丹後の伝説:41集
 にわとり塚


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天橋立:文珠地区

 鷄塚(宮津市文珠)


鷄塚→鷄塚はわかりにくい所にある。
文珠街道の老翁坂トンネルのある手前、海側に天橋立オートキャンプ場があるが、その道路を挟んだ向側である。植林した杉の木々に隠れている。写真で言えばバスのケツ、林の中に何やら小高い所があり、桜が咲いているところである。しっかりした道らしいものはなく、この辺りから線路を越えて行けばあぜ道のようなものがあり、桜の元まで続いている。昔の写真でみると、この先の老翁坂トンネルの山にしても、この鷄塚にしても、ずいぶんと山がきれいにしてある。下草や芝木などは一本もない、大きな松だけが植わっている。よく手入れされた公園を見る感じである。「山が荒れている」などとは聞いてはきたが、私にはどう荒れているのか理解できなかったが、昔の写真をみれば、現代の荒廃ぶりがよくわかる。


『丹哥府志』
【鶏塚】(しらぬ坂の下、出図)
巡国志云。丹後守公基朝臣一国巡見の時日置の郷金剛心院において数多の宝器一覧ありける中に、和泉式部の書捨らし反古多し、よって其一紙を乞ふて泪の磯に埋め為に三重の塔を建て名付て鶏塚といふ、其書捨られし反古の歌にいふ
 いつしかと待ける人に一聲も
  聞せる鶏のうき別かな (和泉式部)
既にして金剛心院に供養の歌合せあり、後拾遺和歌集云公基朝臣丹後の守にて侍る時国にて歌合せし侍りけるによめる
 鹿の音に秋を知る哉高砂の  尾の上の松はみとりなれとも (源頼家朝臣)
其後いつの頃や年暦詳ならざれ共、風波の為に橋立の景色多く損せし事あり、是時泪ケ磯にある鶏塚も砂に埋りける。明応の頃智恩寺より其塚をほり出して之を文珠堂の傍にたつる、今の歌塚是なりといふ。忠興の懐中日記云。慶長のはじめ中院通勝卿田辺の配處より橋立にまゐられて父藤孝に告給ひけるは、元泪の磯にありし和泉式部の和歌塚今文珠堂の傍にあるは口惜き事なり、殊更歌も千載集にありと思へば早く本の地へうつし玉へ、和泉式部亡世の誉れ捨置べき事にあらずやと返し返しすすめられける、歌人の心筋なる處遂に忘れ侍らすといふ。

鷄塚の上にある祠→少し小高くなっていて、登れば、こんな祠がある。足元には石があちこちに転がっていて何かあったような感じである。

『丹後旧事記』
丹後守公基朝臣。後拾遺和歌集に曰く公基丹後守にて侍る時国にて歌合し侍りける時に詠る。 鹿の音に秋を知るかも高砂の 尾の上のまつは緑なれども 源頼家朝臣。公基国司に下向ありて小松の館を大垣に替給ひしなり、又金剛心院は花山法皇の御法號なれば其由を尋ね見んとて詣でさせけるに寺僧しかじかの由を語るあまた歌物語の書を取出して見する、其内に和泉式部の反古多し一紙を乞て泪ケ磯のかたはらに埋め塚を築き石を立て僧を請し塚供養の歌合せありて鶏塚と名付給ひけると也。塚に埋めし和泉式部の真跡の反古に
 いつしかとまちける人に一こえも
   聞する鶏の憂別れかな
 其後何れの世にかありけん九世戸の浜洪水して波海の橋立を越え景色大に損じ鶏塚の碑も砂中に埋めけるを文珠堂より僧出て石を掘出し境内へはこび堂の片原に建置けるを慶長の初め中院通勝卿田辺郷中配所より詣見給ふ国主幽斎告げ給ふるに泪ケ磯の和泉式部か五輪こそ文珠堂に置くは口惜き業なり本の地へ御移し有べし殊更歌も新千載集にありて覚へてければ興に返し申たしとありける歌人の心の切なる事忘れずと懐中小鏡抄に見えたり。一説公基朝臣当国の任は建久建仁の頃也とも伝へ侍れども公基は亀山天皇の文永十一甲戌年薨ぜし人にて世に西園寺の公基といふ。建久元年より文永十一年は凡八十四年になるなり是にて相違あるの事を知るべし。

鶏塚。藤原公基朝臣国司に下りける頃日量の里金剛心院に詣寺僧に和泉式部の書捨られし反古を得て九世戸の渚に埋め和泉式部の碑を建鶏塚と名付られけるとなり。其反古の歌に
 いつしかと待ける人に一聲も
   聞する鷄の憂別れ哉
細くは委基朝臣任國の所に記す。



鷄塚(宮津市文珠)

『宮津府志』
鷄塚
文殊道海浜に臨みたる小山也。松樹四十本餘生たり。さまざま雑説を傳ふともさだかなる事にもあらず、あるひはむかし金の鷄を埋めしともいひ、又は除夜毎に鷄鳴の聲きこゆなどいふ、只浮説を傳ふるのみにてたしかなる謂れもなし。東都の菊岡氏の著述の書に金の鷄文殊堂内にあり、其鳴聲倭鷄に似たりと書しは妄なり、又ある雑書にむかし浪花の津に淀屋某とやらんいひし富商、金にて作りたる鷄を持傳へて累代家珍とせしに、ゆへありて九世戸文殊に奉納せしといふ事を書たり、かやうなる事より附会せしものと見へたり

『与謝郡誌』智恩寺境内の宝篋印塔(和泉式部の歌塚)
鶏塚
 片枝松の南方一町老翁阪の麓に拳大の小阜あり松樹数十本を生じ地蔵像を安置す、嘗て丹後守憂基朝臣日置の金剛心寺放光寿院に詣でし際寺僧歌物語の書など出して見する中に和泉式部の真蹟ありけれは請ひ受けて之を埋め僧を招じて塚供養の歌合せしより鶏塚と鵜けたりと、和泉式部の歌に、
  いつしかと待ちける人に一聲を
    聞かする鶏の憂き別れか南
 其後洪水ありて歌塚も散乱し砂中に埋れしを明応の頃智恩寺の僧之れを掘り集めて文殊堂境内に移し、より其跡に誰れか石地蔵を建てしといふ、今文殊堂前の大宝篋印塔はその塚なりしと。
  宵鳴や鶏塚のむしの聲     文役
もと波打際にて道路は此の山の手にありしも幕末埋立により此辺新田開発夥しく今新道浜手に通ず。

『岩滝町誌』
鷄塚
 文珠街道の傍にある鶏塚にはいろいろの伝説がある。
 その一つは、和泉式部の歌集を埋めた所であるといわれ、是が通説のようになっている。
 また一説には、宇多天皇(八八八−八九七)が宇治山から掘り出した金で雌雄の鶏を造らせた。皇后、井上太子等宇多天皇を怨むことあり、例の鶏を用いて天皇を呪詛した。事露われ、皇后も太子も廃して庶人とした。其の後、金の鶏は藤原氏のものになったが、更に足利のものとなった。
 将軍義満の時、賊が宝庫に忍びこんで之を盗み、与謝の海(宮津湾)の老翁坂附近の磯に近い小島の中に埋めて置いた。後年、その賊が捕えられ、金の鶏をかくした場所を自白したので、金の鶏は再び足利氏のもとに返った。それでこゝが鶏塚と伝えられているのであるという説である。
 我が岩滝にも鶏塚に関する一つの伝説がある。
 昔、弓木村の野田に源兵衛という真面目で慈悲深い百姓があった。家には牛の外に、猫と鶏を飼いどちらも大へん可愛がっていた。猫は飼いだしてからもう二十年以上も経っていた。
 こういう人柄であったので他人の気受けも至ってよく大へん幸福に暮していた。
 或る晩、飼っていた鶏が宵啼きした。翌朝附近の人々は心配をして「鶏の宵啼きは不吉の兆(しるし)である。早く棄てないと災難を受けるというのに……。」と話していた。
 いつの間にか近所の人々の噂は源兵衛の耳にも入ってきた。源兵衛も全然気が付かなかった訳でもなく、また何となく気持ち悪く思っていた時であったので、胸騒ぎがして落ちつくことができなかった。
 しかし一方では今まで数ヶ年間飼い馴らしてきた鶏を今更簡単に捨てゝしまって餓死させるにも忍びす、そのままにしていた。
 其の夜また頻りに啼いたので近所の噂も一層高くなって来た。源兵衛も益々気にかゝったけれども棄てるのが可愛そうで、其の門には宵啼きも止むだろうと思ってそのまゝにしておいた。然るに次の夜もまた頻りに啼きだした。流石に慈悲深い源兵衛もたまりかね、やむを得ず決心して、翌朝早くこの鶏をつれ野田川尻に行った。さながら人に物を言いきかせるように、
 「お前を飼ってから満三年、お前には是といって罪はないけれども、世間の人の忌み嫌う宵啼きするので、このまゝにしておくわけにはいかない。お前が宵啼きするのは不吉の兆があるからだと人が言っている。だから如何にかわいいからといっても家におくことはできぬ。今日限りでお別れだ。今、此の海上に流すが何処かの磯に流れついてなさけのある人に助けてもらえ。」
 と、いって二握り、三握りの籾を一そえ、俵にのせて我が子に物いう如く、涙ながらに押し流した。
鶏をのせた俵は波の間に々々漂っていった。源兵衛は去りかねてしばらくの間たたずみ見送っていたが、いつまでも別れを惜しんでいても仕方なくやがて家に帰っていった。
 それから五日ばかりたった頃、一人の修験者(六部)が、宮津の方から文珠の万へ磯辺の岩を踏み越え、飛び
越え(音は、山が海に迫り、今の様な文珠街道はなく、海岸を飛び石伝いに往来した)やがで山道を辿って谷に下り、老翁坂にかゝろうとした時、突然磯に近い海の中から怪しい鶏の啼声が聞こえて来た。
 修験者は不審に思って立止って見たが、あたりには人家はなく、打寄せる白浪の音、枝を払う松風の外、人家がないから鶏のいるはずがない。これはいよいよ怪しいと思っていると、又異様な鶏の啼声。よく見ると十杖ばかり(修験者の持っている杖十本位つなぎ合せた距離か)離れた処に小島があり、その松の根元に一羽の鶏がいる。蹄いているのはこの鶏であった。それにしてもこんな海中の小島に何故鶏がすんでいるのか不思議であるのに、それだけでなく、其の啼声が異様であると思っているとまた二声、三声啼いた。
 耳を澄して聞くと「野田の源兵衛を猫が喰う。」鶏は悲しそうに啼いた。修験者は、世にも不思議な事もあるものだなあ、何はともあれ、源兵衛という人を訪ねて見よう、必ず訳のあることにちがいない。
 修験者は路々「源兵衛という人を知っていますか。」「源兵衛という人がありますか。」と尋ねてみたが知っているという人には会えなかった。修験者は成相寺に詣で、それからも尚、道々「源兵衛、源兵衛。」といって尋ね歩いた。
 やっと「弓木村に源兵衛という人がある。」と、教えてくれる人があったので、修験者は大へん喜び、同家に至り休憩させてもらった。
 見ると、炉辺に逞しそうな赤猫が眠っている。修験者は汲んでもらった湯茶をのみながらよもやまの話をしながらそっと猫の方に注意をしていた。
 猫が時々爛々たる眼を開いてこちらを睨む眼光の鋭さ、物凄さを感じたが、さとられぬよう何くわぬ顔で世間話をしているうちに秋の日は既に暮れかけていた。
 修験者は「初めて伺って、無遠慮なお願いをして恐縮であるが、今夜一晩泊めていただくことはできないであろうか。」と、丁寧にたのんだ。派兵衛はもとより快く引受けてくれた。夕飯を終り一刻余り世間話をした後、修験者が先づ床につき、源兵衛等もまた次の一室で寝床に入った。
 心に一物ある修験者は眠ると見せかけて、ひそかに猫の挙動を窮っていた。
 秋の長い夜が次第に更けていった。”草木も眠るという丑三つ時、彼の猫が裏窓の破れたところから入ってきた。足音をしのばせながら修験者の臥床を一周してから源兵衛の枕もとに忍び寄り、しばらくためらっている様子であったが、やがて、首をさしのばし、その寝息を窺っているようであった。時々こちらを睨む眼光は爛々として、ほの暗い行灯の光に金色に輝き何とも言い現わしようのない物凄さであった。
 修験者は一刻も眼をはなさず、じいっと猫の様子を見つめていたが、今度は真赤な舌で、鼻のあたりをなめたり、鼻を突き出して嗅(か)ぐような格好をすると、源兵衛は夢にでも襲われたように苦しそうな声を出しては苦悶をした。修験者はわざと目が覚めたように見せかけて「うん。」と声を出し、両手を伸ばすと、猫は驚いて、ひらりと飛び退き、のそりのそりと炉辺に行って蹲った。こんなことが二三回もあったので、修験者は夜明けを待っていた。
 間もなく夜も明け、幸い猫もいなかったので、修験者は源兵衛を近くに呼び、声をひそめて「近頃あなたの心に怪しいと思うことはありませんか。」と尋ねて見た。
 源兵衛さてはと胸騒ぎがした。そこで鶏が宵啼きをしたのでこれを棄てたことを話した。
 修験者は悲しそうに、そして態度をあらため 「知らないのなら仕方がないが、その宵啼きは、あなたを不辛にするためではなく、あなたの災雑を救おうとしたのです。あなたに危害を加えようとしているのは、鶏ではなく今いる猫です。」と、いって、昨日こゝに来る路であったことから、昨夜認めた猫の怪しい挙動にいたるまでの一部始終を活し、自分が泊めてもらった理由も告白した。
 源兵衛、身震いしながらきいていたが、思いあたるふしがあると見え、話しをきゝながら頻りにうなずいていた。やがて、「私があの猫を飼いだしたのは二昔も前です。年を経た猫は禍いすると言い伝えられているが、そんなことがあるものか、と我が子のように可愛がってきました。もちろん、食物等にも気をつけ十分与え、毎日一度は魚もたべさせていたので御覧の通り世間の人にも羨まれるばかり肥え太っています。
 年をとったためか、近来は鼠さえも捕ることができず、役にも立らませんが、棄てるのも不憫であり、代りの子猫も飼わず、いたわってもらっていることをよいことにして増長し、他家に行って大きな鯛を盗んで来ました。謝罪に行き、鯛は弁償しましたが、こらしめのため厳しく叱って其の改心を期待して居ました。
 また、先日は、近所の家に入っていって、非常識なことをするといったら−−寝かせてあった赤ん坊の頬をなめていたということがあったので、余りのことに腹が立ち、頚筋をつかみ、こらしめのため続け様に七ツ八ツなぐり、尚厳しく言いきかせてやりました。察するところ、それを遺恨に復讐しようと思ったのにちがいありません。如何に畜生といえ、少しは恩ということも知るべきであるのに、恩を受けた主人に仇をもって報いんとする不敵の振舞は容赦できません。しかし、不憫なのは鶏です。私を救うために啼いたのに、知らぬことゝはいえ海へ流したことは可愛そうなことをしました。」
 と、万感胸に迫り、暫時茫然とした様子であった。が、修験者に向い
 「速く例の鶏を迎え取りたいと思いますが、幸い小島に上っているならしばらくは無事でしょう。それよりも先づ身にふりかゝる災難の根を絶つことが先決です。」と、いった。
 そうこうしているうちに猫が帰ってきたので、修験者の助力を得て直ちに捕り押え、裏畑に引き出して厳しく樹木に縛りつけ、遂に之を打ち殺して山中に埋め、鶏を助け出すために急いで舟を出して小島に漕ぎつけた。着いた時には、数日の飢えに堪えることができなかったのか、鶏は松の根元で死んでいた。
 源兵衛は歎き悲しみ、穴を拠って之を埋めて帰り、修験者に事情を話し、その恩に感謝し、数日間修験者を留め厚く之を遇した。
 その後源兵衛は鶏のために塔を建て、文珠智恩寺から僧を招き供養した。
 これが、今の鶏塚であるとも伝えられている。(「岩滝村誌」による)


『丹後宮津志』
老翁阪の南方一町内外にして鶏塚あり。鶏塚の縁起に就いてはニ説あり、一は金鶏を埋めたる塚と云ひ、
一は和泉式部の歌を納めたる歌塚といふ。寛政甲寅藤原成楽の天橋遊草 曰
 得二鬣封一曰二鶏塚一舟子曰文殊埋二黄金隻鶏于此一?辞云歳経二千春一閭里憂レ貧金鶏鳴レ晨堀レ此賑レ人側有レ松曰二鶏冠一蓋因レ塚名焉。
また享和辛酉吉田重房の筑紫紀行巻十に曰
 鶏隊。とさか松、比の里は里困難に至らん時掘り出すべしと、文珠の御誓ひにて金の鶏一つがひを此の塚の下に埋めさせおき給へりと
いふ。
 此のことは宝暦中の丹後宮津記に既に所載あり、文化十一年普門院密範が丹後名勝案内にも殆んど同文を載せたり、又後説は丹後旧事記、同一覧集、同細見録等に掲げたり近くは橋立みやげ 曰
 鶏塚、犬の堂より凡そ五町斗り涙ケ磯の山の手に在り、嘗て丹波守公基朝臣日置の里金剛心院に詣でけるに寺僧歌物語の書ども取り出して見する内に和泉式部の眞蹟ありければ請ふて之を涙ケ磯の傍らに埋み塚を築き僧を賞請して塚供養の哥合あり鶏塚と名付けしと。和泉式部の眞蹟に「いつしかと待ける人に一聲を聞する鶏の憂別れかな」其後洪水ありて鷄塚の碑も砂中に埋まれけるを明応の頃智恩寺より塚か堀り出して之を文殊堂の傍らに建しかば誰にや其跡に石地蔵を建てしといふ、今文珠堂の傍らに在る歌塚は其昔し鶏塚の碑なりといふ。
 此の地幕末より埋立られて新田多く拓けたるも因とは波打際にて道路も此塚より山の方を通じたりし形跡は今尚歴然たり。
  いつしかと侍ける人に一聲を
   聞かする鶏の憂き別れかな  和泉式部

  宵鳴くや鷄塚の蟲の聲     文 設
  鷄塚や芒まじりに知らぬ花   別天樓
 鶏塚より宮津までの間山踰えに潮見阪文見阪あり、海岸飛石伝ひに一杯水、赤岩等あり、潮見阪は一に知らぬ版と云ひ山鼻に蛭子の小祠あり、文見阪の山鼻には大黒荘あり、一杯水はまだ産湯瀧とも云ひ赤岩には小歌地蔵ありし由なるも今はなし。…


『丹後の宮津』
鶏塚から一杯水あたり
 「義士義民の碑」からさらに約二○○メートル宮津の方へ行くと、
鉄道をはさんで山がわに、数本の松と小祠がみえる小丘がある。遠い昔から「鶏塚」といわれ和泉式部にまつわる伝説によって、多くの人々に親しまれているところである。
 ここで思いだしていただきたいのは、さきにみた「文殊堂−天橋山智恩寺」の境内にある大宝篋印塔、俗に和泉式部の歌塚といわれているあの石塔が、室町時代の応永年中までは、この鶏塚に建ててあったということである。ではいったい誰がその歌塚をつくったのであろうかというと、むかし(年代不明)丹後国司であった公基卿が国内巡視のとき、たまたま日置の金剛心院に立寄り、数多くの宝物類を見ているうちに、和泉式部の書いた歌が多く、そのうちから一枚を乞いうけ、これを向うの小丘に埋めて供養塔を建て、名づけて「鶏塚」といったとのこと−。その乞いうけた歌とは左のようなものであった。
  いつしかと侍ける人に一声も聞かせる鶏のうき別れかな  和泉式部
 だがこれは伝えられる話のおもなもので、他に金鶏が埋めてあるといい、あるいは毎年末の除夜ごとに、あの小丘から鶏声がきこえるからなどと、さまざまの話もあるのである。なお二十年も前は、あの小丘には数十本の松がおい繁り、いかにもわけありげな有様であったが、いまは年一年松も枯れ、人々の関心もうすれて、忘れさられようとしている。
 この「鶏塚」からさらに約三○○メートルも宮津の方、やはり鉄道の向うの山ぎわに、いまわ荒れはて、わずかに古い石塔など一二基と、梅の古株一二が見られて、なにかいわくありげなところが、「一杯水」といわれ、また「産湯の滝」などともいわれて、ともに和泉式部にかかわる伝説によって知られるところである。
 式部が丹後にある間、かれの草庵は「山中の里」といって、宮津の東部にいまも数々の伝説をつたえる山中部落にあった。そこで式部はこの山中の里から毎日「天橋立」をとおり、府中の国府にある保昌のもとにかよい、保昌去ってのちは兼房卿のもとへかよったといわれるが、そうした日の一日、おりから通りかかる式部は、ここに一人の産気に苦む婦人をみて、さっそくこれを助けて産ませ、その産まれた児はここの滝の水で洗い、また産婦には一杯の水をあたえて、ねんごろに介抱したと伝えられ、それでここに「一杯水」といい、「産湯の滝」といわれる名所をつくったといい伝えるのである。
 もともとこの辺一帯も、明治初年から埋立てて、まったく昔のおもかげを残さないが、当時は宮津と文殊間は舟で通うか、この海岸の細々とした道と道の間は飛石づたいで往来した。しかもその道は、いまは想像もつかぬ鉄道の向うの山すそを、さきにみた「鶏塚」などは海中へ突き出た小丘で、道はこの塚の山がわを「老翁坂」へとつずいていた。従って、文殊堂や天橋立をたづねる文人墨客なども、多くこの道を往来したので、かずかずの古事もつくられているが、わけて細川幽斉が文殊堂に「和歌興行」などをひらいた際、都からの歌友らと歩きつつ、語り興じたことなどが「慶長日記」にもみられ、「文見坂」「志らぬい坂」「飛石」「赤巌」などと、永い間につくられた名所も、いまはただ古記録にみられるだけとなってしまった。


『京都の伝説・丹後を歩く』
涙ヶ機の鶏塚
 伝承地 与謝郡岩滝町弓木

 昔、弓木村の野田に源兵衛という真面目で慈悲深い百姓がいた。牛の他に、猫、鶏を飼い、とてもかわいがっていた。
 ある夜、飼っていた鶏が宵鳴きした。翌朝、近所の人々は「鶏の宵鳴きは不吉の兆だ。早く棄てないと」と心配して話していた。そのうわさは源兵衛の耳にも入り、胸騒ぎがして落ち着かなかったが、一方では、長年飼い馴らしてきた鶏を棄ててしまうのも忍びなくて、そのままにしていた。しかし、その夜も、そしてその次の夜もしきりに鳴くので、慈悲深い源兵衛もたまりかね、決心して、翌朝早くこの鶏を連れて野田川河口に行った。そして、俵の上に乗せて、二握り、三握りの米を与え、あたかも人に言い聞かせるように、「お前には罪はないけれど、世間の人が忌み嫌う宵鳴きをするので、このまま家に置いておくわけにはいかない。今、この海に流すが、どこかの磯に流れ着いて情けある人に助けてもらえ」と言って、涙ながらに押しやった。 それから五日ばかりたった頃、一人の修験者が宮津の方から文珠の方へ磯辺の岩を踏み越え、飛び越え、やがて山路をたどり、谷に下って、老翁坂にかかろうとする時、突然、磯に近い海のなかからあやしい鶏の鳴き声がした。修験者は不審に思って、歩みを止めたが、あたりには人家もなくて、鶏が棲んでいるはずもない。いぶかしく思っていると、また鶏の異様な鳴き声が聞こえてきた。よくよく見ると、十丈ばかり離れたところに岩でできた小島があり、その松の根元に一羽の鶏がいて、これが鳴いているのであった。それにしても、こんな海中の小島になぜ鶏がいるのか、おかしなことだ、しかもその鳴き声が異様にあやしいと思っていたところ、また、二声、三声鳴き出した。その声に耳を澄ませると、「野田の源兵衛を猫が食う」と悲しげに鳴いているのであった。世の中には不思議なこともあるものだ、神の知らせか、仏のお告げか、何はともあれ、源兵衛という人を訪ねてみよう、と思って、道々、人に尋ねたけれども、知っている人もいなかった。こうして、成相寺に詣で、さらに尋ねて歩いたところ、幸いに、知った人がいて、弓木村にそういう人がいると教えてくれた。修験者は大変喜び、その家までやって来て、休憩させてもらいたいと頼んだ。
 見ると、炉辺に大変たくましそうな赤猫が居眠りをしていた。修験者が出された湯茶に喉を潤し、四方山話をしながら、ひそかにその猫を見ていると、猫は時々爛々たる眼を開いてこちらを鋭くにらんでいた。さては、と心の中でうなずき、さらに話を続けるうちに、秋の日はもう暮れかかっていた。修験者が丁寧に一夜の宿を頼んだところ、源兵衛は大変快く引き受けた。こうして、夕飯を食べ、一時あまり世間話をした後、修験者と源兵衛とはそれぞれ床に就いた。心に一物ある修験者は眠ると見せかけて、ひそかに猫の挙動を窺っていた。真夜中頃、猫は裏窓の破れから入ってきて、足音を忍ばせ、修験者の寝床を一周した後、源兵衛の枕元に忍び寄り、しばらくためらっている様子であったが、やがて、首をさし伸ばして寝息を窺うようにしながら、時々、言い表わしようもないほど物凄い眼でこちらをにらんでいた。修験者が目を離さず、その様子を見ていたところ、今度は赤い舌で鼻のあたりを紙め、鼻を突き出して喚ぐようにすると、源兵衛は、夢に襲われたのか、苦しそうな声を上げて悶えた。修験者が、わざと、目覚めたようなふりをして、「うん」と声を出して、両手を伸ばすと、猫は驚いて、ひらりと飛び退き、のそりと炉辺に行ってうずくまった。
 このようなことが二、三度にもなったので、修験者は、もはや猶予できないと決心し、夜が明けるのを待ち、幸い猫もいなかったので、源兵衛を近くに呼び、声を潜めて、「近頃、おかしいと思うことはありませんか」と問うてみた。源兵衛は宵鳴きした鶏を棄てたことを話した。修験者は「それはあなたの災難を救おうとしたのだ。あなたの身を禍いしようとするのは、猫の方だ」と言い、すべてを語った。源兵衛の驚きは並々ではなかったが、何か心に思い当たることもあるのか、盛んにうなずきながら聞いていた。やがて、彼は「あの猫を飼い始めたのは二昔余り前のこと。世間では年経た猫は禍いすると言い伝えていますが、そんなことがあるものかと、わが子のようにかわいがってきました。ご覧の通り、肥え太り、年を取ったためか、このごろは鼠さえ捕りませんが、棄てるのはかわいそうだ、といたわったのをよいことに、増長して、よその家で大きな鯛を盗んできました。厳しく叱って、改心を期待していたところ、先日には近所の家の赤子の頬を紙めていたということがあって、あまりのことに腹が立ち首筋を掴んでセツ八ツ殴り、さらに厳しく言い聞かせました。おそらく、それを恨んで、復讐しようと思ったのに違いありません。かわいそうなのは鶏です。私を救うために鳴いたのに、知らないこととはいえ、海へ流したのはかわいそうなことをしました」と語り、身に降りかかる災難の根を立つことが先だということで、帰ってきた猫を修験者の助力によって捕らえ、裏畑の木にしっかりと縛りつけ、ついに打ち殺して山中に埋めた。源兵衛は、急いで舟を出し、鶏のいる島に駆けつけたが、飢えのためか、鶏は死んでいた。彼は嘆き悲しみ、穴を掘って埋めてきた。修験者にはその事情を話し、数日間留めて厚く遇した。
 後に、源兵衛は塔を立て、智恩寺より僧を招いて、鶏の供養をした。これが今の鶏塚である。  (『岩滝村誌』)

伝承探訪
 宮津の街から海沿いの街道を北へ行くと、杉末から文珠へと越えたところに鶏塚はある。明治時代から昭和二十八年の町村合併までは、杉末までが宮津町、文珠からは吉津村であった。
 明治時代の地誌『橋立みやげ』によれば、丹後守公基が日置里の金剛心院の僧侶から和泉式部の真蹟を乞い受け、埋めて塚供養の歌合をしたところだと伝えている。また、『岩滝村誌』には宇多天皇が作らせた雌雄の金の鶏を足利義満が蔵していたが、それを賊が盗んで埋めたところだという別の伝承を載せている。
 全国に鶏塚と呼ばれているものは多い。金の鶏が埋めてあり、その鶏が正月に鳴いたなどと伝える。
 さて、この話は、岩滝町で語り継がれている、文珠の地の鶏塚伝説である。猫が年老いてくると化け猫になるというのは昔話に例が多い。この化け猫退治の話も「鶏報恩」という昔話の型によるものである。それが、著名な塚にまつわって、伝説化したものであろう。
 源兵衛の屋敷跡とされるところは岩滝町弓木の大通りを入った、小字野田の地にある。この村は野田川の河口にあたり、木材や織物の集散地として、江戸時代後期から栄えていたところである。現在、その屋敷跡は空き地となっているが、この伝承を偲ぶよすがとして一本の柿の木が残っている。ところで、岩滝町内では、あちこちで「野田の源兵衛を猫が食う」ということばを聞き、鶏塚が文珠にあることを教えられた。話のなかのこのことばが、いわば諺のようなものとして、この伝承を人々の心のなかにしっかりと繋ぎとめているのだ。
 やっとのことで捜し当てた文珠の地の塚は、今、周囲二、三十メートルの丘となっているが、山の方から見ると、かつては島であったことが窺われる。塚の上には地蔵の石仏が祀られ、伝説にちなんで鶏の絵馬や置物が供えられていた。今も人々は鶏の霊を慰撫し、地蔵に願をかけているのである。

『京都丹波・丹後の伝説』
鷄塚  宮津市文珠

 宮津市文珠の国鉄宮津線老翁坂トンネル手前に、金鶏が埋めてあるとか、和泉式部の歌塚ともいわれる小高い丘「鶏塚」がある。この鶏塚に一羽の悲しいニワトリの話が残っている。

 昔、岩滝の弓木にまじめで慈悲深い源兵衛という百姓がいた。家にはウシのほかにネコとニワトリを飼い、いずれもたいへんかわいがっていた。ネコはもう二十年にもなる。ある晩、ニワトリがかん高い声で鳴きだした。次の日もまたその次の日も……。この鳴き声を聞いた村の人たちは「不吉な災難が起こる」と、源兵衛に「早くそのニワトリをどっかへ捨てろ」と迫る。思いあまった源兵衛、朝早くこのニワトリを連れて野田川尻へいき「お前を飼ってもう三年になる。お前には罪はないけれど、村の人がきらう宵鳴きをするので、かわいそうだが家におくことはできぬ。どこかで情けある人に助けてもらえ」と、少しばかりのモミをそえ、俵にのせて、わが子にいいふくめるようにして、涙ながらに川へ押し流した。ニワトリを乗せた俵は波にのって遠く漂っていった。
 それから五日ばかりたった。一人の修験者が宮津から文珠の方へ海岸の岩を踏み越え、山道をたどって老翁坂にさしかかろうとしたとき突然海の方から異様な鳴き声がする。打ち寄せる白波の向こうの小島に一羽のニワトリが、「ネコが弓木の源兵衛を食う」と悲しそうにないている。不思議に思った修験者は、源兵衛の家を訪ねた。優しそうな源兵衛のかたわらによく肥えた赤ネコが、ランランとした目でにらんでいる。一夜の宿を源兵衛に乞い、このネコを観察すると−−。枕もとに忍び寄り、真赤な舌を出し、源兵衛の寝息をうかがっているではないか。源兵衛もなにかにうなされているようだった。
 修験者は小島でみたニワトリの話をし 「ニワトリが夜鳴いていたのは、あなたを不幸にするためでなく、あなたの災難を救おうとしたのだ」「あなたに危害を加えようとしているのはニワトリでなく、ネコだ」と、事の詳細を語った。これを聞いた源兵衛は「かわいがってもらっていることをよいことにし、他人さまのタイを取ってくるので、きびしくしかったのをさかうらみにするとは」と、災難の根ネコを打ち殺した。「それにしてもふびんなのは、私の災難を救うために鳴いていたニワトリ」と、さっそく助けようと小島へ。しかし、小島に着いたときは、数日の飢えでニワトリはマツの根元で死んでいた。
 源兵衛は嘆き悲しみ供養のため塔を建てたのが、この鶏塚といわれている。あるじの恩に報いたけなげなニワトリの塚は、いまだに主人源兵衛を思っているように静かに風雨にうたれている。この一羽のニワトリのことは忘れられても、宮津地方ではいまでも夜、ニワトリが鳴くときは不思議なことがあると信じられている。

しるべ 鶏塚は宮津市から国道176号線を約二キロ。天橋立へいく途中にある。有名な「義士義民追頌碑」は近くの鉄道をはさんだ左手の小丘にある。昔は海中へ突き出た小さい岬だったという。

文珠堂へお詣りにきたネコちゃん→これはバケネコではありません。宝篋印塔のある文珠堂へお詣りしている賢いネコ。

『丹後路の史跡めぐり』
鷄塚
 犬の堂より狭い海岸くりを行くと、和泉式部が若い出産の女を助けたという 「一杯水」を過ぎる。その少し先、鉄道線路をまたぐと鶏塚がある。昔ここは海中へ突出した小さい岬であったという。
寛喜(一二二九)国司藤原公基が日置の金剛心院へ参詣した時、和泉式部の歌片を多く発見してこれをまとめて埋め、歌塚を造ったのがこの鶏塚だと伝え、鶏塚という名はその中の歌片の一首の中からとってつけたものだという。
  いつしかと待 ちける人に一声も
     聞かする鶏の憂き別れかな
 文珠智恩院にある泉式部の歌塚と称する宝篋印塔は、もとこの塚の頂にあったものだという。


『丹後の民話』(イラストも)
鷄塚
文珠の山に、ひっそりとある鶏の塚。それは…

 いつの頃かはわからない。全国津々浦々をまわっている修験者があった。その修験者が文珠に宿をとり、橋立を眺めて疲れをいやし、与謝の海の波音を聞きながら、床につこうとした。
その時、波の音と共に、かすかではあるが鶏のなき声も聞えてきた。修験者は、「はて」と思いじっと耳をこらして聞いていると、その悲しげな声は、
「野田の源兵衛、猫が食う。野冊の源兵衛、猫が食う」といっているように修験者には聞こえた。
あくる朝、宿の女将に、
「どこかこのあたりに、源兵衛という人が住んでいますか」と尋ねたが、女将は首をかしげるだけで知らんという。
修験者は、昨夜の鶏の悲しげな訴えに、きっと源兵衛の身の上に何か異変が起こると思い、村々を尋ね歩いて弓木まで来た。そして、やっと源兵衛の家をさがしあてたのである。源兵衛は、ひとり暮らしのお百姓で、みるからにやさしい人であった。
修験者は、早速、宿で聞いた鶏の話をした。
すると源兵衛は、
「わしは、ごらんの通りの一人暮らしです。家族といやあ、鶏一羽と、ずうっと前からおるこの猫だけなんです。
ところが、こん前から、その鶏が夜中になると決まって妙ななき声をしだしまして、気持悪いやら気になるやらで、寝られんかったです。おまけに近所からも、鶏の夜中なきは不吉の兆だといわれ、そんで、可愛そうだが、……板の上に鶏と一握りのモミをのせて、こん先の野田川へ流しました。
その鶏が、ないたのでしょうか…」と、寂しげにいった。
修験者はその言葉に、いっそう不思議がり
「今夜、泊めてもらえませんか」と頼んだ。
源兵衛は喜んで、

「ぜひ、こっちからお願いします。そして、なんで鶏がそんなことをいうたのか、つきとめてもらえれば有難いことです」といい、晩めしをすませて二人は囲炉のそばで寝についた。修験者は何が起こるかわからないと、旅装束のまま横になっていた。
 夜も更けて、囲炉の火だけがチョロチョロと燃えている。源兵衛は安心してか、ぐっすりと寝入っており、修験者は、あいかわらず身じろぎもしないで、あたりをうかがっていた。すると、囲炉の端でまあるくなって寝ていた猫がぱっと目をあけ、ゆっくり、むっくりと起上がるやいなや、大猫になり、眼をぎらつかせて凄まじい形相となった。そして、源氏衛に近ずき喉元へかみつこうという姿勢をとった。
修験者は、とっさに「カッ」と大声をあげた。
大猫は一瞬に後へ飛びのいた。
驚いて起きた源氏衛が、あたりを見わたした時、大猫はすでに、おとなしい猫にもどって、囲炉の端で寝そべっていた。
「源兵衛さん、この猫は途方もない古猫ですよ。あなたが寝たのを見計らって、かみ殺そうとしていたのです。それを知った鶏は、あなたが寝ないように夜中なきをしたのでしょう、きっと」
これを聞いた源兵衛は、
「実は、この猫はもう二十年以上ここにおります。古猫で鼠も取れんのでしょう。こん前から、他の家から魚をよう盗るようになってしもうて、つい前に、随分こっぴどくこらしめてやったのです。きっと、それを怨に思ってのことでしょう。どうすればよいでしょう」と、修験者に求めた時、またもや大猫になって、源兵衛めがけて飛びかかってきた。二人は必死になって、これをやっとのことで、とりおさえ、庭の木に縛りつけて殺し、その木の下へ埋めてしまった。
源兵衛は、
「鶏には可哀そうなことをした。命の恩人を、川へ流すなんて…」とくやみ、迎えに行きたいので案内してくれと修験者にたのんだ。 二人は与謝の海に浮かぶ小さな島をめざして走った。しかし、島にたどり着いた時、鳩はすでに餓死していた。
源兵衛は涙を流して、
「こらえてくれ、こらえてくれ、わしが、わしが悪かった」いうて、鶏を文珠の山に埋めて塔をたて、手厚く葬ってやった。
今も、それは残っており、それを、源兵衛の命を助けた鶏の塚だ、という。
  (岩滝・蒲田桂三様より)

文珠堂前のネコ→オマエがバケネコだな、死刑だ。
ち、ちがうわい、ワシは悪いネコではないわい、物的証拠も第三者の証言もなしに、何をぬかすんじゃい。と泣き出したネコくん。

こんな伝説があるからといって、ネコちゃんを死刑にしてはいけませぬぞ。ましてや人間様をや。

『おおみやの民話』
鶏塚   口大野 西村清作
 岩滝に病人があって、毎晩鶏が夜鳴きしてうるさいもんだで、その鶏を岩滝の人が、桟俵に乗せて海へ流した。それが文殊へ上って死んどった。
 あとで調べてみたら、病人の側に薬が置いたったのを、青とかげが、ペチャペチャねぶっとった。毒だわな。ぞれをば鶏が夜鳴きして知らしとった。わからんもんだで、鶏を海へ流した。後になったら青
とかげが薬びんをなめとった。それがわかったて鶏塚を建てた。


鶏塚  森本 吉岡ちよ
 昔、文殊の海岸を、旅の六部が通ったら、鶏が箱に入れられて、流されて岸に上り鳴いとった。六部が聞いとると、
「野田の長兵衛猫がとる」いうて、鳴いとるだそうで、『野田の長兵衛いうたち、どこのもんだろう』思って探したら、いまの岩滝に、野田いう所があって、そこに長兵衛いう者がおっただって。それで、そこへ行って、
「あんたの家の鶏が、文殊の海岸に上っとって。野田の長兵衛猫がとる、いうてうたっとるが、どうしてだ」いうたち、
「あれは鳴いて困るてほかしただ」いうだそうな。それで六部が調べてみたら、牛小屋の中に戸棚があって、そこに鳥小屋があった。そこを見とると、猫が青とかげを食わえて、飯のひつの上を、あっちい飛び、こっちい飛びしておるだって。青とかげは毒だで、その毒で、その家の者を殺そうとしとっただって。それでそのことを長兵衛に話したら、
「そんなことか」いうて、鶏を探しに行って見たら、鶏は死んどった。それであの鶏塚を建て祭ったんだそうな。



→伝説も裁判も一緒くたにせんといてえな。裁判は科学でっしゃろニャー。極悪殺人者はどっちでんねん。オイオイオイオイ


にわとり塚は各地にあるが、本当は何なのだろうか。
『鬼伝説の研究』は、
…ニワトリと鬼とは密接な関連があり、またニワトリは、鬼と共に鉱山に密接な関係を持っているものである。栃木県馬頭町武茂は式内社、黄金神を祀る有名な黄金の産地、ここにはニワトリ神社というのが大切な神社として祀られ、前述のオニワタリ神社もニワトリに関連があるように見える。
そういえばネコも鉱山と関係あるが、海の中の鷄塚では何ともも一つ合点がいきかねる。







丹後の伝説41
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鷄塚(宮津市文珠)


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