丹後の伝説:46集
イルカとり、舟屋など

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イルカ漁 舟屋

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  イルカとり


 『伊根町誌』
江豚水揚
 伊根湾内で捕鯨とともに「イルカ漁」が行われた。「イルカ」は普通「海豚」と書くが古文書にはすべて「江豚」とあり、大字典に「江」は湾、入江の義で「江豚」はイルカの異名とある。
 イルカ漁に関する記録としては元文四年(一七三九)「未年江豚寄帳」(青島資料館蔵)と他に二冊あり、元文四年四月以降明治三十四年(一九○一)九月までの記録が残されている。イルカが湾内に入る時期は春先に多く、四月から六月にかけて群をなして入湾し、一度に数百本から一○○○本を越える水掲げもあった。元文四年五月十四日に七七九本、同六月七日には一七一四本捕獲した記録が見える。…

 イルカ漁は江戸初期に漁株制がしかれると、平田・亀島両村の有株者(百姓)の権利としてあり、平田三七株、亀島七五株の株数によって利益の配分も行われていたが、鯨を捕獲する権利を亀島村が独占すると、平田村はイルカ漁についての権利をつよめていった。殊に平田村の「刀禰」はイルカの水掲げの一割は必ず特権的に取得していることは注目に値する。…
 イルカを捕獲する方法は二つあって、その一つは湾外でイルカの群を見つけたときは、船に平行して走るイルカの習性を利用して湾内に追込み、船端をたたき、また竹竿を水中に突き入れながら平田湾の横浜(現在の町役場裏の海辺)の砂浜に追いあげ、遠浅の浜辺に人々が鉤をつかったり、だきかかえて陸地へ引きあげた。
 イルカ漁は平田・亀島両村の漁株に附属する権利として行使されていたが、沖合いで見つけて湾内に追込んだ者には「かち賃」と称する追込み賃として一割が与えられた。しかし「大嶋・日出之ものヘハかち賃不遣」と記録され、湾内沿岸に居住する者のみの地先の権利としていた。
 イルカを捕獲する他の一つの方法は、湾内に入ったイルカを「江豚曳」といって曳網で捕る方法で、「江豚曳ハ平田湾ニテ曳候事」と平田湾にて曳くことに決められ、この曳網で捕った場合は三割五分が曳網賃としてあてがわれた。捕獲したイルカは塩乾品として食用にも供したが、主として油をとり、骨・肉・内臓等の残滓は肥料とした。イルカのうち巨大なものは「入道江豚」と称し、油が多くとれたので値段が高く、元文四年(一七三九)の落札価は一本四三匁二分八厘とあり、同年のマイルカは一本六匁三分から六匁九分で小さなイルカは三匁四分五厘となっている。元文四年の米価は一石六六匁であったからマイルカで一本、米約一斗(一五キロ)にあたり、入道イルカは六斗六升余(約一○〇キロ)の値段であった。
 イルカの捕獲にあたっては、イルカの群が湾内に入ると必ず平田湾に追込み捕獲する慣行になっていたが、鯨を捕る権利が亀島地区にあったので、ときには多数のイルカが湾内に入ると亀島地区住民は、鯨であると称して捕獲することもあった。例えば平田の「江豚水揚帳」に「入道江豚百二十本 是ヲ亀嶋村鯨ト申立同村へ取ル」とあったり、明治十七年(一八八四)五月十四日に一一○本のイルカを、「タチカミ鯨」と称して亀島側が捕獲した時には、一五本を平田側に渡して済ましたりしている。…


 『舟屋むかしいま』
江豚(いるか)漁のこと
 鯨だけでなく、海豚(平田区古文書には「江豚」と記されている)も「お間内」に入ってきました。
 海豚は鯨と同じ哺乳動物であり、肺呼吸のため、一定時間毎に水面に浮上します。鯨は普通一頭だけで行動し、悠然と浮き上って息をして沈んでいきます。一方海豚は大群で行動し、多くの海豚が次から次へと水面に表われ、ピョンピョンと跳ぶようにして、呼吸をしては水中に入っていきます。漁師は「海豚の七つ重ね」といっており、水上に見える数の七倍ぐらいいるといいます。
 平田村には、享保一七年(一七三二)から明治三四年(一九〇一)までの「江豚水揚帳」「江豚算用帳」などが残されていますが、それによると、元文四年(一七三九)には、一日に一七一四本もの水揚げをしています。数百本から千本を越す海豚の大群が湾内を泳ぎまわる様は、どれほどか壮観だったでしょう。
 湾内に入った海豚は、「海豚曳」といって曳網で捕りました。「江豚曳ハ平田湾ニテ曳候事」(平田区有文書)と平田湾で曳くことに決められていました。
 海豚は船に沿って走る習性があります。湾外で海豚の群を発見すると、この習性をたくみに利用して湾内に追いこみ、船端をたたいたり、竹竿を水中に突き入れたりして平田湾の横浜(現在町役場のある所)の砂浜に追いあげ、遠浅の浜辺で鉤をつかって引きあげたり、漁師たちが海の中に入って海豚をだきかかえて陸地へ引きあげたりしました。海豚は水の中でだきかかえると、あばれたり咬みついたりせずおとなしかったといい伝えられています。
 捕った海豚は、塩乾品として食用にもしましたが、主として油をとり、骨・肉・内臓などの残滓は肥料にしました。マイルカ一本の落札価は、米約一斗(一五キログラム)代ぐらいてあり、「入道海豚」という大きいのは、油が多くとれたので値段が高く、米六斗六升余り(約一〇〇キログラム)の値段がついています。
 海豚を湾外から湾内に追いこんできた舟には、「かち賃」として水揚の一割が渡されました。又時には「刀祢」(近世以前のむらの勢力家で、持っている特権をその後も維持しているものがあった)が特権的に一割取得しています。
 これらを差引いたあと、平田村と亀島村が獲物を均等に分けあっており、このことは明治までずっと続いています。株数が亀島村七五、平田村三七ですから、実質平田村が亀島村の二倍の権利をもっていたことになります。

↓以前はここに役場があった。平田の横浜
平田の横浜(伊根町)





  伊根の舟屋



↓大正の頃の舟屋と出漁風景(『舟屋むかしいま』)より


 『伊根町誌』(図も)



民家は近泣における庶民生活文化の、最も重要な遺産のひとつであり、その地域の社会・文化と民家は、密接なつながりをもっている。われわれの生活は、古い時代から永い間「家」を中心にした、家族共同体としての生活を営んできたが、民家はその土地の気候風土や、社会的状況によって型式がかわり、また使用材料もちがうなど、永い間先祖から受けついできた生活の知恵が要所に現れ、庶民のきずいてきた生活文化を今にいきいきと伝えている。このように重要な文化遺産としての古い民家も、近年の急激な生活様式の変化によりほとんど失われるようになった。当地方の民家は、大きく分けて漁村型と農村型に分けられる。伊根地区で形態的に最も特徴をもっているのは、舟屋の集落である。この舟屋は、その発生の歴史は明らかではないが、他の地方にある数戸の舟小屋と異なり、伊根地区の舟屋は集落を形成し、現在二三五棟が数えられる。伊根湾は丹後半島の山脈によって、北西の季節風がさえぎられ、湾口の青島は押し寄せる波をさえぎり、四季を通して波穏やかで、それに加えて年中、干満の差が少ないため、舟小屋の内にまで海水が入りこんでも大丈夫なのである。
 図は伊根浦に共通する母屋と舟小屋の一例である。
 舟小屋の階下は、波ぎわに漁舟と漁具などの格納と一部作業場に使用され、手動ウインチで船を引き上げるように装置され、舟屋は日常生活にとっても欠かすことのできない納屋的な役割も持っている。道路からの出入口もつけられ、母屋との往き来は極めて便利になっている。
 昔は、草ぶきの一階建てが多かったが、今ではほとんどが完全な二階建てとなり、二階は、若夫婦のための住居や、老人夫婦の隠居部屋などにも使用され、最近では民宿などにも使用されるようになっている。

平田の舟屋(伊根町)

耳鼻の舟屋

ここはどこだったかな?

立石の舟屋
↑意外とみなさんすぐに飽きてしまう。もっともっとメモリーある限りはシャッターを切り続けないと写真など写りませんぞ。


 『伊根町誌』
伊根の舟屋−−集落の景観と今昔−−


 わかめ刈る与佐の入海かすみぬと
  海人にはつげよ伊禰の浦風  伝鴨長明

 京都府の北部に位置する丹後半島の一端に伊根の海がある。自然の景観に恵まれ、リアス式海岸の若狭湾にのぞんで、古くから漁業で生計を立て、伊根鰤(ぶり)で知られている。
 伊根の海は三方が緑の山にかこまれ、入江をなして、湾の入口中央に、「椎」の古木でおおわれた周囲一・五`の「青島」が横たわり、天然の防波堤の役目を果たしている。
 海は青く澄んで、湾内はいつも波静かであり、周囲約四`の海岸には、伊根独得の舟屋(舟小屋)の集落が、ちょうど、将棋のコマを並べたように建ちならんで、その静かなたたずまいは、南方の島国を思わせる異国的情緒をもっている。潮の干満の差が少なく、年中でも潮の満ちひきは約五○〜六○a程度であり、それに海が急に深くなっているので、舟の出し入れに便利であることなども、舟屋の集落の形成の条件となっている。
 この地に、はじめて住みついた住民は、昭和五十六年、古墳が発掘されたことにより、その古さを物語っている。住民ははじめ、現在の海岸線よりは約二○bほど上の山際に住みついていたが、海を生活の根拠とし、漁業を営む上で便利な海岸近くにおりてきて、山ぞいに母屋を建て、海岸に舟小屋をつくり、すぐに海に出られるようにと考えた。舟小屋は元草葺きの平家で、周囲には縄やむしろを吊り下げた粗末な囲いをして、その中に「トモプト」と呼んでいる長さ七・五四b、幅一・○六b、深さ○・五七bの胴体を黒く塗った細長い型の舟を引き込んでいた。現在、草葺きの平家の舟屋は姿を消したが、「青島」の姪子神社前の海岸に、復元されてその面影残している。
 舟屋の構造は、土台や柱は「椎」の木を用い、梁(はり)は松の原木を使用してがっしりと組んである。舟屋の間口は二隻引、三隻引といって、まちまちの大きさであるが、どの舟屋も妻入姿をもち、海側に小さな一定の窓が見られるのも特色の一つである。舟屋は元来階下に舟を引き込み、二階は縄や網などの漁具を置く物置場であり、雨や雪の多いこの地では、網の干場でもあった。それで二階の床板は張りつめず、階下から網や縄を引き上げやすいように、「歩み板」といって幅三○a、厚さ六aの板を渡し、風通しや水下りに留意されていた。現在、伊根の舟屋の数は二三五棟が数えられるが、昔ながらの舟を出し入れする舟屋のほかに、外見だけは舟屋の構えをしていても、改造して機織りの作業場になっている舟屋もある。戦後、舟屋は次々に新築や改造されて、二階は客間として、床の間付きの立派な座敷がつくられている舟屋も多くなった。
 伊根を訪れる観光客は、まだそれほど多くはないが、民宿を営む家は二十数軒あり、夏が近くなると、魚釣りを楽しんだあと、夕方、二階の窓からカモメの飛び交う海を眺め、一とき心をなごませる。
 それに、料理は鯛の生造りや、ヒラメ、イカの刺身は新鮮で喜ばれている。最近、漁船はモーター船の大型化が進み、舟屋と漁船のバランスが崩れ、舟屋に入ることができなくなって海に浮かべているが、舟屋は伊根の漁民にとって、今後もかくことのできない生活の基盤である。また、個々の舟屋だけでなく、伊根の舟屋の集落の存在は、その景観とともに、重要な文化財としての価値をもち、深い意義をもっているといえる。


『舟屋むかしいま』
舟屋の村・丹後の伊根
 丹後の伊根浦(現・与謝郡伊根町・伊根地区)は京都府の最北端に位置する面積わずか四・一四平方キロメートル、世帯数三六一、人口一四四一(一九八八年現在)という小さな集落です。
 静かな波打ちぎわに、約五キロメートルにわたって、ぎっしり建ち並んだ二三〇軒の舟屋群の景観は、伊根浦を訪れる人々に、強烈な印象を与えずにはおかないでしょう。
 山からすぐ海で、その波打ちぎわを切りくずし、埋めたてたわずかな平地に、道をはさんで、山側に平入りの母屋が並び、海側に妻入りの舟屋が将棋のこまを並べたように建っています。母屋のすぐ裏の斜面、標高二〇bぐらいのところに、寺や神社が配置されています。舟屋の面白さだけでなく、この集落構成そのものが、全国にその例を見ない、貴重な文化財といえるのではないでしょうか。
 海の中に建てられているように見える舟屋は、実は水ぎわぎりぎりに建てられ、舟を引きあげやすいように、地面がななめに切りとられており、海水が二bほど中まで入りこむ構造になっております。
 舟屋は舟や漁具の格納庫であり、漁具・漁網の干場であり、又漁具の整備・出漁準備の作業場でもあります。魚の料理場にもなり、魚の干物の干し場にもなり、農具・農産物・潰けもの置き場など、農家の納屋的役割も果たしています。
 昔の舟屋は藁ぶきで、板や土の壁はつくらず、わらや古縄を下げた風通しのいい造りになっており、二階も低く、床板をはらず、足場板を並べて漁具置場にしていました。最近の舟屋はすべて瓦ぶきに変わり、階下に便所、風呂場がつくられ、二階に居室をつくり、若者・老夫婦の部屋にしているものが多く、客室・民宿にも活用されています。
 どこの舟屋からも伊根湾全体を見渡すことが出来、朝・昼・夜ともそれぞれその眺めは格別です。
 三方を山で囲まれ、南側の湾口に青島があり、どちらの風にも守られる地形になっていること、海岸まで山がせまり、海が急に深くなっていること、潮の満ち干がほとんどないことなどの恵まれた自然条件を生かし、先人たちが、漁業生産に最も適し、生活の場としても便利なように考案し、改良発展させてきたのがこの舟屋です。
 風光明媚なこの眺めの奥に、田畑がほとんどなく、海だけにたよらざるを得なかった、それだけに真剣に漁業一本に生きてきた先輩漁師たちの、きびしく、しかも不屈のたたかいの歴史が秘められているのです。


下の写真はメコンデルタ(ベトナム)の水上生活風景。これと伊根の舟屋が「そっくり」、日本人は南方系だとする説もあるが、これは違うものではなかろうか。
ベトナムは顔つきも同じだし、親戚筋ではあろうけれども、伊根の場合は別に伊根湾上に舟を使ったマーケットやコンビニがあるわけでなく、岡にあがらずに舟だけで一生を生活している人があるわけでもない。
海に向かった建物の構造がたまたま何か似ているような感じというだけと思われる。メコンの場合は舟屋ではなく、これは母屋でなかろうか。
馬も鹿も四本足で似ているからといって、だから同じものというわけではなかろう。















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