丹後の伝説:57集
−小野小町伝説−


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『丹哥府志』
五十河村
【小野山妙性寺】(曹洞宗)
寺記に云。小野山妙性寺は小野小町の開基なり、往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ、小町老いたる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふ、其辞世として
九重の都の土とならずして  はかなや我は三重にかくれて
 愚按ずるに、小野小町は其生出本来詳ならず。或曰。小野良真の女なり、仁明帝承知の頃の人、年老たるに及で落魄して相阪山に死すといふ。又小野常澄の女なりとも伝ふ。或の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す時に年六十九才とありよし。徒然草には小町は極めてさだかならずといふ、其衰へたるさまは玉造といふ文にありしと袋草紙に見へたれども此説には論ありともいふ。かようなる事は考ふれどもいまだ丹後に来たる事をきかず、されども養老三年初て按察使を置く時丹波国司小野朝臣馬養丹後、但馬、因幡の三国を管す、其養老年中より小町の頃までは僅に百年斗りなり、これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ據るなきにしもあらず、其終焉の地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ處を見るに古代の墳墓と見へたり恐らくは其終焉の地ならんとも覚ゆ、後の人これに増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して近號を拵ふ、これよりいよいよいぶかしくなりぬ。

『両丹地方史60号』94.10.30
 小野小町の伝承について
   大宮町文化財保存会 田上 信治

序文
 大宮町五十河には、五十日真黒人の伝承がある。五世紀末、顕宗・仁賢天皇が幼き時、雄略天皇の迫害を丹波国余社郡に避け(日本書紀)豪族五十日真黒人に保護されたという伝承である。平安時代になると同じ五十河地方に、六歌仙の第一人者といわれる才媛小野小町の終焉の地の伝承がある。小町については各地に墓があるが根拠は薄い。京都府立大の赤瀬信吾助教授は、深草の少将は架空の人物だが、小野小町は実在の人物であるといわれている。実在の人なら終焉の地は一カ所でなければならない。何故、小町の墓が各地にあるのか。民俗学の一説では、中世全国を語り歩いた一種の巫女集団があり、小野氏も語部の有力な一族であったであろう。その語部の巫女たちが各地を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えたことによって、各地に伝説が生まれたとしている。開基小町について、先代の妙性寺住職は、小町終焉の地、七カ所を調べたが、いずれもその根拠が薄く妙性寺の小町伝承程、確証のある所はなかったという。私は小町に最もゆかりが深いといわれる五カ所を調査し、「五十河の里小野小町の伝承」を発刊したが、ここでは簡略に記す。

一、京都市随心院(山科区小野御霊町)
 随心院は真言宗の大寺院で、本堂に小野小町文張地蔵尊(小町作と伝える)と、小町晩年の姿を刻んだ卆塔婆小町座像(鎌倉時代)が安置されている。また、寺より少し離れた所に、往昔、小野家の邸宅であったと伝える「小町化粧の井戸」がある。群書類従に小町は小野篁の孫にあたり、出羽の国司を勤めた良実の娘であると記され、日本人名辞典には、出羽の郡領小野良実の娘で、仁明の朝、五節の舞姫として後宮にあり、容貌秀絶にして和歌を巧にし女流第一の名手なりとある。
 小町は弘仁六年(八一五)頃生まれ、仁明帝が東宮の時から崩御される迄、更衣として寵愛を受け、嘉祥三年(八五○)仁明帝崩御後、仁寿二年(八五二)宮仕えを辞して小野の里に退きこもり晩年をおくったという。最も有名な深草少将百夜通(ももよかよい)の話も伝えられている。後世、六歌仙の第一人者と評され、小倉百人一首の「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに」があ
る。小町も仁和(八八五)・寛平(八八九)の頃、七十歳を越して亡くなったと伝えている。

二、京都市 補陀洛寺(左京区静市市原町)
 補陀洛寺は小野小町が晩年に「われ死なば焼くな埋むな野にさらせ、やせたる犬の腹肥せ」と、世の無常を詠んで死んだ地だという。小さな本堂の中心に「小町老衰像」と称して老いぼれた姿の高さ約一米の木像が安置されている。ここも小町臨終の地といわれるが、住職は何も根拠はないが、この近辺で亡くなったという伝説があり、この像も約四百年前に刻まれたもので、それから小町終焉の地になったようだという。この寺の僅か上に高さ二米余りの五重の石塔があり、小野小町供養塔(鎌倉時代作)で、その下段にも小さな五輪塔があり、「深草少将供養塔」と記されている。なお、寺の入口に「小野皇太后供養塔」が建っている。当寺案内書には如意山補陀洛寺は天慶八年(九四五)朱雀天皇御代第十五代天台座主延昌僧正の発願で創建。その後焼失、廃寺となったが再建され、小野小町終焉の地として「小町寺」とも通称されている。美人の誉れ高い小町が晩年流浪の果てに昌泰三年(九○○)四月一日この地で亡くなったと伝えている。

三、京都府井手町の小町伝説
 井手町の小町伝説は冷泉家記などにより、井手に在住したことがほぼ確実と考えられるが、墓所は確実とは云えない(井手町)。「日本文学にあらわれた井手町」と題する書籍で、小野小町と井手……仁明・文徳・清和(八三三−八七五)の頃、歌人として伝えられている小野小町は複数の小町の存在も考えられている。謡曲拾葉抄〔大井忠恕、明和九年(一七七二)刊〕の関寺小町の条には『宇治殿物語云、小野小町が事、一旦大江惟章が妻たりしが、心かわりせしにより仁明の御子基蔭親王に仕え、住吉にいて尼となり、その後、井手寺の別当の妻となる」とある。光広卿〔烏丸光広、天正七年(一五七九)〜寛永十五年(一六三八)〕の『百人一首抄』に「小野小町の終わりける所は山城の井手の里なりとなん」とあり、また『冷泉家記』には「小町六十九歳於井手死す」と記され、『国書総目録』によると冷泉家記は内閣文庫に写本があるのみで刊本はない。寺島良安の「和漢三才図会」〔正徳五年(一七一五)刊〕にも「小町仁明天皇承和の頃小野良実の女。死於相坂。」冷泉家の書「死於井手六十九歳」とある。現在、上井手の玉津岡神社参道の脇に「小町塚」と呼ばれる小さな塚がある。「色も香もなつかしきかな蛙鳴く、井手のわたりの山吹の花」これは小町の歌として勅撰集にも載っている。井手寺に遺骸を葬ったというが、現在はその寺はなく、薬師堂や大門等の字名が残っている。

四、秋田県雄勝町の小町伝説
 邦光史郎氏は、自民党の「りぶる」(昭和六三年発行)の中で、「小町の塚が雄勝町小野にあるというが、ここに葬られた確証はない……」としている。雄勝町の伝承では「小町は出羽国の桐の木田で生まれ、特別美しい娘で、十三歳の頃都に上り…宮中に仕えた。容姿の美しさや才能に優れていることで、時の帝に寵愛されたが三十六歳の時、小野の里に帰り庵をつくって閑居し歌にあけくれていた……」と伝えられている。桐の木田は雄勝町にあり、今も古式の井戸がある。六月の第二日曜日が小町祭りとなっている。

五、群馬県富岡市の小町伝説
 この町の得成寺は山号を小町山と称する真言宗の寺で、小野小町の開基と伝えられている。小町が晩年諸国行脚をし、この地で倒れ庵を設けて仏道修業による闘病生活をしたと伝え、この庵が寺の草創で小町山普済寺と称した。やがて庵は荒廃し、鎌倉期に「心全和尚」が高野山から不動尊を招来し現寺院(得成寺)となったと伝えている。また、ここには薬師像が安置され、小町が諸国行脚の折に病に倒れ、この地で病気回復を祈り仏助を請うたところ、病はみごと完治したので小町は塩を納めたと伝えられている。以後、塩薬師と呼ばれるようになったという。小町山得成寺の裏庭に化粧の井戸があり、晩年の小町が朝夕その水で顔を洗ったことによって健康をとりもどしたといわれ、抜髪を埋めて塚としたものが小町塚であると伝えている。以上が富岡市の観光案内書である。

六、京都府大宮町五十河の小野小町
 当地は往昔小野家の所領であったと伝えているが、随心院領が「丹後国田数帳(略)」に記されているところから何等かの関係が伺える。「丹哥府志」に「寺伝に云う。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりという。小町老いたる後、此地に来りて卆す。法名を妙性という」とある。
 当寺に小野小町の像を祀り「当寺開基見得院殿小野妙性大姉」の位牌があり、裏面に「住昔之位牌破損矣今也正徳二年壬辰(一七一二)初冬日妙性寺現住丹流改之」と記されている。ちなみに位牌の大姉号は新しいと云われるが、裏面の「位牌破損……」を尊重したい。なお、当寺はもと内山の妙法寺がこの地に庵を建立し寛文年間(一六六一〜七二)の頃、曹洞宗に改宗した。三世眠竜和尚が本堂を建立したが焼失し、現在の本堂は九世僊乗和尚による文政六年(一八二三)の再建である。五十河小字波迫に薬師堂があり、本尊は薬師如来である。小野小町終焉の地に小町の秘仏薬師如来を祀ったと伝えられ、小町薬師ともいう。八月十六日には、小町の供養のために盆踊りをしたが、今は衰退した。
 この地に老後の小町が生涯の幕を閉じる結果となるが、妙性寺の二つの貴重な寺宝に「小野小町姫」と書かれた巻物一巻と開基小野小町の位牌がある。巻物には朴淳軒(位牌名、江戸期)が小町伝説を詳しく語り、了然居士(位牌名)がその要点を書き綴り、これを基に寛政頃の住職、雲謄眠龍和尚が老後に記したものが、この巻物である。眠龍大和尚は妙性寺が宮津の智源寺の末寺となってより第三世をつがれた高僧で、その後、曹洞宗中本山、舞鶴の桂林寺住職となられ、老いて和江の仏心寺に移り、ここで書かれたと伝えている。内容は平安の昔、五十河の里に、上田甚兵衝なる人がいた。所用で上京し、帰りに福知山の宿で小野小町と同宿し、凡ゆる点で徒(ただ)人ではないと思い、素性を聞かせて下さいと、自らも丹後国三重の庄五十日村の上田甚兵衛と申す者と挨拶すると、小町も「昔は出羽の郡司小野良実の娘小野小町とは私のことです」と涙を呑んで語られた。それより小町を案内して五十日の里に帰ってきた。幾日か甚兵衛家で過し、旅の疲れも癒されたので、天の橋立、世屋山成相寺の観世音に参り、歌の一詠も奉りたい、と。翌朝、甚兵衛は小町と共に五十河から岩滝へ通ずる長尾坂を越えようとすると、小町が腹痛で苦しみ、どうすることも出来なくなり、南無三宝と念じ乍ら小町を背に負い峠を越えたので、「小野負坂」と申すようになったという。しかし、薬王薬上の験なく辞世一首筆を染めて「九重の花の都に住みわせて はかなや我は三重にかくるる」としるし御終焉になった。上田は遺骸をおさめ、内山の里、高尾山妙法密寺を喪主とし、小野妙性大姉の石碑を建て云々、とある。この巻物の内容について、○大姉号、○上田甚兵衛の名、についていろいろ云われるが、要は、この伝説が長く育てられ、語りつがれたところに何よりも意義があると思う。

結び
 各地に残る小町伝説も諸説が数ある中で、それぞれが伝説を保存し続けた民衆の力がすばらしい。五十河でも小町を丁重に葬り一寺一を建て小町を開基とし、現在も崇め供養を続けている、この小野山妙性寺。あの世にある小町の霊も、この五十河の伝承で、かすかに美しい笑みを浮かべて安らかに眠っているのではなかろうか。


『大宮町誌』
 小野小町塚
  小野小町の塚は五十河の入口東側の小字「はさこ」にあり、一畝程の埋立地の中に二基の石碑を奉祀している。高さ九二p、幅六○pの小型の一基は上田甚兵衛造立のものと伝えるが、現在磨滅していて僅かに上田甚兵街と判読できるに過ぎない 大型の碑は表に「小野妙性大姉」と彫刻してあり、高さ一m五○p、幅五○pの自然石である。この石は曹洞宗妙性寺の門の側にある万霊塔の石と同一の石を折半して造られたと言い、事実この碑には折半して割られた跡がある。万霊塔に「正徳三年建之」の日付があるから従ってこの小町碑も正徳三年(一七一三)の造立であろう。なお、田を埋め立てて一畝程を整地したのは昭和五五年夏で、その前は木の少しある一坪余りの草地に五輪の台石と高さ六○p余の自然石の「上田甚兵衛」と刻む碑と「小野妙性大姉」の石碑の二基が祀られていた。(五十河沿革誌)
 さて、小野小町の手蹟については先人の説の如く極めてさだかでなく、終焉の地についても諸説紛々として確かな事はわからない。嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)出羽の郡領小野良実の女として出生、七歌仙の中唯一の女流歌人として名高いこと及び代表的美人であったという伝説くらいしか知られていない。
 「徒然草」に疑っているように「玉造小町壮衰書」という小町の晩年の事を書いた漢文の書物は作者不詳の偽作ではないかといわれている。謡曲には小町を題材にしたものが五番ある。その中「草予洗小町」は古今集序を主材として盛時の小町を猫き、「通小町」は古今集の顕照の注から深草の小将の百夜通いの伝説が作られており、その他「卒都婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」は老衰落魄の小町を取扱ったもので、いずれも「玉造小町壮衰書序」から出たものと言われる。しかし、「玉造小町壮衰書」は徒然草にある如く弘法大師の作とは信じ難く、一般に偽書とされていて信用し難いのである。
 次に五十河に伝承する小町伝説についての先人の諸説をあげる。
 (村誌)小野小町塚 本村南方字ハザコにあり。東西一間、南北一間、坪数一坪、其中に高さ五尺、幅一尺五寸位の石 塔あり。表面小野妙性大姉の法名あり。建設年干支等無之只管小町塚と伝聞するのみ。 (丹哥府志)小野山妙性寺 曹洞宗
  寺記に云ふ。小野山妙性寺は小野小町の開基なり。往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ。小野老たる後此地に来りて卒す。法名を妙性といふo其辞世とて
  九重の都の土とならずして はかなや吾は三重にかくれて
  愚案ずるに小野小町は其生出本来詳ならず。或曰小野良実の女なり。仁明帝承和の頃の人年老いたるに及て落魄して相坂山に死すといふ。又小野当澄の女たりとも伝ふ。或人の説に冷泉家の書ものには小町は井手の里に死す。時に年六十九歳とありし由。徒然草には小町はきはめてさだかならずといふ。其衰たるさまは玉造といふ文にありと袋草紙に見えたれども比説には論ありともいふ。かようなる事を考ふれどもいまだ丹後に来ることを聞かず。されども養老三年始めて按祭便を置し時、丹後国司小野朝臣馬養、丹後但馬因幡の三国を管す。其養老年中より小町の頃までは僅に百年ばかりなり。これによってこれを見れば小野一族の所領なりといふもいまだ拠るなきにしもあらず。其終焉地明ならざるは蓋鄙僻の地に匿るならん。今其塚といふ処を見るに古代の墳墓と見えたり。恐らくは其終焉の地ならんともゆ。後の人これを増補して少将の宮を拵へ又丹流と僧妙性の二字に文字を足して追号を拾ふ。これよりいよいよいぶかしくなリぬ。
その他「宮津府志」「同拾遺」等は省略する。
 現在五十河に伝わる小町の文書は妙性寺にある「寺記」と同村田崎十一所蔵の「小野小町姫」とである。妙性寺のは一軸の巻物であり、「小野小町姫」は本文一二枚の小冊子であるが、内容は全く同一である。小町伝説を田崎朴淳翁(田崎家祖先)が物語ったのを僧了然が書き留め更にこれを妙性寺第三世雲騰眠竜大和尚が書き綴ったのが妙性寺の一巻である。(眠竜和尚は天保八年示寂)
 その他小町の遺跡として新宮から丹後林道に通ずる坂道を、昔小町が通って来た道というので「小野坂」といい、上田甚兵衛の宅のあった場所を「小野路」と呼んでいる。
「中郡誌稿」に  小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に附会引用せられ、近畿地方の加き小野と称する地あれば某所に 大抵小町の伝説あり。現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野皆其例なり。愛宕郡小野には小野寺と称するあり、卒都婆小野画像等小町に関する書画及び小町の墓と称する宝篋印塔存す。何れも真偽定かならず。
と述べている如く、各地に小野伝説は流布している。これについて民俗字の一説では、中世全国を語り歩いた女性群があり、それは一種の巫女(みこ)であって小野氏はそうした旅の語部の有力な一族であった。その語部の巫女たちが全国を語り歩き一人称で語るのを聞いていた人々は、小町が来たように語り伝えた事によって谷地に種々の伝説が生まれたとしている。
 ともあれ、伝説はその所の人々にとってば心の糧であり誇りでもある。父化豊かな郷土の懐しい物語として長く語り伝えられるべきものである。


『中郡誌稿』
 小野山妙性寺
(丹哥府志)小野山妙性寺(曹洞宗)
寺記に云ふ小野山妙性寺は小野小町の開基なり往昔三重の里は小野一族の所領なりといふ小野老たる後此地に来りて卒す法名を妙性といふ其辞世とて
九重の都の土とならずしてはかなや吾は三重の里にて
 愚按するに…略…
(村誌)寺
妙性寺東西十二間半南北五間面積二百八十九坪、有税地、曹洞宗永平寺末派本村東の方に在り開基小野小町と云ふ創建年号干支等不詳
(宮津府志)小町遺跡、中郡三重村谷の内五十河村の辺小野といふ村あり俗にいふ此辺は往昔小野氏の一族の所領にて小町老年に及びて此の地に来りて卒す、則辞世なりとて
 九重の都の土とならずしてはかなや我は三重にかくれて
又此所に禅院ありて小野山妙性寺といふ、妙性は小町が法名なりといふ、是又山中村和泉式部が遺跡の例なるべし(下略、丹哥府志の「小野良実の女」より「玉造といふ文にあり」までと同文)
(村誌)古跡、
小野小町塚、本村南方はさこにあり東西一間南北一間坪数一坪其中に高さ五尺巾一尺五寸位の石塔あり表面小野妙性大姉の法名あり建設年干支等無之只管小町塚と伝聞する耳
 按、小町は小説的性行の標本にして各種の文芸又は訓話に付会引用せられ近畿地方の如き小野と称する地あれば其所には大抵小町の伝説あり現に山城宇治郡小野、愛宕郡小野、皆其例なり愛宕郡小野には小町寺と称するあり卒塔婆小町図像等小町に関する書図及び小町の墓と称する宝篋印塔存す何れも真偽定だかならず
(実地調査)当時に三十三番観世音織物曼荼羅一軸を蔵す名高し其銘に曰く
神国三十三所観世音菩薩曼荼羅一軸領納
右野納投本州由良湊松原寺箇曼荼羅因詳行者之悲心則招請此行者経緯此事而闢神州百軸之数斯日満散安蔵焉感応不思議時之運也人之幸也偈以啓讃(偈略)
  十有一月   丹後州中郡五十川村小野山妙性禅寺現住僊乗
         野州安蘇郡赤見邑服部氏彌内室母子両行者
         奥州南部和賀郡黒沢尻半揚儀助行者


『おおみやの民話』
 小野小町  周枳 堀 広吉
 昔、五十河の甚兵衛が旅をして、福知山で宿をとっただげな。同じ宿に品のええおばあさんが泊っとって、いるんなことをはなしあって心易うなったそうな。
 何か、いわくありげな老人のようすに甚兵衛さんは、
「どうも普通の人とは思えんけど、できたら身分を教えておくれえな、わしは、丹後の国の五十河の甚兵衛というもんですわあ。」
 百姓しているゴツゴツした手をついてたずねると、
「ほんとにやさしいおことばで恐れ入ります。何を隠しましょう。今は落ちぶれていますが、小野小町というのはわたしのことです。」
 昔を思い出して涙ながらの話に、甚兵衛さんは何もいえず頭をたれているばかりだったそうな。
 甚兵衛さんに連れられてあくの日に福知山を出て、昼ごろには天津いうところへつくと、甚兵衛さんが、
 「この先をいけば橋立や、宮津に行くけど、峠があって不幸道(今の普甲峠)いう難所があるし、北は加悦谷、三重、五十河、わしはこの道を家へ帰るだ。あんたはどうする」いうと、
 「なれん旅で心配です。とにかくいっしょに連れて行つとくれ」いうことで、二人で五十河へ帰り甚兵衛さん宅に泊ることになっただげな。
 しばらくして桜の咲く頃、橋立や宮津が見たいといいなったので、甚兵衛さんが案内して見物に出かけたいうことだ。
 橋立などを見物して、あとはこの次と尾坂峠まで帰ってきたとき、にわかに小町が腹痛になり、いろいろ看病したけど、一向によくならないで仕方なく甚兵衛さんは小町を背おって、苦労して五十河の里にもどってきたけど、とうとう五十河でなくなったげな。
 今でも、五十河には妙性寺というお寺もあるし、石碑も残っとる。




『京都の伝説・丹波を歩く』
 小野小町と小野脇の里   伝承地 福知山市今安
 今から丁度千年程も昔の話、今安野南の山の裏手に当る小野脇に、極楽寺という寺があり、その付近は温泉が湧いていた。
 ある日の夕方、年若い女が顔にも手にも、かさぶたが出来て、あわれな姿でこの地へ迷い込んで来た。付近の山を眺めて、「見聞けば法の声する正明寺物淋しきは小野脇の里」と口ずさんだ。
 日はとっぷり暮れて来たので、どこか泊めてもらおうとしたが、この女の姿を見て泊めてくれる家は一軒もない。
 けれどこの女は顔かたちは、何となく上品な所があり、ことばも雅びなものがある。とある親切な人が、大層気の毒に思い「暫らく休養しなさい」と言って泊めてくれることになった。
 ところが数日たつと、この村にでき物がはやりだした。これは「あの家に女を泊めているからだ」と非難の声が高まって来たので、心配をして「あの山かげの薬師堂で泊まりなさい。食事は家から運んであげましょう」と教えてくれた。
 女は教えられるままに、薬師堂にこもって温水にひたり、薬師さんにお祈りしてみたが、なかなか治らない。そこでお薬師さまに「南無薬師頼む施療の願なれば身より薬師の名こそ惜しけれ」と和歌を作ってお願いすると、薬師さまは夢枕に現われて「村雨はただ一時のものぞかしおのがみのかさそっと脱ぎ置け」と和歌でおきとしになった。女はおさとしの通り、温泉につかって、養生をつづけるうちに、一日一日かさぶたがとれて、美しい姿となって、いずこへともなく立ち去って行ったという。
 後になって、その女は朝廷に仕える女官で有名な歌人、小野小町であったということがわかった。それ以来村人たちは小野小町のかさぶたを治したというこの薬師さまを前より一層大切に信仰するようになった。    (『福知山の民話と昔ばなし」)


伝承探訪
伝説が断片となって我々の生活から消えていくとはいえ、その記念物はこうしていささかでも形をとどめて残されている。そんな感動をおぼえながら小町の祠の前に立った。かつて彼女が瘡を癒したと伝える湯も、今は池となって目の前にある。
 今安の小野脇集落に極楽寺なる寺院があった。『丹波志』には「極楽寺 古跡 今安村内小野脇村 温泉在リシ時薬師ヲ安置」すと記す。今も薬師堂の祠は残り、小野小町の伝説が伝わる。江戸期の福知山の地誌『横山硯』にも、この薬師仏と小町の歌問答は見えている。
 ところがこの瘡薬師の伝説は、全国多くの小野の里の薬師霊験譚としても伝承されている。たとえば遠く離れた群馬県北甘楽郡の小野郷にも小町は滞在したという。業病にかかった彼女が、その地の薬師に祈願して、歌の功徳によって病は平癒したと伝える。〈蓑笠〉に〈身の瘡〉を掛けた拙い歌ではあるが、薬師の霊験を説く歌徳説話でもあるのだ。お世辞にも上手とは言えないが、歌による訴えなればこそ、薬師はその効験を顕すと信じられたのである。
 かくして小町はずいぶん全国を歩いている。ところがおもしろいことにこの伝説はまた、和泉式部の逸話としても広く分布する。式部もまた小町に劣らず全国を歩いたといえる。もちろんこれは事実ではなく、あくまでも民話・説話のなかでのことである。そして各地に彼女たちの塚や墓が残されている。
 こうした伝説の幅広いひろがりは、かつて小町や式部と称する民間の女性たちが、全国を歩いていたことを示している。そして彼女たちはたとえば薬師の霊験譚を各地に語り伝えたのである。柳田国男はこれらの話を持ち歩く旅の宗教者を古代の遊行女婦(うかれめ)の流れをくむ者と決している。
 京都誓願寺はこうした話の集まる所であったらしい。誓願寺の和尚安楽庵策伝の編んだ『醒睡笑』にも、この薬師霊験譚は記録されている。延暦寺の児と本尊薬師仏との歌問答として。こうして説話はさまざまに付会伝承されるのだ。









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