の山の玉葛秋をかけたる露ぞこばるゝ
             藤原定家(拾遺愚草)
 大江山いく野の草のかれがれに嵐の末につもる初雪
                (順徳院集)
 これらの大江山が、千丈ケ嶽か大枝山か必ずしも明確でないが、生野(現福知山市)と詠み合わせているものは千丈ケ嶽であろう。

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鬼坂峠(右坂)(岩滝町*大宮町)

『岩滝町誌』(昭和45)に、

鬼坂峠の地蔵堂
 称名寺前から鬼坂峠を経て中郡森本に至る道路は昔奥三郡の本街道として重要視されていた。明治三十年、府及び郡の補助により頂上を切下げ、車が通れるようにした。
 鬼坂の名称は用明天皇の時代(五八六〜五八七)、磨呂子親王によって退治された鬼の内の土熊が竹野郡へ遁走する際この峠を越えたからこの名が付いたといわれ、更に百年程前の雄略天皇の時代(四五七−四八九)、伊勢の大宮司、大佐々命が豊受皇大神を中郡峰山町五箇の真名井神社から府中一の宮に遷宮の際大荷物がこゝを通ったので、大荷坂(おゝにざか)と称する様になったと伝えられ、又、一説には森本から中郡大宮町周枳に越す左坂(さゝか)に対し、この坂を右坂(うさか、うんざか)といい、更に今一つは樵夫樵婦のもっとも多く通行する坂で負荷坂(おいにざか)と称す、等いろいろの説がある。
 頂上には権現の森や石の唐戸があり、路傍には三重城主大江越中守が天正年間(一五七三〜一五九一)に寄進した三猿の内の言わざる(猿)の立像がある。この峠を西側へ一○○メートル程下った所に嫁ケ墓の古跡があり、更に五、六丁下った所に三木松の地蔵堂があって石地蔵が安置されている。

嫁ケ墓  森本村(中郡、大宮町)に富豪があった。年頃の娘があり大変美人であったので、岩滝の富豪が懇望し、扇子納め、結納といった儀式も終っていよいよ黄道吉日を選んで婚儀の当日となった。
 花嫁は駕、二十荷の荷物はそれぞれ人足が担いで一丁に余る行列、二十丁の坂道を先頭が頂上に達すると、一ぷくというので荷物を路に下ろし、汗を拭くもの、小用に立つもの…………。十五分間も休憩するとまた出発となった。ところが駕があまりにも軽くなったので視いてみると花嫁が居ない。さあ大変。総がゝりで山や谷を八方手をつくして捜したが全然行方が判らないので元来た道を引返すより外なかった。
 当時はよく神かくしとか、天狗にさらわれるとかいって突然行方不明になった男女が少くなかった。そして一年も経過して偶然帰ってきたり、高い木の股に掛けられて人事不省になっていたり、山の上の愛宕堂の天井裏にかくされたりした例もあって、花嫁が余りに美人だったから魔神にさらわれたのであろうということになり、その日を忌日とし、路傍に嫁ケ墓ができた。
これ以来この森本峠鬼坂は中部の本街道であるに拘らず、嫁入りの一行に限り迂回して大内峠、又は五十河(いかが)越えに路を取ることとなった。
 ところが後日譚として伝えるところによると、後年、森本の者が伊勢参宮をして、街道に森本屋という店を見つけ、買物に入って見ると、驚いたことには女主人が嫁ケ墓の主であり、噂のあった恋人も一緒らしいことが判って、伊勢参りの土産噺にしたということである。

白山権現  鬼坂峠の頂上、椎の老木にかこまれ、社殿はなく高さ一メートル、横五○センチメートルの石の唐櫃(からびつ)があるのみ。
 伝えられるところによると加賀の白山から分祀されたもので、中郡と与謝郡の境界線の遺物の一例であるといわれている。(昔、境界線で悪魔、悪病を神仏の威力で防禦せんとした)農家に信者が多く、白山権現に祈願をすれば、鳥の被害から免がれるといわれているが、その理由は詳らかではない。祭日は四月十日で神官、区長、農家の信者等が参拝し幟を立て、神酒を酌む慣習になっている。

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『大宮町誌』に、右坂と右坂地蔵(下ると大風呂南遺跡に出るはず)

(右坂)

 周枳より森本に通ずる峠の道を左坂と呼び、森本より岩滝に通ずる峠の道を右坂という。左坂および右坂にはいずれも峠の頂上に地蔵尊を祀っている。この地蔵は文珠堂前にある大江越中守の等身の地蔵の背銘にある応永卅四年(一四二七)奉納された一千躰の仏像の内の地蔵である。地蔵は屋根形造り付けの地蔵で、左坂、右坂とも高さ約一m、幅三三p、左手に錫杖を持ち右手の肘をまげて四指を軽く頬に支えとした姿であり、足は左足を屈げ右膝を立てた半跏像である。右坂の地蔵は丹後林道工事のために峠を越えて岩滝側に移され、岩滝町教育委員会の手により台座をコソクリートで造り花立を立てて奉祀している。左坂の地蔵は山の土に半ば埋没しかけていだが、今回掘り出した。なお、「丹哥府志」に左坂を「言わざる」右坂を「聞かざる」内海の菩薩岩の地蔵を「見ざる」としているが、そのような三猿の姿の地蔵とは言えず同一の形である。「三重郷土志」は左坂右坂の峠に地蔵を祀るのは賽の神として峠を守り災禍を消除する信仰によるという。地蔵が転用ざれ賽の神として祀られたのである。

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『おおみやの民話』(町教委・91)に、右坂峠(鉄塔の右下・鉄塔の向こう下に大風呂南遺跡)

右坂峠の鬼婆退治

 森本 堂本房枝

 昔、右坂峠に鬼婆がおったそうなが、人が通ると出てきては、殺して食べてしまったそうな。
あるとき、市五郎さんいう人が、
「鬼婆を退治したる」いうて、鬼婆がおらんときに、その家に忍びこんで、たかにかくれとって、鬼がもどって来て、風呂をたいて入ったら、風呂のふたをかぶせて、その上に重石をのせて、下から火をたいて、たいて、焼き殺しただって。

しばられた狐

      新宮 井上 保
 森本の五郎兵衛さん、牛のくらに米つけては、右坂を越えて岩滝の町へ売りにいった。あるとき、五郎兵衛さん、米売りのもどりに、油楊貫うて、その油揚を、牛の背中につけて右坂をもどったら、坂の中ほどで、足の悪い娘が先きの方をチコタン、チコタンしもって歩いて行くだって、それて五郎兵衛さん、
「足が悪いなら、牛の背中に衆せたろか」いうたち、実は狐の化けた娘だって、牛の背中につけた油揚が目当てだったもんで、喜んで乗ったそうな。そうしたち、五郎兵衛さん、落ちると悪いでと、娘を縄でくくったそうな。そして牛の尻をたたいて、どしどし坂を越えた。もう森本の見える所にきたら、娘が、
「おろしてくれ」いうだって、そこで五郎兵衛さん、
「まあ、森本まで乗んなれ」いうておろしてやらなんだ。そうしたら、狐は困ってしまって正体現して、大きなしっぽをだしてしまった。そうして、あばれたげなが、縄でしばられてるもんだで、にげられんだげな。そこて五態兵衛さん、
「わりゃあ、悪さばっかりしとる狐でないか。殺してしまったる」いうたら、狐が泣きながら、右坂登り口(大宮町側)
「もう決して悪いことはしません」いうんで、そんならと、縄をほどいてやると喜んでにげていったそうな。
 それから右坂には、悪い狐は出なんだそうなが、その後、五郎兵衛さんが、伊勢参りに行ったとき、桑名の近くの山の中て休んどると、一匹の狐が出てきて、「五郎兵衛さん、五郎兵衛さん、その時はありがとう。いまはここにおるわいな。桑名の山ん中にいるわいな」というたと。

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いわ猿が埋まっとった
     延利 由村 金光

 五十河のだれかさんが、岩滝の町に行っての帰り、道戸(どうど)の滝の下を通ったそうなが、ちいと通りすぎたら後の方で、どうも人の食い合うような声がする。おかしいなと思って、あとふりむいて見てもなんにも見えん。それでまたちいと歩いたら、また同じような声がする。それで、にわかに恐なって、急いで帰って寝たそうなが、夜半に夢みせがあって、一匹の猿が出てきて、
「わしは滝谷のいわ猿だ。土がくずれて、頭の上にのっとって、いたてかなわんで、どけてくれ」いうで、夢がさめた。ぞれで、朝間早よう滝の下に行って見たら、案のじょう、一丈あまりのいわ猿が、土で理まっとった。ぞれがいまのいわざるだ。

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大内峠(岩滝町*大宮町)

『岩滝町誌』(昭和45)に、

大内峠  大内峠は樗嶺とも王落峠とも書かれている。大内は大内山の名にあこがれてつけ、樗嶺とはその昔頂上に巨大な樗樹(おうちの木)があったのでその名がつき、王落とは寛平法王(竹野郡網野町銚子山にその陵がある)が落ちていったからこの名が付いたといわれている。
 又、一説には異王谿城(岩滝)に隠棲していた応神天皇の皇子異母兄妹隼総別命女雌鳥王が落ちていったので王落峠と書くのであるとも伝えられている。大内峠は若狭湾国定公園の一部で岩滝町弓木と中郡大宮町三重の境にあり、標高一六六メートル、府道大宮岩滝線が通じている。
 頂上には妙見堂があってこの辺からはどこからでも天の橋立が眺められる。南北真一文字にのびた橋立は与謝の海と阿蘇の海を区切ってまるで天のかけ橋を見るようである。天橋立の名の生れた由縁もこの峠から見て始めてうなづける。天橋立眺望四大観(東栗田峠、西大内峠、南桜山、北成相山)の中で随一といわれ、明治から昭和二十年まで小学校五年生の地理教科書に天橋立の写真が掲載されていたが、この写真は大内峠から写したものであった。
 この峠からの眺望は格別で、北に府中、南に吉津を眺め眼下に岩滝町が展けている。
 大江の連山から倉梯山、加悦谷平野を流れて阿蘇の海に注ぐ野田川、川裾の森、日本冶金の大煙突から吐く四条の白煙、狼烟山、須津峠を遥かに由良獄、青葉山、栗田半島突端の黒崎、冠島、沓島、伊根町、鷲崎、府中傘松、成相山、鼓ケ岳、水平線上には越前の山々、冬のよく晴れた日には傘松の上に白雲におゝわれた加賀の白山が雄姿を現わし、まるでパノラマを見るようである。
 峠には松の老木、桜、楓「天保年間(一八三○〜一八四三)に高雄から移植したといわれる」が、四季を通じて変化に富み風趣をそえる。
 又この峠は松尾芭蕉、与謝蕪村、頼山陽、中島棕蔭、五升庵、蝶夢、高浜虚子、など古今の文人墨客の杖をひくもの引きもきらず、与謝野寛、晶子の歌碑をはじめ、蝶夢、樗牛、洗心、碧梧桐の句碑、小室信夫翁の記念碑、一字観公園の碑など数々の碑が幾十星霜を経て苔むしている。大内峠(頂上付近)
 大内峠は徳川時代峯山藩の参観交替の本道であり、宮津藩の検札所があった。頼山陽が中島棕蔭と清遊した時名をつけた一字観彳テ(てきちよく)楼茶屋が明治三十年頃まであった。又、昭和二年丹後大震災までは天野重右術門茶屋があって自慢の手打ちうどんや妙見餅に舌づつみをうったものである。
 国鉄宮津線開通前は奥三郎に通ずる雄一の要路として日夜二十数台の馬力車が岩滝から峰川、網野へ往復、生糸、紡績ちりめん、日用雑貨類を運搬し大いににぎわった。現在は頂上まで三キロ半をドライブウエーとして天下の絶景天の橋立を眺めながら心ゆくまで快適なドライブを楽しむことができる。
麓弓木区では昭和三十六年四月、大内峠保勝会を結成し、全山を桜、つつじ、楓で埋める計画をたて観光と開発につとめている。

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『おおみやの民話』(町教委・91)に、(イラストも)

大内峠の狐退治
  周枳   堀 正治

 大内峠に、よう化かす狐がおって周枳(すき)の若い衆連中が、秋仕事がすんで晩げになると、よっちゃあ(寄っては)話しとった。そのなかに徳さんという力もちがおっただし、「いまごろよう狐退治に行っちゃあ、丸坊主にされてもどってくる」いう話しが出て、
「そんなことだったら、わしが一ぺんこに連れてもどったる。明日の日の暮れにはもどってくる」いう約束して別れただし、あくる日、徳さんは腰にようけ縄をさげて、峠に行って休み場の腰掛け石に腰掛けておると、岩滝の方の道から、人の来るような気配がして、見ると、狐が出て来て、『何するだろうな』と見とると、いろいろと身体の方さわったりしとると、しらんまにべっぴんになった。
『あれが化かす狐だな』思っておると、娘に化けた狐が出てきて、
「あんたどこ行きなるだ」いうで、大内峠の狐
「あのう、宮津に行こう思うだけど」いうたら、
「ああわしも行きたいとこだけど、連れが無うて、もう淋しいとこだで、あんたかまわなんだら連れにしとくんなれな」いうで、徳さんはもう心の内で『こんなことに化かされるかい』思って、
「ああ連れていったる」いうて、手を、ぎゅっと握った。思いきり、そして、これをはなさんようにせんならん思って、そうして、岩滝の方へ下りかけたと。そうしたら、
「手をちいとゆるめておくれえな、いたてしょうがないわな」いうで、
「あほうなこというな、お前みたいなべっぴんをはなされるか」いうて、腰から紐だして、くくろうとしたら、
「こらえてくれ、手がいとてしょうがないて」いうで、
「お前なあ、わしを化かそう思っとろうがな、お前は、若け者の頭を丸坊主にしてしまう狐だ」いうたら、
「化けたのを見破られたか、たのむでこらえてくれ、もうそんなことはせんで、もうかんねんしたで、もう手えゆるめてくれ」いうで、
「手えゆるめもするけど、しばりもする」いうて、自分の手と一つにしてくくってしまうと、
「たのむでわしが悪かったで、もうせえへんでゆるいてくれ」いうたて、ほいで、
「いや手はほどいて縄だけにしていこう」いうと、
「もうこらえてくれえな」いうで、
「いや、わしが知っとるさかいいうでこらえられん、承知ならん」いうたら、
「そんなら、あんたにどえらい金もうけさせてあげるでこらえてくれへんか」いうた。そいで、
「どんな金もうけだ」いうと、
「わしがこれから、金の茶釜に化けるで、宮津へ行くと、こういう骨董物を、値よう買ってくれる家が白柏(しらかせ)にあるで、その家へ、わしを売りい行ってくれ」いう。
「ふうーん、そんなら化けてみ」いうと、
「そんならこの手をゆるめてくれ」いうで手をゆるめたら、クリッと一回ひっくり返ったら、ちゃんと、茶釜になっておったって、そして、ひもが茶釜の耳にかかっとったら、
「こいつがしんきいではずしてくれ」いうで、
「そうかそうか」いうてはずしてやると、
「そんなら、風呂敷に包んで負うて『茶釜いらんか』いうて、宮津の白粕のまんなかほどに、文派な家があるで、その家へ行きなれ、その家のは買うとくれなるで」いうで、
「そんなら、なんぼで売ろう」いうと、
「好きなように、百両なりと二百両なりと」いうことて、その徳さんがそれ背負うて、宮津まで出たらしい。そうして、白柏のあたりまで来て、
「茶釜」、「茶釜ー」「金の茶釜あ」いうで大声で呼んどったら、その家の中から、男衆が出てきて、
「茶釜やさん、家のお爺さんがお呼びだから、ちょっと荷いもって来とくんなれ」いうことで『ああほんに立派な家だなあ」思って入ったら、大けな家ださけあ、とっとことっとこ、その一番裏に立派な隠居所があって、そこでお爺さんが出て来なって、
「お前え、金の茶釜いう声がきこえたけど見せてくれんか」いうで、荷い下いて、
「どうぞ、どうぞ」いうて見せると、
「ああ立派な茶釜だなあ、これだったら、お前の望むだけ払う」いうことで、
「そんならまあ、二百両ほど」いうたら、
「あああ安いもんだ、それでもなあ、お茶がようわくかわかんか、ためしてみたいで、おってくれ」いうことで、ええ水くんできて炉の上にかけて、湯ういれてすらで、徳さんは、『困ったなあ、尻がこげてしまうが』思って、ひやひやしもっておったところが、下から、ええ炭火を入れるもんだで、狐が、キャッいうて、いま来た道をさっと逃げてしまった。そうしたところが、お爺さんが怒んなって、
「人を化かすようなことをお前はするか」ちゅうことで、ほうほうのていで逃げて出ようとしたところが、ちょうどそこへ、智源寺さんの和尚さんが、托鉢に
「おおう、おおう」いうで来なって、
「これ、なんちゅうこったいこれは」
「いやあ、和尚さん聞いておくんなれ、これが金の茶釜だと思って買ったら、こういう仕末で、怒っとるですわな、どうしてくれるいうて」
「それあ気の毒だなあ、しかし、わしが、お寺の和尚のことだ、人助けだ思って、こりやあたってくれ」
「それあ、和尚さんのいいなることだで、もう、こばりますわ」いうことで、まあ徳さんは、がっさい喜んで、和尚さんに、
「よう助けておくれた。わしももう家にかえるんも恥ずかしいし、若い連れらに、ぼろかすにいわれるし、どうか、あんたの寺に手間がなかったら置いとくれなれ」いうことで、頭を丸めて、きれえにそってもらって、お経、習ったり、掃除をしたりして、智源寺の男衆に置いてもらった。そうして、五年ほどたったもんで、
「どうだ、五年も経ったか、里のこと思い出さんか」
「思い出します」
「そんならまあ、ひまやるで、里へ帰って来い」いうことで、里へ帰ってみたら、恥ずかしいもんだで頭が坊さんだで、てぬぐいかぶって、自分の寝とったとこへ、すこっとはいって見ると、五年も経っとれへん。連れらが、
「どうだ徳さん、狐連れて来たか」いうておった。
徳さんは坊主頭にされでもどって来とった。
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狐のへっぽん返し
  周枳 堀  正治

 魚屋が、朝早うおきて、お祭に間に今うようにと思って、急いで大内峠へ行ったら、ようよう東が白みはじめた。峠を下りようと思って、草むらを見ると、狐が寝とった。「あ、この狐だな、人をよう化かすいう狐は」思って、かたげとったさす(てんびん)でたたこうとしたら、狐が、びっくりして、山ん中へ、こんころこんと、逃げて行ってしまった。『あの狐か、人だまかして魚取るいうのだな。やれやれ、仇が討てた』思って、宮津へ行って魚仕入れて『早よいん了祭に間に今うようにせんなん』思って、大内峠へ、弓ノ木の方から旧道を、馬背(うませ)いう所まできたら、まんだ早いなあ思っとるのに、日が暮れて、『おかしいなあ、ちゃんと日が暮れて』思って、『早よいなな、祭に間に今わんが、ようけ注文開いとるのに』思って、一生懸命になって、峠を上って来たところが、向うに灯が見える。『暗いでちょうちんなっと借れようか、なんだったら、泊めてもらわなしょうがないなあ』思って、行ったら灯が見える。大内峠頂上付近(紅葉の名所としても名高い)
 「やれやれ泊めてもらおう」いうて、その家へ行って、家の内を、そうっとのぞいて見ると、いろりのところに、白髪の婆さんが火に当たっとった。『まあ人がおるで問うてみよう』思って、「日が暮れて往生しとるだが、まあ、たばこさせておくんなれ」いうと、
「そうか、家のは今日死人があって、それでもよかったらたばこしなれ、明日の用意せんなんで、わしはお前が来てくれたんで助かった。ここに当たって留守番しとってくれ、わしはこの下の寺へ行って坊さんにたのんでくる」いう。
「ああそんなんなら当たらしてもらいますで、どうぞ」いうて、昔なら、タカへ上る大梯子があった。その大梯子に魚の荷いかけてえ、上って当たらしてもらっとったところが、婆さんは出てしまう。ひょいとみると、棺桶が置いたる。「ほんに死人があるいうたが棺桶が置いたる、困ったことだ。留守たのまれたが』思っとったら、。トン、いう音がした。ほうろ恐い思っとるのに、そっちい目が行って、見ると、棺桶が倒れたちゅうわ。『あの棺桶が倒れた』思って見ると、棺桶が、表から(表の間から)自分のおるいろりの方へ転げてくる。ぢくぢく転げてくる。とうとう敷居のとこまで来たと思ったら、コトンいう音がして、死人が中から出てきた。びっくりして後へ、だあっと、すだったら、その死人がまたコロンと転げてくる。
 「あぁ、こわい」いうたところが、上りはなからコロンと下へ落ちて、コロコロッと転げて、気がついたところが、太陽はほとんど、大野の山の方へ沈んどって、三重の子らが「やあ、魚屋のおっさんが、狐に化かされとるわいやあ」いうとった。『やいや、これあ狐にだまされたたかわからん』思って、また峠へさかもどりして上って見ると、みいんな魚を負われとったと。

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花咲爺

『大江のむかしばなし』(1978)に、


花咲か爺
         高津江  荒賀 憲
 悪いお爺さんと良いお爺さんとおって、良いお爺さんが犬飼うとって、ほいて、その犬が行くとこ行くとこを堀ると、小判がいっぱい出るなり。それから、悪いお爺さんが 「貸してくれえ」言うて、今度は借って行くと、悪い物、瓦やなんかばっかり出てきたと。そんなもんじゃざかいで殺してしもて。
 それで良いお爺さんが、こらかわいそうなと思て、埋めて、ほしてそこに松の木を一本植えたら、その松が、ぐんぐんぐんぐん大きなったちゅうんや。そんなもんやきかいで、松の木が大きなった。ほいたとこが、 そいつをまた良いお爺さんが伐って、つきうすにしたっちゅうんじゃな。つきうすにして正月にもちをついたら、そしたらもちが出ずに小判ばっかり出てきて。そしたら、悪いお爺さんが、「うすを貸してくれえ」言うて、ついたとこが何にも出なんだと。ほんでそれを割木にして燃やしてしもたちゅうんや。
 燃やしてしもたさかい、もうないようなったなり。かわいそうなで、その灰を置いとったら、その灰が風が吹いて、その近所の枯木に花が咲いたつちゅうんや。めずらしいちゅうんで、お殿さんのお通りがあるさかいで、お殿さんのお通りの時にまいてみようと思て、枯木にとまっとって、まいたら、見事な一面な花盛りになって、枯木が。「ああ、こらよいこっちゃ」言うて、お殿さんからほうびをもろたと。ほいて今度は悪いお爺さんがまたそのことを聞いて、ほいて同じようにお殿さんのお通りをなんやらしとって、ほて灰をまいてみたとこが、ほしたらお殿さんに灰がかかるだけで、ちっとも花が咲かいで、その悪いお爺さんは処罰されたちゅことやったなあ。


『おおみやの民話』(町教委・91)に、

花咲爺
       森本  吉岡ちよ

 昔、ある所に、お爺さんが一匹の犬を飼うとって、大事に育てとった。そしたところがある日のこと、犬が畑の木の元へ行って、ワンワン、ワンワンいうで、そこをきばって掘っとった。そしたらお爺さんが、それを聞いて
 「どうだしらんだあ」いうて、犬が掘っとる所を、鍬を持ってきて掘ってみると、金がようけいこと埋けたって、いろいろと宝物や金が、ようけ出てきて、爺さんは大金持になって喜んどった。隣には、欲の深い、悪い爺さんが住んどって、その話を聞いて、もういかめて、いかめてしょうがないもんだで、
「ちょっとその犬貸してくれ」いうで、犬をつれていんで、裏の柿の木い持って行って、くくりつけといたところが、もう放いてほしがって、木の下を、きゃいいて、きゃいて掘っとった。そしたら、『ここにも宝物があるに違いない』思って、悪いお爺さんが、そこ掘って見たら、なんにも出てけえへんで、掘って掘ってしたら、泥やら瓦やら出てきて、それで爺さんは怒って「こんなもんども何になるだ」いうて犬をひどいめにあわして、殺してしまった。
 それで隣リの爺さんが、『どうだしらん、犬をつれていんだが、ちょっともつれてこんが』思って見に行って見ると、
「ちょっとも金も出えせんし、泥やら瓦ほか出てこなんだで、腑が悪かったさけあ、殺してしまった。その木の下に埋けてある」いうた。それで、ええ爺さんが悲しがって、
「殺されたら、どうともしょうがないし、その代りにこの木をくれ」いうて、その木をもらって、もどって、餅つく臼をこしらえた。
 ある日餅をついたと、中から宝物がようけ出てきただげで、びっくりして喜んで、喜んどった。ようけお金がたまった。そいたらまた隣リの悪い爺さんがそれを聞いて、
「あのくそたれが、また金もうけたか」いうてまたその臼を借りにきて、ええお爺さんがそれを貸したったら、持っていんで、餅をつくだけど、ちっとも宝物が出てけえへん、また怒って「こんななんにも出てこん臼は、もうめえでくべてしまったる」いうで、そいつを割ってみなたいてしまった。またええお爺さんが行って見たところが、「宝物が出てけえせなんだで、臼どもめえでくべてしまった」いうただげな。もう怒ったってしょうがないで、お爺さんがその臼を、くべたくどへ行って、灰をかき集めてそれを家にもってもどって、外においてえたところが、風が吹いてきて、ちょっと木にかかったら、にわかに花が咲いた。『こりやあ不思議な』思って、そして殿様の通りなる所へ行って木に上って待つとった。
「枯木に花を咲かせましょう。花咲爺、枯木に花を咲かせましょう」いうとったら、殿様が通りかかって、
「滞りやあ珍しいことだ、枯木に花を咲かせてみい」いうて、その爺さんが、灰をにぎって枯木に投げるところが、みな花盛りになって、
「こりやあ見事だ」いうで、ようけほうびをもろうた。ほいたところが、また悪いお爺さんが、いかめがって、残っとる灰をみなかき集めて、木に上って待つとって、
「花咲爺、枯木に花をさかせましょう」いうとったところが、また殿様が通りになって、
「いっぱい花を咲かせてみい」いうたんで、灰を木に投げたところが、なんぼ投げても花ども咲けへんし、殿様や家来のロも、目も、鼻も、灰だらけになってしまって、
「こりゃあにせ者だ。悪者だ」いうて、家来にしばられてしまって、殺されてしまった。

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東光庵(福知山市上大内)

『天田郡志資料』に、

     上川口村・上大内

東光庵
 其の昔、蛇が住んで居ったと言ふ天寧寺、今でも此のお寺に詣りますと、蛇の池と言ふのがあります。和尚さんにお願ひすると、蛇の落して行った鱗だと言って大人の親指の爪位のものを、二三枚見せて下さいます。そんなお寺や、親孝行でお上がら褒美をもらった幸右衡門さんのお話や、何でも大分音何處かの城のお姫さまが自分の城を攻め落された時、逃げても逃げても追っかけられて、とうとう蛇になったと言ふ蛇ヶ谷。そんな話か沢山傳へられてゐる上川ロ村に、次の様なことが、村の人々の間に信じられてゐます。天寧寺(福知山市大呂)
 上川ロ村の先づ眞中と思はれる辺に、上大内と言ふ小さい部落かあります。昔此處に東光庵と言ふ小さな庵かありました。此の庵には、立原の或人か奉祀された立派な、薬師如来様かありました。そして、此の如来様をお守りする爲めに、庵主さんが一人住んで居られました。神々しいほどすんだ顔や姿の美しい庵主さんでした。庵主さんは顔や姿の美しいばかりでなく心もそれはそれは美しい人好きのするほんとうに親切なお方でした。とりわけ此の部落の人々に対しては親切でした。
「まあ、この寒いのに下駄もはかないで……」
「え、はなをが切れたの、だってはだしではからだに毒ですよ。どれ、私がすげてあげませう。」と言った様に小さい子の下駄のはなをでもなほしてやる。ついでに土も落してきれいにふいてやらといったぐあい。それに学校もない昔です。お寺へでも行かないことには、いろはのいの字も習はれなかったのです。だから、文字など知らぬと言ったらそれこそ一字も知らない子供か大勢ありました。庵主さんは、こんな子か遊びに来た時や、ひまな時にはわざわざ呼び集めていろはからむづかしい漢字までも教へてやるのでした。こうした親切が、しらずしらず子供等に庵主さんを好かせました。いつも庵主さん庵主さんと言って、したはれて居る庵主さんでした。
 此の庵は坂の中程にあったのです。庵の上の方にもまだ五六軒の百姓家かありました。秋になるご」、稲を一ぱい積んだ車を引いて此の坂を上らねばならぬ家です。庭の掃除などして居て、こんな車を見ると、きっと庵主さんは.
「重いでせうね。たりにはなりませんが後を押しませう。」と言っておしてあけるのが例でした。
「いつもいつもほんとにすみません」こう言って大人の人達は喜びました。
「よく出来た庵主さんだ」こんなに言ってほめる人もありました。
「ほんとに親切な方だ」こんなに心から感心する人もありました。
 或秋の晩のことです。庵主さんは.薬師様に晩のおつとめをしてから−−これか毎晩のお仕事なのですが−−夕飯をいただかれました。夕飯の後庵主さんは、色々の仕事をすませ十時頃おやすみになりました。おやすみになるとすぐこんな夢を見られました。庵主さんは夕方庭の草に水をやらうと思って庭へ出られました。庭には百日草やコスモスやききやうや色々の花が沢山作ってありました。この草花か残暑の爲元気なくしほれてゐましだ。しかし庵主さんが水をやられますと、それらの草は急に元気対いて来ました。しほれて頭を地に向けて居た茎は眞直にちよんと立ちました。ひからびた色は見る見る内に活々と緑がかってきました。庵主さんはそれを見てほほ笑んでゐられました。最後にコスモスに水をおやりになりました。あざやかな夕空に浮び出てゐるコスモスの花の美しさは何ともたとへやうがありません。庵主さんは余りの美しさにうつとりとなってゐられました。その時急に此の村の西北の山から御光がさして来ました。初はなぜまぶしいのだらうと不思議に思はれたのでしたが、よく見るとそれは山から御光がさしてゐるのだといふことに気がつきました。その夜は、かうした同じ夢を三回見られたので、自分ながら不思議に思はれて、翌朝起きると急ぎ庭へ出て、西北の川を眺められたのです。するとどうでせう。西北の山から御光かさして来るではありませんか。あの七色の美しい虹の様な御光が。
「まあ何て不思議なことでせう。私まだ夢でも見てるんぢやないかしら」と目をしばたたいて見入りますが、やはり五光かさして来る様に思はれて仕方がありません。しかし、自分の目がどうかしてゐるのかも知れないと思って、其の日は他の人には何にも告げないで居られました。するとその夜、又前と同じ夢を三回みられました。翌朝目がさめると顔を洗って直ぐ庭に出られましたが、昨日の朝と同じやうに西北の山から御光がさして来るやうです。その夜、又同じ夢を三回見られました。翌朝西北の山を見ると、相愛らず御光がさしてゐる様でなりません。ちようどそこへ、畠へ行きがけのお百姓が鍬をかついで出て来ました。庵主さんは直ぐ此の不思議をそのおぢさんに話しました。お百姓は庵主さんの言はれる通り西北の山を眺めました。
「おゝ、さうさう、たしかに光ってゐます。御光がさしてゐます。これは不思議だ。光ります。光ります。」おぢさんは此の不思議を博へる爲め、近所の家へ急いでかけ出しました。それから間もなく村人は、手に手に鍬やすぎを持って御光のさしてゐると思はれる方角へ急ぎました。行って見ると、御光のさしてゐるのは寺岶と言ふ山の一ヶ所でした。それは佛様の一部分が地上に現れてゐるのでした。早速堀出して見ると、りつぱな阿禰陀様でありました。
 村人は此の立派な阿禰陀様を東光庵にまつり、庵主さんが毎日毎朝此の阿弥陀様と薬師様とのおつとめをすることになりました。庵主さんは一生此庵に住んで長生をしられましたか、それはそれは仕合せのよい一生だったと申します。数年前火事のために庵は焼けましたか此阿捕陀如来と薬師如来とは新に建てられた東光殿におまつりしてあります。

舞鶴市朝来に東光寺というお寺がある。この名のお寺は鉄と関係がありそうである。
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たたかぬ太鼓の鳴る太鼓
(福知山市中佐々木谷村勘大寺)

『天田郡志資料』に、

三岳村
たたかぬ太鼓の鳴る太鼓

 こんこんもんもり、こんもりと、繁った林がございます。小さな道かうねうねと、続いてその下を行ってゐます。川のふちを過ぎ丘越へて、やがて、大きな竹薮の中に消へて終ひます。すると今度は右に折れ、高い石段かございます。その石段をトントンと、ずんずん登って参ります。あまり石段高いので、途印で足をつと止めて、眞直眞止を向きますと、「丹波にしてはまだ知らぬ、何と大きな山だな!」誰でもうなづく高山がそびへてニョッキリ立つてます。これが名高い三岳山、酒呑童子の居たと言ふ、大江の山も足もとに、小さく見下す位です。再び続けて登ります。「ボンポコポン、ボコポンボン」木魚の昔が聞へます。三岳山勘大寺と言ふのは此のお寺の事でございます。
 本堂の障子の破れから、そっと中をのぞきませう。年の頃なら六十を越したと思ふ、おしやうさんと、十か十一の小僧さんが、二人並んで「ナンマイダー」今お勤の最中です。
 そのお話は皆さんが.未だ母ちゃんのポンポから「オギャ」と生れぬ前の事、その皆さんの母ちゃんが、腰の曲った婆さんの、ポンポの中に居る頃で。その婆さんがヒョロヒョロの、白髪い婆さんのお腹から、やつと生れた頃でせう。
 毎年盆や正月は、附近の百姓のお家から餅や団子やお菓子など、たんと沢山上げますが、慾の深いおしやうさんは、皆んな戸棚に藏ってて、毎日それを眺めては、「今日はお餅が三十に、団子が四十と数へつつ、喜んでゐるのでございます。
「おしやうさん今日は、憐れな遍路でございます。何かお恵下さいな。」チリリンチリリンチリリンと、遍路か何人出て来ても、御菓子のかけら一つさへ、與へた事はありません。と、言って皆んなおしやうさんが、食べて終ふ事もせず、何時もかびをはやしては、裏の畑へすてました。それでも豊年満作の、年はまだしもよかったが、二年三年凶年が、続くと寺の上り物も少くなつて参ります。もちろん年貢も減りますし、予備の食べる御飯さへ、おしくなるようになりました。
「一杯、二杯、三杯……」と、和尚さんは或る晩に、次の方丈のすき間から、小僧の食べるお茶碗の、数をよんでをりました
「をやをや四杯も平らげた。すると一人か一日に、朝、昼、暁で十二杯、月に直せば二百六十杯。二人で七百二十杯。何んとこりや驚いた。あれじゃお米か減る筈じゃ。小僧が四杯はよけ過ぎる。二杯食べたら結構じゃ。月に三百六十杯。大した節約
出来るぞ」と、さう考へた和尚さんは、急に小僧を呼びました。さうしてこんなに言ひました。
「沈晏坊に黙晏や、明日の朝から一遍に、きちっと二杯に決めてをけ。」
沈晏、黙晏と言ふのは二人の小僧さんの名なのです。二人は仕方なく二杯て辛棒せねばなりませんでした。すると、二杯でも辛棒出来ると見た和尚さんは、又も小僧を呼びました。そしてこんなに言ひました。
「沈晏坊に黙晏や、明日の朝から一遍に、きちっと一杯に決めてをけ。」
「和尚さん腹か減ったらどうします。」
「池の水でも飲んでをけ。」
「水じゃ腹にたまりませんが。」
「只の空気なつと、うんと吸へ」
次の朝になりました。丁度その日は和尚さんは、村へ説教に行かれます。お昼頃になりました。ペコペコお腹が空きました。
「沈晏さん何でもいいから食べたいな」黙晏さんが言ひました。
「ほんとに何か食べたいな」
沈晏さんも言ひました。
「早くお昼か来ればよい。」
「だってお昼もお茶碗に一杯だけじゃ頼りない。」二人は本堂でチョコリンと、坐って溜息つきました。もうもう足も立たないし、眼もくむらぱかりです。
「何かほんとに食べたいな。」
「ほんとに何か食べたいな。」
「戸棚のお餅一つでも。」
「だって和尚さんに叱られる。」
「叱られたってかまやせん。」
二人は何時しか方丈の戸棚の前に立ちました。
「けれど高くて届かない。」
「何かだいして上らうよ。」
「あたりに何か無いかしら。」
「あゝよいよい事かある。」
「あゝさうさうそれはよい。」
二人は夢中で本堂の太鼓を「ゴンゴロゴンゴロ」と、戸棚の前に運びます。
「どっこいしよ。」
「よつこらしよ。」
太鼓を台にして、二人はその皮の上に上って、「ムシャムシャ。」「ベチャベチャ。」と食べました。餅も団子もやうかんも、とてもとてもおいしくて、何とも言ひやうあいません。
「カラッコロカラッコロ」誰かゞ登る音さへも、今は和尚さんのおの字さへ、すっかり忘れてをりました。
「ガラガラガラ。」大戸か開いたその昔にハツと振り向いたと同時です。
「ドドンゴンゴラドドンゴンゴラ」と、皮の破れた大太鼓、ドンドン広間へ転げます。
「コラッ」と高い和尚さんの叱り声。
「沈晏に黙晏。さあさあこの破れ太鼓をどうして呉れる」
「和尚さん、お許し願ひます。」沈晏かオヂオヂ答へます。黙晏さんも頼みます。
「和尚さん。どうか勘弁願ひます。」
「もうもう二人に用はない。早く出て行け二人とも。」
「どうかお許願ひます。」
「五月蠅奴じゃ、そんならば、たゝかね太鼓の鳴る太鼓、買って来るなら許すぞよ。」
二人は「ハイ」と力なく、返事するより仕方なく、ションボリションボリと、高い石段下りました。
お百姓の家へ寄り、「若し若し旦那様今日は、叩かぬ太鼓の鳴る太鼓、お家にございませんですか。」
「そんな太鼓はありません。」
次の家へも寄りました。返事は同じ言葉です。
「そんな太鼓かありますか。」
反って問ひ返す人さへあります。百姓の家へも寄りました。店物屋へも寄りました。小さな家も大きな家へも寄りました。然し、やつはり駄目でした。もうお日様も西の山へ沈んで、眞黒なお空には、チカチカとお星か光り出します。
「何処を探しても駄目だな。」
「このまま寺へも帰られず。」
二人は或るお家の土蔵の軒で腰を下ろして休みました。昼の疲が出たのかグウグウ眠って終ひました。何時間かたった頃でせう。「ガタン」突然物の倒れる音と共に「ドドドン、ドンドン」確に低い太鼓の音。
「あーねむい。これこれ黙晏さん、確かに太鼓の音がしたな。」
「本当にな、沈晏さんも聞えたかい。」
ねむい眼をこすりながら、二人は附近を見廻した。倒れたのは寺から持って来たあの大きな棒でした。
「棒が何處かへつかへたんだらう。」
二人は一心に探しました。と、頭の上のはりのへんに、とても大きな臼程の、蜂の巣かもつこりかかつているのです。
「をやをや大きな蜂の巣だ」
しばらく二人は振り向いて、眺めてゐたか突然に、黙晏さんかささやいた。
「あゝさうしやう、成程。」と、沈晏さんはうなづいた。二人は夜か明けかゝると直ぐ、大きな風呂敷借りて来て、その巣を壊さぬやうに、又峰の飛んで出ぬやうにして、そっと取って下ろし、しっかり包んで棒を通し、「ヤツコラサ」と、になって、「エッサコラサ」と持って帰り
かけました。「コクコッコ」何處かで鷄か鳴きました。「ヒョィヒョイヒョイ」と、あの高い石段も上りました。
「和尚様唯今。」 さも得意げに大きな声で呼びました。
今起きたばかりの和尚さんは、大きな眼をバチクチさせ、変な顔して問ひました。
「これ沈晏に黙晏や、本当に太鼓あったかい。」
「はいはいありましたよ和尚さん。」
「ヨッコラショ」と、棒から外して包を下に置きました、
「ドドドンドドドン」 確に低い太鼓音が聞へます。
「これはこれは」思はず和尚さんは包に手をかけました。
「和尚さんちょっとお待ち下さい。」
「何じゃ」和尚さんは顔一面笑みを浮かべて問ひました。「こんな不思議な太鼓なら、寺の宝にきっとなる。」さう心の中で思ったんでせう。
「それはかうでございます。あのそら方丈の眞中で、一間ぴつちり閉め切って、本堂にある古槍で、太鼓の包突いたなら、それは此の世で又聞けぬ、極楽の音かするさうで」
「さうか用意を頼むぞよ」
二人は又「エッサコラサ」と、方丈の中へ持つて行きました。
「裸が一層よいさうで。」
「さうか、それじゃさうしやう。」
 和尚さんか用意してゐる間に、二人はまはりの板戸を閉め切って、外からガッチリと錠を下ろしました。そして小さ武破目から、中を覗いて居りました。
 やがて和尚さんは、二間もある大身の槍をリュウリュウとしごき、太鼓の包の眞中目がけて「ザクリ」とばかり突き込みました。するととうでせり。「ブブブンブブブン」一匹二匹三匹五匹十匹と、大きな蜂か飛んで出ました。
 和尚さんは眼をバチクチさせて、「峰か出るとはけしからん」今度は一層刀を出し「ザックリ」深く突きました。今度は前に倍して、黒雲程も飛んで出ました。そして頭と言はず背といはず、両手、両足、首も腹も、黒山になってたかりました、和尚さんは長い槍を持つたまゝ、峰を払ってテンテコ舞です。どの戸を押しても開きません。
穴からのぞいてゐた二人は手をたらいて「叩かぬ太鼓の鳴る太鼓、裸和尚のテンテコ舞、叩かぬ太鼓の鳴る太鼓、極楽音頭でテンテコ舞」とはやし立てます。和尚さんは気か狂ってバツたりそこに倒れてしまひました。
二人は可愛想になって和尚さんを助け出しました。和尚さんが気がついた時には、二人にしっかり抱かれて介抱されて居ました。後、和尚も改心して、子僧さんたちに心から詑び、非常に情ぶかい人になったと申します。


勘大寺がどこにあったのか、谷村に甚大寺というお寺があったという。勘大寺橋があるそうである。
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荒塩神社(大宮町周枳)

『おおみやの民話』(町教委・91)に、


荒塩さんの話
         周枳(すき) 吉岡せい

荒塩さんの昔話ですけど、
むかし、むかしに、間人(たいざ)の海で津波がありまして、海の水が、この荒塩神社のあたりまで津波がきたですって、そのときの水で木の鳥居が、あそこの山で止まりまして、その鳥居が止ったところに、その鳥居を立てて、お祭りするようになった。
と、おじいさんに聞いた。



赤茶びん
      周枳 吉岡和夫

 周枳に荒須(あらす)というところがある。そこはこわれかけた家があったり、古い井戸が竹やぶのなかにあったりして、恐いところだった。
「荒須に赤茶びんが下がった」
「荒須に赤茶びんがでる。日が暮れたらそこい行くな、早よもどれよ」と、よういわれた。
 赤茶びん、私の考えでは、昔よく見られた赤銅で作った、三升も入る茶びんのことではないかと思うが。
 とにかく「赤茶びんが出る」いうことを聞いた。

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高尾山(=久住岳)(620m)
(大宮町と弥栄町)

『おおみやの民話』(町教委・91)に、

高尾山

吉六話
     周枳  井本 基

 どえらい昔の話だが、丹後の国に王成山(おおなるやま)という大きな山の麓の村に、吉六(きちろく)というちょっと変った若者が住んどったそうだ。
 吉六は頭が少したらなんだが、生まれつき達者(まめ)で働き者で、正直な親孝行の若者だった。しかしなあ、あまり正直すぎて、若者仲間や子供達からは、「吉六足らず」といわれておったそうな。でも、村の総役(共同仕事)に出ても、人の嫌がる仕事は進んでやるんで、たいへん重宝がられておった。
 ある夏の日に、村の若者が宿(やど)(若衆宿)に集まって、
「どうだお前達も聞いておるんだろうが、ここの大昔の話だがなあ、遠い高麗(こうらい)(朝鮮)の国からの使いが、大和の朝廷に貢物を持って行くいうで、間人(たいざ)の港から王成山を越えて、その隣の高尾山の峠の頂上に、も少しの所に来たんだが、疲れてしまって、どうしても動けんようになって、倒れてしもたそうな。なんせ、貢物の唐金(からかね)の鐘と、金色の鶏の形のした宝物が重たて、一歩も歩けなんだそうな。そいで、その宝物を、そこに埋めることにしたんだが、その鐘との別れにその鐘を打ち鳴らしたんだそうな。そいたら、その鐘の音で、辺り四方に鳴りひびいたということだ。ほいで、みんなでその鐘を探して掘り出そう」ということにしたんだって。それでみんなは弁当を用意して高尾山へ出発したんだそうな。その日はむし風呂のように暑い日だったそうな。
 高尾山には沼があったんだって、あんまり暑いんで、その沼で水浴びをしょうということになったが、吉六は昔から、この沼をいらう(さわる)てないと聞いとったで、水浴びして、この山をけがすのはもったいない、みんなを止めたが聞かなかったそうだ。そいたら、にわかに空が曇って、(はたがめ)といっしょに大雨が降ってきて、大きな(ひょう)が、卵のような雹が降っただって。みんなは地に伏せたが、大けがをするもんもあって、家に帰れなかったそうな。吉六は、一生懸命に観音堂に祈って、山をけがしたことをあやまり、急いで村に帰って、みんなで助けに山へ向ったで、死人こそ出なかったが大騒動になった。
 このことがあってからは、村中の者は、吉六を馬鹿にせなんだそうな。ほいて、吉六は庄屋さんの娘さんを嫁にもらい、大勢の子供と仲よくして幸せに暮したそうな。
 そいださきゃあ、お前達も、正直と感謝の気持を忘れんようになあ。

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