丹後の伝説55

丹後の伝説:55集
−如意尼−


 与謝野町石川には浦島太郎の一族といわれる如意尼と呼ばれた女性がいたという。空海の時代というから平安初期の頃。このあたりの古寺院の創建縁起に伝わる。




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 神宮寺(与謝野町石川)
『宮津府志』
石川山 神宮寺 在興謝郡石川村
 真言宗 成相寺未
 本尊  不動明王  開基如意尼
 按ニ如意尼傳載ス元亨釈書ニ曰。天長帝之次妃也舟州與謝郡人居無常處相−彳+羊ス山水之間ニ歳ニノ入ル帝都ニ常ニ詣ス如意輪観音霊場ニ。或ハ衆人聞其聲ル妃面。弘仁十三年帝在儲宮春初得テ霊夢ヲ遣メ華使ヲ於頂法寺ニ物色ノ而得タリ妃ヲ。妃入テ宮二儀雰端麗婦徳兼順云々。天長五年二月十八日夜妃以テ夢事宮女二人ト僣二出テ宮ヲ赴ク摂州摩耶山ニ云々。請テ室海山二修ス如意輪法ヲ。嘗テ蓄フ篋ヲ云々。妃之同閭二有水江浦島子ナル者テ妃ニ数百年久ク棲ム仙郷ニ天長二年還ル故里ニ。浦島子曰妃所持篋ハ曰フト紫雲篋ト云々。按天長帝ハ淳和天皇也。弘仁ニ嵯峨天皇年號弘仁十五年即位改天長也。如意尼没年承和二年仁明天皇即位二年也。至今茲安永十年凡八百七十年計也。
石川付山ノ内丈ケ獄卜云フアリ、其麓ニ比丘尼屋数卜云アリ、此如意尼庵室ノ跡也卜云フ。

『与謝郡誌』
石川山神宮寺
 石川村姫路にあり。本尊聖観音菩薩、前仏不動明王、如意尼の開基にてもと慈観寺と云ひ朱印地壹町三十六歩ありしも治承の兵乱に頽れ、延慶三年観賢僧正今の地に移転再建。元亭釈書に曰ふ、如意尼は淳和帝の次妃にて丹後與謝郡の人、年甫めて十歳皇都に入り弘仁十三年宮中に入る。時に帝未だ儲宮に在り、妃爲人柔順儀容端麗殊寵あり。天長五年二月潜かに宮を出でゝ摂州摩耶山に上り空海上人に就て祝髪修法如意尼と号す。尼常に一篋を携ふ固と浦島子の仙郷にて得たるものにて空海請雨のとき此篋を携へて密法を修し霊験ありしと伝ふ。延宝癸丑年秀意律師寺号を石川山神宮寺と改め普門院と号し爾来式内社物部神社の別当社僧たり。


 西禅寺(与謝野町石川)
『丹後旧事記』
石川郷香河村。
むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元享釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。

 『旧事記』に宇屋居子(うやいこ)とも呼んだらしいとあるが、「ウヤ」は超大変な名である。鳥取造の祖・天湯河桁(あまのゆかわたな)が出雲の宇夜江(うやえ)で白鳥をつかまえたの話も知られるが、そのウヤは6個の銅鐸・358本の銅剣・16本の銅矛が出土した神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡の斐川町神庭の正称というか、旧称は宇屋神庭(うやかんば)で、そのウヤである。39個もの銅鐸が出土した加茂岩倉もすぐ近くである。
島根県浜田市のあたりに敬川(うやがわ)が流れているが、あるいはウヤは出雲系の名のように思われる。こうした字を書かれるとウヤウヤシイ、ウヤマウといった意味の地のことであろうか。「与謝の宇屋居子」、石川、物部と呼ばれる以前のこのあたりは宇屋居とか宇屋と呼ばれていたかも知れない、名神大社の大虫・小虫神社は大己貴、少彦名の出雲の神を祀る。宇谷(うたに)というところが舞鶴の由良川筋、大江町に近いところにあるが、ここもあるいはウヤかも。。

天湯河桁が白鳥を捕まえたの伝承は石川にはない、ここでは沙門が神の子・如意尼を捕まえて天皇に奉ったのであるが、天湯河桁・白鳥のセットは丹後では網野にあり、彼を祀る社が4つある。その西隣には鳥取郷がある。磯砂山の羽衣伝説が金属と関係があるとワタシが言うのはそういうことなのだが、但馬にもあり、銅鐸も出土している。舞鶴からも銅鐸の出土があり、白鳥山もあるが、そうした伝承は伝わっていない。
舞鶴の国松サンといって江戸期からの鋳物師の末裔氏と飲む機会があったのだが、オバアちゃんはここの香河の出で、石川小学校の辺りにオジさんがいて、子供の頃にはよく遊びにいったという。国松氏は近江辻村(栗太郡)の出だそうだから、丹後出でないのだが、何か業界関係の繋がりがあったものだろうか。彼もまた如意尼の末裔ということになるのかも…


『新撰姓氏録』
右京神別上。天神。(第十四巻)。
鳥取連。
   角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也。垂仁天皇皇子誉津別命。年向三十言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。爰天皇悦之。遣天湯河桁尋求。詣出雲国宇夜江。捕貢之。天皇大嘉。即賜姓鳥取連

 青銅時代にまでさかのぼる金属文化の中心地ではなかっただろうか。香河(かご)川の最上流に香河という集落があり、慈雲寺がある。

『丹後の民話』(関西電力)
加悦町
慈雲寺のはなし
あれこれといい伝えがある。その中から…
 丹後の加悦町に香河という部落がある。昔、竜がこの地におりて、しばらく天に昇れなくなったことがある。ちょうどある時、竜巻が起こり、これに乗って昇ろうとしたが、運わるく月のもののある不浄の女にその姿を見られてしまって失敗した。この次昇ろうとするには、山に千年、海に千年の修行を積まねばならない。だが高僧の経を賜ることができれば昇天できるので、竜は女に化身し、供養を行うためと言って、この部落の慈雲寺に参詣してきた。
 当時この寺に名僧がいたが、「当寺は女人禁制であることを知らずに参ったのか……。また経を希望するならば、化身でなく、真の姿となって参られよ」と言われたので女はいったん寺を出たが、こんどは大竜となって姿をあらわし、ふたたび寺を訪れた。そして住僧からありがたい経をいただき、その功徳によって、いよいよ天に昇る際に、謝礼のしるしとして、わが前足の先をかみきって寺に置いていったという。これが寺宝竜の鱗″の由来である。
 この慈雲寺にまつわるもう一つの話がある。この寺の付近に 小萩の屋敷跡″ というのがあるが、むかしここに貧しい百姓家があった。夫婦の間に子供がないので天に祈って女子を授かった。
 そのころ都から来た旅の僧が、芳香を放っている河水にひかれて上流の里にいたり、山村には珍しい美少女に出あった。僧はこの少女の父母にあって、「この児を私にくださらぬか。都へつれ帰って必ず大切にお育ていたしますじゃ。どうか、ぜひに」と懇望され、父母も、「大切な神からの授かりものの児ですが、ごらんの通り毎年のように洪水で田んぼを荒され、その日の暮らしにも困っておりますだ。大切な児で手放したくはありませんが、いまはもう育ててゆく力も無うなりました。どうか、なにぶんよろしゅう願いますだ」と承諾した。娘の名は小萩といって、そのとき七歳であった。泣き泣き父母と別れ、僧につれられて西国霊場を巡拝して後に項法寺という寺へ預けられた。
 中萩が十九歳になった時、当時三十七歳の皇太子のお耳に入り、宮中へ召された。小萩は皇太子妃となり、やがて皇太子は即位されて淳和天皇となられたので、小萩は皇妃となって寵愛をうけ、宮中では与佐の宇屋居子または厳子と呼ばれていた。
 ところが、小萩は、宮中へ出入りする僧、空海の信仰にひかれ、深く仏道をきわめたく発心し、ついに待女二人を連れて宮中を抜け出し、空海に弟子入りし、剃髪して「如意」の法号をもらい、侍女二人も尼になって摩耶山に入った。
 如意尼三十三歳のとき、師の空海の死に接し、無常を感じて帰郷を決意し、西院に天皇を退位された淳和上皇を訪れて別離のことばを述べ摩郡山を去った。
 上皇から授かった書、御下賜金の一部をもって、故郷の香河に草堂をつくって、上皇のために仏の加護と師空海の冥福を祈願した。この草堂がのちに、竜の鱗″ の寺、慈雲寺となったのである。
 如意尼は他にも付近に善法寺や慈観寺も創建している。(俵野・井上正一様より)

『丹哥府志』
【奥山】(是より宮津の庄有田村へ道あり、以下三村石川村の支郷)
【亀山】
【香河村】
丹後名奇曰。古老の伝にむかし京師の沙門石川村の辺を徘徊せしに山川の水時ならず匂ひければ、怪しみて流をつたひ山の方へ入りぬれば、香気ますます盛んなり、時に十歳ばかりの女子をみる、其顔ばせ玉の如し、かの香気は此女子より出るなり。よって奇異の思をなしただちに其親に請ふて都に携へ帰る。後に此女子朝廷に聞て后とぞなりぬ。
元亨禅書云。如意尼は丹後与謝の人なり、天長帝の次妃となるといふは此人の事なるべし。薙染の後故郷に帰り一宇の精舎をたつ、是を善法寺といふ。今名み残りて田の字となり其手づから彫刻せし観世音菩薩は其隣村神宮寺といふ寺にありとかや。抑香河は和名抄にいふ神戸なりしが川の匂しより香河とぞなりぬ。

『丹後路の史跡めぐり』
香河の如意尼
 昔京都の沙門が倉橋川(野田川)のほとりを旅をしていると、之もいわれぬよい香りがただよってくるので、これを求めて川上をのぼると、すばらしく美しい少女に出会ったので名前を聞くと小荻と答えた。この村が石川の奥にある香河(かご)であったという。小荻を京へつれて帰って育てると、ますます美しく成長して淳和天皇の目にとまり、天長二年(八二五)天皇の後妃となった。これを与謝の内侍、与謝の宇屋居子という。
 しかしその後天皇の再度の願いを退けて天長五年(八二八)僧空海の門に入って如意尼と称し、郷里へ帰って手づから観世音菩薩を彫り、善法寺を建ててこれに納め、生涯を仏に仕えたという。(元享釈書の一文)一説に空海は如意尼の恋人であって、すベてを捨ててその許へ走ったものだともいう。この年は旱魃で守敏、真海の二僧が雨乞いの祈りをしてついに真海が勝ち、如意尼が京より持ち帰った一筺を得たといわれる。ちょうど浦島太郎が竜宮より紫雲筺を持ち帰った頃で、話が何か関係ありそうである。

 もうすべての人が忘れはてているようだがカゴ(香河)は銅のことで、かぐや橋のカグ、カルも銅である。大江山の北のハテになるところだから銅があっても不思議なことではない。
東の丹後一宮・籠神社もあるいは本当はカゴあるいはコモリ神社で、銅神社なのかも知れない。西の幾地には香久山がある。地元石川にも天香山があるが、これは後の大正時代の命名とか(「石川村誌)。:康守明神という祠もあり、これをハギモリさんと地元の人は呼んでいるという(「石川村誌」)。そうだとすれば小萩とはカゴが転訛していった名なのかも知れない。
丹後は銅鐸は多くないが、この地の西側の須代神社境内と比丘尼城跡から銅鐸が出土している。
丹後・但馬・摂津などの日下部氏や海部氏や物部氏などと銅鐸や水銀、さらに仏教・真言宗の伝播との結節点にいる、金属系の大変なお姫様、何名かが重なっているかも知れない、そんな人、あるいは勢力ではなかろうか。龍や玉や観音信仰などとも習合し合理化され、何が何だかわからなくなっているが、金属の観点から見てみるのも意外な歴史が見えてくるかも…。

彼女などは丹後人すらすっかり忘れてしまっているが、女布とか売布とかいった地名や神社と関係があるのでは、と私は考えてはいるが、まだまだ書いていけるほどの材料はそろっていない。


『宮津市史』
如意尼伝承  俗姓は不明であるが、如意尼の伝承も興味深い。同尼は、与謝郡出身で、淳和天皇の妃となったが、出家して仏教修行に励み、さまざまな奇跡があらわれたという。この伝承には、神仙思想がみられ、のちに龍神社の伝承とも関連づけられている。 また、同尼はこの伝承や寺伝によると、兵庫県西宮市神呪寺(かんのうじ)を建立し、空海が同尼を模して作ったのが同寺の本尊木造如意輪観音坐像(重要文化財)であるとされている。しかしこれらの伝承・寺伝は疑問点も多く、淳和天皇の皇后の正子内親王の伝えを発展させたものではないかと推定されている(『西宮市史』第一巻)。

嵯峨天皇の後継者となった弟淳和天皇の妃に関する伝承を取り上げておくことにしたい。鎌倉末期に編纂された仏教書『元亨釈書』に紹介された如意尼の伝承によると、彼女は丹後の与謝郷出身で、淳和天皇がまだ東宮だった弘仁十三年、京の頂法寺で見初められて妃となったという。熱心に仏教を信仰した彼女は、のちに霊夢に導かれて摂津国に赴き、甲山神呪寺(現西宮市)を開いたとされる。伝説に彩られた逸話であるが、平安初期の丹後と京の人的交流が盛んであったこと、皇族と丹後のつながりの深さ、丹後における仏教信仰の広がりなどがうかがわれる内容といえよう。

『石川村誌』
香河、香田
奥地部落より出でし本村を貫流し堂谷にて野田川に入るを香河川と呼べること前既に謂へり、此の香河に就ては如意尼に絡まる一條の傳説あり、第一章石川村及び香河村の條丹哥府志を引きたるも尚ほ丹後舊事記には

 此の淳和帝の妃小萩姫の生家は香河村にて左右の溪より水の合する宅地にて地先に香気を流したる洗濯石ありとて現今同村小字トトヲ第七百七十四番地宅地五十七坪は即ち其の趾なりといふ、爾来此の川の流域を香河谷と云ひ石川村を貫流して野田川に入る、此途中本村地内に香田と稱する字名稻田に残れり。



『古代海部氏の系図(新版)』
如意尼
 鎌倉時代に作られた『元享釈書』(虎関師錬)によると、平安時代の延暦十一(七九二)年から弘仁十(八一九)年まで二十七年間、籠神社に奉仕した海部直雄豊祝(二十九世の孫)の娘に厳子(いつこ)姫がいた。姫は弘仁三(八一二)年、京都の真言宗頂法寺六角堂に入り、修行をし、弘仁十三(八二二)年、桓武天皇の第三皇子の大伴親王の妃となる。大伴親王は翌年四月、即位して淳和天皇となっている。
 厳子姫は妃となってから、故郷の名をとり「真名井御前」と称した。真名井とは籠神社の奥宮の名である。
 真名井御前は天長三(八二六)年、宮中より退出し、兵庫県西宮市甲山に―宇を建立し、空海を師として修行した。これが摩尼山神呪寺である。そして天長八(八三一)年、剃髪して「如意」と号した。承和二(八三五)年、如意尼は入定するが、その年に夫の淳和天皇(この時は仁明天皇の代になっていた)は神呪寺に行幸され、如意尼と対面し、田一百町歩を寄附している。
 このことは海部家と天皇家の近い関係を物語るものである。
 さらに「勘注系図」よりずっと後世になるが、江戸時代の寛政九(一七九七)年、海部直富香祝は霊元天皇の孫、有栖川宮織仁親王の息女、茂世姫を夫人に迎えた。現在も現宮司家には茂世姫の輿入の調度品などが残っている。なおこの茂世姫の妹は水戸藩主、徳川斉昭の夫人となった吉子姫である。


「元亨釋書和解」に、
元亨釈書原文テキストは漢文、これはその和訳というが、それでもあまり日本語らしくない、シンボウして読むより手もない。
如意尼は天長帝の次妃にて 丹後国余佐の郷の人なり其居處常の住所なく只山水の間に相羊すされば十歳の時王都に入常に如意輪観自在菩薩の霊場に詣でけり或は衆人多くテン咽すれども 未妃の面を見るものあらずかくて弘仁十三年なりし時帝儲宮に在しけるが春の初にあたり霊夢を得たまひしかば華鳥の使を頂法寺に遣しこれをして物色しめてそれよりついに妃を得たりさてしも妃は宮中に入れたり然るに其容儀きわめて端麗にて婦の徳はた柔順なりれれば帝は敬んで寵愛したまへりされは妃其性もとより慈仁にして尋常肉味を遮り好んで檀施を行へり平生沐浴せされども其體すべて垢つくことなく天香自然に身にニホひ?物のたぐひを不用けるさて如意輪咒を持ちて乙れを日課の勤とせりさあれば帝も又如意輪の像に奉事しおはします一時帝如意輪法を修したまひしに七日を期とし眞身を見るべしとその願いちじるしかりければ第六の夜の夢の中に天童子白して言陛下大悲の眞身を見まく欲せり第四の妃こそすなはち是なりとありしかり。覚て後ますます敬重を加ふさればにや妃、専寵栄なりといへども志はなを山林に在ける さてたまたま一七日が間如意輪供を修せられしに第七の後夜にあたり持誦の時において目を閉れにコウ然として空中に妙音の聞ゆ其告に曰摂州に寶山あり如意輪摩尼峰と号す昔神功皇后新羅を征して還りたまひし時如意珠及び金甲冑弓箭引寶剱衣服等を埋む故に亦此所を武庫といふ 汝盍彼に居ざるやとありしかば妃其言を聞て目を開きこれを見るに端正の天女白龍乘白雲を引從へ西南に向って飛去り妃は心にこれを怪み且またこれを喜べりさればこの天女と云にまさしく大弁才天なのさてその白龍はまた石像と変じけるが今猶此地に在さる程に此所に役小角の旧跡なりけり然るに天長五年二月十八日の夜妃件の夢の事を以て宮女二人と共に潜に宮を出で摂州に赴く其時金吾校尉橘親守後從たりさて南の河辺に到り舟に乗んと欲するところに舟人すなはち妃嬪の荘麗なるを看て怪み恐れさてフネを不艤逃去んと擬すれに舟聊不動しゆへ已ことを不得してこれを載たりけるかくて明日攝州南宮の浦に著たりしかに妃舟より下で先南宮の神祠に詣でられけるかヽりし時神は殿の戸を啓きて妃とうやうやしく清談したまへりしかも二女のみこれを見ことを得て餘人はすかつて知ことなし此日又廣田神祠に詣でられければ 神又戸を開くこと宛南宮の如しさて次の日には山に入られたりける然る間山の西北に池あり池の中に五色の光を出す池の辺みな白石にしてまさしく玉に似たり摩尼山の前に小き峯あり此所にて大蛾に逢り進んで摩尼峯に登れば紫雲来り覆ひける然るに一りの美女ありり來りて曰此山を究竟摩尼霊場といふ四神相応の勝区なり されは我珍宝を此地に藏め置ぬ故に毎日禺中には我必此地に降るよろしく道場を立べしと言巳つゝ山を下るがごとくして忽ち不見けりこれまさしく廣田神の化身なりけり 時に妃大ひに喜びて梵宇を営み構へられければ其郡の中おしなべて官吏及び富民までも期せざるに自来り財を傾け力をアハせたりしかば三十三日にして其造作落成しけりさる程に妃及び二女こヽにて精修を励し如意輸陀羅尼を誦じて昼夜に間屬なかりけりされば山の西にありし一の峯に大ひなる鷲鳥の棲たりさて黒雲つねに峰を覆ひ時々ホノオを出すことありされば一時炎ホノオ飛来つて堂宇のあたりに近づき逼りし時妃香水を以これにソソがれければ其火やのづから退きける又黒雲の中より竒異なる神来れり其體八面八にてはなはだ怖畏るべきものなりかれ道場を毀らんと欲す時において妃身心不動漸これを供化せられたりさる程に妃の宮を退出で後帝しきりにこれを尋ねたまへども得たまはざりしゆへ便尚書右丞眞王に勍して厳しく尋ね索めましますゆへついに山をさして入つヽ帝の意緒を宣下せしに妃は眞王に語りて曰妾すでに 宮掖に近侍してより夙に山野を志すところに幸に今素性を遂侍るなり何とて帰参の輦に駕しまふすべきや又帝日頃如意輪尊に帰依したまひしに妾今また此地に在て此法を修しぬれば多くは?情に乖かぬ子細にて侍るぞかしと眞王は宮に還り事の由を奏せしかは上に潜然として涙を下志たまひけりされば妃そのかみ宮に在し時恩寵ことに比びなく今此所に逃るといへども荐に存問を賜ひければ諸の后妃はいふせくも嫉妬の情を懐き山中の房舍を焼払んと謀るところに上此事を知しめして眞王に勅し佯つて山下の茅屋を焼たりければ諸の后妃は遙に煙の揚るを見て以爲これ眞の房を焚けるぞとこれより妬忌の心もすなはち止たりける今其焼たりし地を呼で世俗みなこれを焼寺と曰りされば比歳十一月に妃は空海僧都を請じ山に入て一七日が間如意法を修せられたりかゝりけれは第三の夜にあたり月輪の径三尺なりしが紫雲に乗て道場の壇に入けり同き六年正月に妃入壇灌頂せらる又七年二月十八日には秘密灌頂を受らるさて三月十八日には妃如意輪の像を造らんと欲して山路を行其用ふべき木を相ながら山の頂に至るところに大ひなる桜の樹ありてしかも光を放ちけり時にあたりて妃は喜悦の心ながら奇怪の情を懐きすなはち空海闍梨を招ひてその木の所に到らしめらる此時空海桜の所に就てうやうやしく持誦せらるゝに中夜にあたりて大に地震せしかば須臾の間に桜の木山の南に移れり空海其地に即て像を刻むとて妃の身の分量を取てこれを手本とし凡日数を経ること三十三日なり妃は此間日夜に如意輪咒を持ち未かつて暫もたへず礼拝すること又日夜共に各三千の数を勤む已してこの像ついに成りされは空海の像を刻まれし時偈を以て讃じて曰敬礼救世如意輪理智不二微妙體不捨造悪諸衆生三世有情同利済と其時像の樸たちまち点頭たまへり然るに妃一妃空海に語りて曰此山の西の峯三鬼あり麁乱神と号すかれ常に法の障をなせりこれを如何いたし侍らんと空海の曰東の谷に大石あり其上に就てこの神を供ずるきははた無事なるべきと妃その教に從はれければ爾後神また障を不為けれかゝるところに妃又問て曰常住仏法の守護神は何の天にてか侍ると空海の曰大弁才天女是なりとさるに因て妃すなはち天女の法を受てこれを修せらる然るに第七の夜にあたり天女まさしく十五の童子を率ひて降臨すその時前の峯俄に黒雲起りて三の障碍神雲中に現じけり妃又祭りの供を設けゝれば神すなはち隠れて不見これ摩尼山の前なる大蛾なりける其後海師は如意寳珠法を修せられけるに弁才天女又西北の大石の上に降居せりかくて誓て曰我此山に住して一切貧乏の衆生のために財宝を施さんとかゝりければ同き八年十月の十八日に妃は海師を居請志て大殿を落慶せらる空海時に偈を唱へて曰 峰有摩尼如意寳大聖爲利諸ゞ衆生普雨一切珍財其入此地者得豊栄と妃又合掌して曰自性阿字不二門中有大寶名如意吾献大悲菩薩前歓喜納受施一切と此日に於て妃自髪を束ねて三分となす一は大悲の像に献じ一は宮中に奉の一は空海師に施すさてすなはち空海に就て剃落し具足戒を受法諱は如意といへりこの時二女も同時に剃髪して一りは如一といひ二りは如圓と曰かくて三尼はそれより来持誦することたゆみなくますます以て勤めける故に此所を号して神咒寺と名づけたり然れば承和二年正月に帝山中に幸なりける此如意は御座に對して法理を演説したりければ皇情大ひに悦びたまへりさればにや此時扈從の人はなはだ多く盛なり其中になを大中太夫和眞綱ありさる程に如一はこの尊綱の女なりけり然るに宮を出て後未相見へざりしが此處に到りぬれば父子はじめて遇けるゆへ悲といひ喜びといひ其情こもごも相合へりかくて三月二十日五更の時なりしに如意は南方に向ひ趺坐して如意輪咒を誦じつつ合掌して化を取り年はこれ三十三なりけり然るところに妃甞一つの篋を蓄へられしを人ついにその裏面を見ることを不得されは世に曰けやうは天長元年大ひに旱せし時守敏空海後先を相競ひ法のアマゴヒを修することあり空海は其節妃の篋を得たりしゆへこころよく此秘奥を修せり故を以て雨の澤ひなを天下に治かりけるされは妃と同き閭に水江浦島子と云者あり妃よりもすでに數百年先の者なり然るにかれ久志く仙郷に棲たりける所謂蓬莱といへる者なりさる間天長二年に及びてただちに故里に還りけりさればこの浦嶋子曰妃の持れしところの篋は紫雲篋と曰ものなりとかかりけるに空海桜の像を刻まるる時妃其篋をかの像の中に藏められけり
論曰或人言浦島子称妃篋名夫妃篋恐非神仙之器乃是密乗之秘願也故弘法大師得此能降天長之旱雨浦島子只是蓬瀛之一寶耳 何容易而知之乎予曰梁僧傳曰史宗者世号麻衣道士後一道人甞海塩令請一小皃−將去條忽之間至一山上屋中有三道人相見共語小兒不解屋中人作書付小児與麻衣小児還後令問所經兒曰道人令我捉杖飄然而去或聞足下波浪耳并説寄書事令開看都不解乃令小児書與史宗宗披書大驚曰汝那得蓬莱道人書耶由是而宮蓬莱又有比丘耳浦島子縦不委篋中丿而知其名不為過而巳
割注は略、表記できない漢字はカタカナ、よく読めない部分はテキトーです。
詳しく読みたい方は、国立国会図書館http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816409
18巻 682頁から8頁にわたり記載されている。→








原文テキストを勝手に引かせてもらいました。

「◆禅文化研究所 黒豆データベース◆
◎『元亨釈書』
◎入力底本:『訓注 元亨釈書』(虎関師錬原著/藤田琢司編著、禪文化研究所、2011.11)
http://shop.rinnou.net/shop/A125/QSgyt6ZbX/syoinfo/679
◎入力者:禪文化研究所 http://www.zenbunka.or.jp
◎備考:
 ・【】で括られた番号は入力底本に付されている通番。
 ・Pのあとに続く半角数字は、入力底本の頁数を表わす。ただし、便宜上、文節がページ
  をまたがる場合には、直後の句読点の後に付した。
 ・校訂は訓読本文に従った。但し意改・他史料による訂正は不採用。」

によります。
如意尼者、天長帝之次妃也。丹州余佐郷人。居無常處、相羊山水之間。十歳入王都。常詣如意輪觀自在菩薩靈場。或衆人~#U95d0咽、未有見妃面者。
 弘仁十三年、帝在儲宮、春初得靈夢、遣華使於頂法寺、物色而得妃。妃入宮。儀容端麗、婦徳柔順。帝敬嬖焉。性慈仁、盤撤肉味。好行檀施。不沐浴體無垢。天香自然、不用薫染。持如意輪呪爲日課。帝又奉如意輪像。一時、帝修如意輪法、期七日願見眞身。第六夜夢、天童子白言、陛下欲見大悲眞身、第四妃即是也〔第四妃意也〕。覺後益加敬重。
 妃雖專寵榮、志在山林。適一七日、修如意輪供。第七後夜、持誦時閉目~#U6033然。空中有妙音告曰、攝州有寶山。號如意輪摩尼峰。
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昔神功皇后征新羅而還、埋如意珠及金甲冑弓箭、寶劍衣服等。故亦曰武庫。汝盍居彼。妃聞言開目、端正天女、乘白龍擁白雲、向西南飛去。妃怪喜焉。蓋天女者大辨才天也。白龍變石像、今猶在此地。又是役小角之舊趾也。
 天長五年二月十八日夜、妃以夢事、共宮女二人潛出宮赴攝州。金吾校尉橘親守爲後從。到南河畔欲乘舟。舟人看妃嬪莊麗、怪恐不艤船欲逃去。而舟不動。不得已而載之。明日、著攝州南宮浦。妃下舟詣南宮神祠。神啓殿戸、與妃晤語。而二女得見餘不知。此日、又詣廣田神祠。神又開戸、宛如南宮。次日入山。山西此有池。池中出五色光。池邊皆白石似玉。摩尼山前有小峰、逢大蛾於此。進而登摩尼峰。紫雲來覆。有一美女、來曰、此山曰究竟摩尼靈場。四神相應之勝區也。我藏珍寶於此地。毎日禺中、我降此地。宜立道場。言已如下山而不見。是廣田神之化現也。妃大喜營搆梵宇。合郡官吏及富民等、不期自來傾財勠力、三十三日而落成。妃及二女、於是精修、誦如意輪陀羅尼、晝夜無間。
 山西一峰有大鷲鳥。黒雲常覆峰。時時出焔。一時、炎焔飛來逼堂宇。妃以香水灑之、其火自退。又黒雲中異神降來。其體八面臂、甚可怖畏。欲毀道場。於時妃身心不動、
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漸供化之。
 妃出宮後、帝尋之不得。便敕尚書右丞眞王、嚴加搜索。入山宣帝緒。妃語眞王曰、妾自侍宮掖、夙志山野。幸遂素情。豈駕歸輦。又帝頃歸如意輪尊。妾亦此地修此法。不多乖叡情乎。眞王還宮奏。上潸然。妃在宮時、恩寵無比。雖逃於此、荐賜存問。諸后妃懷妬忌、謀燒山房。上知此事、敕眞王佯燒山下茅屋。諸妃遙見煙、以爲焚眞房。妬心乃止。今其燒地俗曰燒寺。
 此歳十一月、妃請空海僧都入山、一七日修如意輪法。第三之夜、月輪徑三尺、乘紫雲入場壇。六年正月、妃入壇灌頂。七年二月十八日、受祕密灌頂。三月十八日、妃欲造如意輪像、山行相木至山頂。有大櫻樹放光。妃喜怪交集。即延海闍梨到木所。海就櫻所持誦。中夜地大震。須臾櫻木移山南。海即其地刻像。取妃身量爲準。凡經日三十而加三。其間、日夜妃持如意輪呪、未曾暫斷。禮拜又日夜各三千。已而像成。海刻像時、以偈讚曰、敬禮救世如意輪、理智不二微妙體。不捨造惡諸衆生、三世有情同利濟。于時像樸點頭。
 妃一日語海曰、此山西峰有一鬼。號麁亂神〔前八面臂者〕。常作法障。爲之如何。海曰、東谷有大石。就上供神無事也。妃從教。爾後、神不爲障也。妃又問曰、常住佛法守護爲何天。
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海曰、大辨才天女是也。妃即受天女法修之。第七夜、天女率十五輩童子降臨。時前峰俄起黒雲、三障礙神現雲中。妃又設祭供。神乃隱。是摩尼山前大蛾也。其後、海師修如意寶珠法。辨才天女、又降居西北大石上。誓曰、我住此山、爲一切貧乏衆生施財寶。
 八年十月十八日、妃屈海師落慶大殿。海唱偈曰、峰有摩尼如意寶、大聖爲利諸衆生。普雨一切珍財具、入此地者得豐榮。妃又合掌曰、自性阿字不二門、中有大寶名如意。吾獻大悲菩薩前、歡喜納受施一切。此日、妃自截髮束、爲三分。一獻大悲像、一奉宮中、一施海師。就海剃落受具戒。法諱如意。二女同時薙染。一曰如一、二曰如圓。三尼爾來持誦益勤。故號此所名神呪寺。
 承和二年正月、帝幸山中。如意對御演説。皇情大悦。扈從甚盛。大中大夫和眞綱在焉。如一者眞綱之女也。出宮後未相見。到此父子始遇、悲喜交合云。
 三月二十日五更時、如意向南方趺坐、誦如意輪呪、合掌而化。年三十三。妃嘗蓄一篋。人不得見裏面。世曰、天長元年大旱。守敏空海、後先相競法~#U96e9。海得妃篋修祕奧。以故雨澤洽天下。妃之同閭有水江浦島子者。先妃數百年、久棲仙郷。所謂蓬莱者也。
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天長二年還故里。浦島子曰、妃所持篋曰紫雲篋。海刻櫻像時、妃藏篋像中。

 論曰。或言、浦島子稱妃篋名。夫妃篋恐非神仙之器。乃是密乘之祕~#U8cfe也。故弘法大師得此、能降天長之旱雨。浦島子只是蓬瀛之一賓耳。何容易而知之乎。
 予曰。梁僧傳曰、史宗者世號麻衣道士。後一道人、嘗投海鹽令、請一小兒將去。倏忽之間、至一山上。屋中有三道人。相見共語。小兒不解。屋中人作書付小兒與麻衣。小兒還後、令問所經。兒曰、道人令我捉杖、飄然而去。或聞足下波浪耳。并説寄書事。令開看都不解。乃令小兒送書與史宗。宗披書大驚曰、汝那得蓬莱道人書耶。由是而言、蓬莱又有比丘耳。浦島子縱不委篋中而知其名、不爲過而已。

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丹後の伝説55
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